第37話 寄り添ってあげたい

 ◇ 1日前(金曜日) ◇


 ――そんなわけで今度こそ明日にお願いします。

 ――わかった。よかったね、引っ越せそうで。

 ――結局、当たり前だけどわたしの気持ちひとつだったんですよ。

 ――彼にとっても記憶が戻って良かったんだと僕は思うよ。だから自分を責めないで。


 葉山さんは本当にやさしい。

 わたしなんか相手にしてくれっこないけど、はじめに出会ったのが葉山さんだったら好きになってしまったかもしれない。

 或いは葉山さんが耀二を好きじゃなければそういうことも――。

 ふふっと笑いが漏れる。


「何考えてるんだよ」

「耀二がどれくらい緊張するかってこと。すごい笑える」

「笑えねぇだろ。俺のいないところで話を進めるなよ」

「じゃあ、いままで通りの関係がよかった? わたしはお嫁に行っちゃうけど」

 耀二は深く吸い込んで、白い煙をくゆらせた。

「俺のところに嫁に来るんだろう?」

「たぶん」

「なんだよたぶんって」

「うちの親が耀二を気に入るかわかんないし、逆もあるじゃない」

「うちは大丈夫だよ。俺は結婚しないと思ってお袋は失望してるからな。喜ぶんじゃないか」

 くくくっと笑う。この人も、人の子なんだなぁと思って。

 世間に怖いものはないって顔してるくせに、母親を失望させるのは怖いなんて意外と人並みだ。


「あ、若白髪」

 起き上がってそっと抜いてあげる。痛いと言って怒った。

「年の差婚だなぁ。お前もっと若い男の方が良くないのか?」

「何言ってるんですか? 自分でプロポーズしたくせに」

 耀二はぷいと横を向いてしまって、表情が読めない。言ったことが意地悪すぎたように思えてきて、Tシャツの裾を引っ張る。ねぇ、と声をかけるとようやくこっちを向いた。

「縁側で一生ふたりでのんびりしよう。ただしタバコはやめよう。そのだな……子供が出来た時に困るだろう?」

「変に具体的じゃありませんか?」

「馬鹿野郎。プロポーズのやり直しだ」

 ふふふ、とまた笑いが止まらなくなって、体を折り曲げていつまでも笑ってしまう。プロポーズってやり直しがあるんだ。知らなかった。

「おい、返事は?」

「返事? そう言えばしてなかったかも。……謹んでお受けいたします」

 そうだ、それでいいと耀二は言った。そもそもあの夜、返事より先にベッドに連れ込んだのは誰だったっけ? わたしからベッドに入ったわけじゃない。


 あの夜から一緒に寝るようなことはなかった。いままで通り、別々の布団で眠った。耀二は「ケジメが大切だ」と言ったけど、わたしは「いまが大切だ」と思った。


 昨日に引きずられるように天気は晴天だった。わたしたちは一番暑い時間に手をベッタリ繋いで歩いていた。

 わたしはよそ行きのワンピース、そこまでしなくていいよと言ったのに耀二はこんな時じゃないと着る機会がないから虫干しだよ、とスーツを着てきた。

 さすがに鍛えているだけあって、背筋がピンと伸びて長身が生きる。つまり格好いい。

 そして気づいたんだけど、格好いい彼氏の彼女は美人じゃないと恥ずかしくないかってこと。

 髪を切る前に比べたら全然ましになったと思うけど、まだまだだ。

 この前病院で買った雑誌をめくりにめくって、人気のあるプチプラコスメを探したり、流行りの形の服を探したりしている。

 こんなにバッチリ着こなされると圧倒される。プレッシャー半端ない。

「有結、最近、化粧濃くないか?」

「こういうのが流行りなの。目ヂカラってやつ」

「まぁいいけど流行りもほどほどにな。元々の良さがわからなくなるぞ」

 気をつけます、と口では言ったけれどあなたのためにだよ、と思う。言葉にはしないけど。


 バスを降りるといまではすっかり通い慣れた病院だった。耀二もよっこらしょ、と後ろから降りてきた。

 誠の病室はあの辺、と指をさす。

「何階だ、あれは」と聞いてきたので「八階、個室」と答える。金持ちってやつか、とブツブツ言いながら、「個室っていうのはいいな。多少やらかしてもバレない」と笑った。

「元とはいえ教師でしょう? 今日はお行儀よくお願いします。向こうのお母さん、苦手なの」

 はい、はいとふざけた返事をして、わたしの手を取る。「行くぞ」と一声かけて。

 エレベーターに乗った時は心臓が口から飛び出しそうなほど緊張した。繋いでる手が汗でべたべたしてくる。でもその汗はわたしのものだけじゃないかもしれない。そう思うと、少し安心した。

 おかしな話、てぶらではおかしいよねとなって葉山さんが「これはふたりで食べなよ」といただいたもうひとつのメロンを箱ごと持ってきた。もちろん葉山さんには内緒だ。


 涼しい病棟の中、冷や汗が滲む。

 本当にこんなことをしていいんだろうか?

