第36話 不自然な思い出
◇ 2日前(木曜日) ◇
出て行くね、と言ってからなんだか慌ただしく二週間が過ぎていった。
耀二は朝ご飯に明太子と野沢菜を食べて二階に上がってしまった。粗食だ。わたしの料理の腕が上がらないからかもしれない。
昨日の夜は葉山さんが泊まっていって、またしても朝早く出て行った。仕事が忙しいということは会社が上手く行ってるんだろう。とにかくバタバタと出て行った。
耀二はあれからわたしに触らない。どういうわけか触らない。後悔してるのかな、と思わないでもないけど……また出ていく準備をしなくちゃいけないんだろうか? それは困るなぁ、と部屋でごろごろする。
受けていた仕事はこれで全部終わった。
ちょこちょこと進めて、ひとつずつOKをもらっていった結果だ。パソコンの時と少しタッチが違っちゃったけど、それもまたいいね、と言ってくれた。お客様あっての商売だ。
アイコンと一枚絵と表紙、人物設定などもろもろで三万ほど稼いだ。なかなかいい稼ぎだ。食費くらいにはなるだろう。
雨の降らない空は今日は晴れ晴れしく、紫外線が突き刺さりそうな強さだ。
日焼けするなぁと思いつつ、ミニ菜園を見ながらごろごろする。そのうちどしどしと足音が響いて、耀二がやって来る。
「なんだ、今日は怠け者の日か?」
「仕事、終わったんで」
「葉山が本当にパソコン買ってくれると言ってたぞ。欲しいものを挙げておけって」
「そんな、悪いです」
「もらえるものはもらっておけ」
葉山さんのようなことを言う。どっちがオリジナルなのかわからないけど、なんだかもやもやっとする。耀二だって葉山さんがいないと困るんだし、ふたりは切っても切れない仲だ。
「……病院は?」
催促は朝から何回か来ていた。
仕事が忙しいので午前中は無理、ととりあえず答えた。誠のお母さんはわたしの仕事を趣味だと決めつけている。まさかこんなに稼いでいるとは思っていないだろう。だからまた催促がきてしまうんだ。
スマホがまたカタカタ言う。
――あんなことを言ったから来づらいとは思うけど、会いたい。返事を聞かせて。
そう言われても、もう心は揺れなかった。耀二は眩しそうな顔をして縁側に座り込んで一服していた。わたしは返事を打った。
――顔を見て話したいことがあるから、午後、行きます。
スマホで済ませてしまったら楽だろうけど、これが本当に最後だから、ハッキリ別れたい。彼がわたしに付け入る隙のないくらいきっぱり。
ここまで引き摺られてきたことを思う。
魔法が解けてしまえば彼はかわいそうな王子様ではなく、浮気性の最低男だった。結婚なんて考えられるわけがない。彼がまた間違いを犯すかもしれないと、毎日怯えて暮らさなければいけない。
その点――。
目が合う。
「耀二は浮気はしない?」
「のつもりだが、それじゃ物足りないのか?」
「したらタダじゃおかないから」
彼の背中をぎゅうっとつまむ。痛いなぁと彼は笑う。わたしなんか彼の手のひらの内だ。どこまで行っても耀二の手の中に違いないと、心地よい束縛感を感じる……。
「ずっと一緒にいようね」
「今度、水着を見に行こう」
「やだ、やらしくないですか?」
「競泳用だ」
まったくもう、こんなんだ。
お昼のご飯を一緒に食べて一時のニュースを一緒にみる。これが正しい生活の仕方のように思える。同じ画面を見つめていることに安心する。
「行くのか?」
「はい、そろそろ」
「外は暑いぞ」
「日傘で行きます」
納得したようでそれ以上何も言わなかった。
駅まで汗を拭きながら歩いて、病院行きのバスに乗る。冷房が心地いい。背中まで汗をかいている。
バスは機械的に何の迷いもなくわたしを病院に連れて行く。どんな時でも。
「今日は会社の人が来てね、僕に仙台への転勤の話があったそうだけど、無くなったからって。有結はその話、知ってる?」
「聞いてたよ。誠はちょっとうれしそうだった」
「そうかぁ。栄転だと思ったのかな。……有結についてきてほしいってもしかして言った?」
「うん」
「そっか、そんな負担があったんなら結婚も考えちゃうよね。知らない土地に連れて行くのは大変な目に遭わせるってことだしね」
そうだね、とオレンジの皮を剥く。お母さんはわたしの顔を見るといそいそと遅い食事に出て行ってしまった。
わたしは指先でオレンジの果汁をカップに絞った。柑橘系独特のスッキリした香りが広がる。
「でもさ、誠、その話の前にわたしに『別れたい』って言ったの覚えてる?」
誠は目をぱちくりさせた。青天の霹靂というやつなんだろうか?