 でも彼にも本当のことを知る権利があるはず。

「こんにちは」

「あら有結ちゃん、今日はなんだかオシャレね」

「今日は紹介したい人がいて」


「初めまして。森下耀二と言います。油絵を描いています。有結さんと知り合ったのは私が新任の美術教師だった時で、彼女はその時の教え子でして。教え子の中でも抜群に上手かったのが彼女だったので再会してすぐにわかったんです。それで彼女が宿無しだと聞きまして、私は一軒家に住んでいるので困っているなら、と部屋を貸すことになりました」

 お母さんは「まぁ、なんて破廉恥な」と言い出しそうな顔をして驚いていた。

 誠はじっと耀二を見た。

「誠さんのところを出て、行くところがなかったところにシェアハウスを申し出てくれてとても助かったんです。それで誠さんといろいろあった中で励まして、助言もしてくれて本当にありがたくて。わたし、この人と結婚しようと思っています。たった二週間でそんなに大切なことを決めていいのか、という気はしますが、どうせすぐ結婚するわけでもないし、ゆっくり、二人のペースでやって行けばいいと思っています。お互い仕事も忙しいので」

 ね、とわたしは耀二を見た。俺がみっともないオッサンになるまでにはな、と小さな声で彼は言った。


「有結ちゃん、結婚てそういうものじゃないのよ。『安定』がないと続かないのよ」

「わたしたちの仲は安定してます。それにお互いの絵を尊重しあってます。わたしたちは絵描きなので、そういう形での信頼もあると思います」

 まぁ、とお母さんは口を押えた。

 その間、誠は何も言わなかった。静かに話を聞いていた。そうしていつもの冷静で落ち着いた口調でわたしに語りかけた。

「それが望みなんだ? 俺との結婚は? 家出なんて口先だけだと思ってたのにいつの間にそんな軽い女になっちゃったんだよ」

「軽くないよ。この人は困ってた時に助けてくれた恩人だよ。それから、子供のわたしに『美術を続けろ』って言ってくれたのもこの人なんだよ。それがずっと頭のどこかにあったから、いまでも描けるの······。尊敬してるの」

「たった二週間で何がわかる? 有結のいいところ、悪いところ、全部知ってるのは俺の方だ。俺の方だよ······」

「有結ちゃん、あなた昨日、何か酷いことを言ったんですって? あの後誠がどんなに苦しんだか」


 わたしは耀二の目を見た。耀二はまったく仕方のない奴だな、と思っているようだった。でもわたしは言わずにいられなかった。

「お母さんは誠さんがわたしにした『酷いこと』の全部を聞きたいですか?」

「······なにを?」

「捨てられたのはわたしです。誠さんはわたしに黙ってほかの女性と浮気をしていました。しかも婚約者のいる人です。一度ではなく数ヶ月にわたって。それが原因で『別れたい』と言ってきたのは誠さんです。彼女の方を愛してると言ったんです。わたし、ここまで来ても誠さんのものみたいに扱われることに終止符を打ちたいんです。これが最後。もう誠とは会わない。わたしはあなたのものじゃない。わかったでしょう? わたしの大切な人はもうあなたじゃないの。ここにいるこの人なの。納得してもらえるように頼んで来てもらったんだよ」


「絵描き風情が有結を食わせていけるのかよ」

 わたしは焦って耀二を見た。わたしたちの暮らしぶりは質素で、とても潤っているとは思えなかった。

「一応、絵描きを名乗っているので一枚数十万以上で取引させてもらってます。百以上が付くこともありますが、全部自分のところに入って来るわけでは無いのでまあまあと言ったところでしょうか。いいビジネスパートナーがいるんです。······有結がどうこう言う前に口の利き方を学んだ方がいいと思うぞ。ビジネスマナーだ」

 こいつ、と誠は体を起こした。お母さんが必死で止める。わたしは深深とお辞儀をした。

「長い間、お世話になりました」


 わたしの名前を何度も呼ぶ声が病室に響く。ドアに向かってターンしようとして、ヒールがアンバランスになって倒れそうになる。耀二が背中に手を回して受け止めてくれる。

 わたしだって膝が笑っていた。

「有結! 絶対後悔するぞ!」

「あなたに浮気されてもずっと気づかなかったことを後悔してる! わたしひとりを好きじゃなくなったくせに名前なんて呼ばないで!」

 行こう、と穏やかな仕草で耀二はわたしを促した。完璧なエスコートだった。お陰でわたしは化粧を流さずに済んだ。


 ラウンジは昼間は目が眩みそうに真っ白で、窓の外の緑がいっそう映える額縁のようだった。

 座らせられたわたしは耀二を待っていた。冷たいコーヒーを待っていた。

「危なかったな、てっきり果物ナイフで誰かが誰かを刺すことになるかと思ったよ」

 ははは、と彼は軽やかに笑った。わたしはその態度が少し気に入らなかった。

「笑い話じゃなかったんだから。わたしにとっては人生のかかった話だったんだから」

「この格好で不満だった?」

「全然。すごく格好いい」

「じゃあ文句言うなよ」

 耀二は買ってきたコーヒーをすごい勢いで飲んだ。喉を鳴らして飲むところを見ると、彼も緊張したのかもしれない。


「むかし、アイツが死んだ時、やっぱり同じように非難されたさ、主人公不在でね。だからお前の気持ちを少しはわかると思う」

「······悲しかった?」

「悲しかったよ」

「寂しかった?」

「寂しかった、けどその寂しさにも目処めどがつきそうだ。感謝してる」

 彼にも辛いことがあった。それを支える小さな力になれてよかった。わたしはわたしのしてもらったことのお返しに、一生全力をかけて彼を支えたい。体の大きなこの人は態度も大きいので誤解されがちだけど、中身は繊細で傷つきやすいんだ。

 落ち込んだ時にあのミニ菜園の前で座り込んでいたら、何も言わずに寄り添ってあげたい。いつまでも、いくつになっても。

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