「そんなこと言うはずないだろう? もうすぐ結婚しようと思ってた人に」
「いつものお蕎麦屋さんで奥さんに『早く結婚したら』って言われてなんて答えたか覚えてる?」
「ああ、あの蕎麦屋ね……。そうだね、暑い日に行ったかもしれない」
「じゃあ」
じゃあ――。
わたしは誰も見ていないのをいいことに酷いことをするのかもしれない。でも本当に別れるなら、別れた経緯を覚えていてほしい。
「舞美さんは覚えてる? 大河内さんは?」
「大河内は同期だよ。舞美……舞美は」
「あなた、捨てられたんじゃないの?」
「捨てられたわけじゃない。大河内が強引に仕事を辞めさせて転勤先に連れて行くって――」
「あなたを選ばなかったじゃない? でもわたしはその代わりにあなたの妻になんてならないよ。感謝してることはたくさんあるけど」
ナースコールを押す。
「ちょっと待ってくれ。何かがわかりそうなんだ。だから何度も有結にプロポーズしてるじゃないか。嫌いならしないだろう?」
川嶋さん、どうしました、と看護士が現れて、会話の途中で忘れてたことを思い出しかけてるみたいなんです、と答えた。
「ちょっと待ってくれ。有結、僕しかいないだろう? 引っ越したら家もないし、バイトもこの前やめちゃったじゃないか。有結には僕しかないってわかんないの?」
「明日、会わせたい人がいるの。だからまた明日来るね」
名前を何度も呼ばれていたけれど、あとは看護士に任せて「お願いします」と言った。看護士は「こういう時に混乱はつきものです。お嬢さんのことは思い出したのでしょう?」
「ええ、一番に。ほかのことを思い出してほしいんです。じき、お母さんが戻りますから」
――有結、嘘だろう?
そんな声がずっと聞こえて、医師が安定剤を処方するのを見届けて病室を出た。
真っ白い廊下を歩いていると、お母さんが向こうから来るのが見えた。
「あら有結ちゃん、もう帰っちゃうの?」
「お母さん、誠さん、思い出しましたよ。いま
「有結ちゃんが邪魔になるわけないじゃない! それどころかふたりの思い出がたくさん――」
「素敵な思い出しか覚えてないのって不自然だと思いませんか?」
わたしはそう言うと、乗ってきたバスに戻るため玄関を目指した。
――ああ、とうとう言ってしまった。これで誠と一緒にメリーゴーランドに乗るような日々は一生来ない。楽しかったこともたくさんあった。プラスマイナスしたらプラスだったかもしれない。
それでも――。
許せない思いが一生わたしを焼き尽くそうとするだろう。どんなに結婚後はしあわせだったとしても。
「もう忘れよう」、小さな声で呟いてみる。
そうだ、悪い夢は忘れよう。陽の当たるところで生きていくきっかけをくれた人がわたしをいまも待っている。
「忘れよう」
もう一度、呟いた。
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