第31話 やさしさを被せた別の何か
古い家はいつだってわたしを迎え入れてくれる。なのに今日は、わたしの方が入るのを躊躇してしまった――。
夕飯は焼き鮭と、帰りに買った料理本片手に作ったわかめときゅうりの酢の物、ナスとみょうがの味噌汁。
やればできるものだ、と自分に言い聞かせる。
帰宅すると教師は作業の真っ最中で、「ただいま」と言っても「おう」としか答えなかった。
いつもはこういう時、鬱陶しいくらい絡んでくるのに――。
「先生、ご飯できましたよ」
「わかった。下りる」
ふぅ、と一息ついて階段を下りてくるわたしの教師は、都合の良いことに普段通りだった。いつもと変わらないことに感謝する。
いただきます、をすると無言でご飯を食べ始める。黙々と食べている姿は見たことがなかった。
「先生、味付けどうですか?」
「良くできてる」
万事が万事その調子で、話しておきたいことを話す隙もない。本気で描き始めるとこうなるのか、と半ば呆れて、半ば尊敬する。売れる画家は違うんだなぁ。
わたしのイラストも納期はもうすぐで、パソコンが壊れたということは先方に伝えてある。あとはタブレットでどこまで描けるか、そこが勝負どころだ。
ご飯を咀嚼する音だけが聞こえる。
夜になってぱらぱらと雨が降ってきた。雨の音がますます沈黙を増長させて、仕方なく自分から口を開く。
「先生、彼は目を覚ましました」
箸を持つ手が一瞬止まるのを見た。
「それで? できることはあるのか?」
「いえ、先生には特に。ただ彼は一時的な記憶障害で一連の出来事を覚えてないんです。だからわたし、昼間は病院に行かないといけなくなって」
「おかしくないか? 自業自得だろう?」
「そうかもしれないけど一時的なものだし、あまりショックを与えない方がいいと言われて」
教師はこのタイミングで茶碗を置いた。まだ白米が残っていた。何かを考えている。聞かなくてもわかることを――。
「心が狭いと思うが俺は反対だ。有結を散々傷つけておいて別れ話が現実になりそうになったら都合よく記憶喪失? そんなものに付き合うことはない。先方に断りなさい」
それは強い命令だった。
確かにその通りだし、教師の言い分もわかる。でもいま、不安定な誠を支えてあげられるのがわたしひとりなら、みんなでついているやさしい嘘を本当にしてあげることができるはずだ。
教師は茶碗を持ち上げて残りのご飯をキレイに食べた。いつもする『おかわり』は今日はなかった。そう、いつもと違った。
「有結はそれでその男の妄想に付き合ってどこまでも嘘をつくのか? その男が正気になった時はどうするんだ。どこまでも付き合うつもりなのか? いまならまだ間に合う。なんとかして引っ越しを済ませよう。俺が軽トラを借りるから······免許は一応持ってるんだよ、ゴールドだ」
「······それで?」
「それでもうその男には二度と会うな。どんなことがあったのか忘れてないだろう?」
そう言うと彼は顔を近づけて――あの日にしたような丁寧なキスをひとつした。わたしは彼のものだという印かもしれない。ふたつめのキスを重ねて真正面からわたしを見据えると「俺だって嫉妬くらいするさ」と灰皿を持って二階に上がってしまった。
そうすると急激に寂しさがこみ上げてきて、泣けてきてしまう。狡いことに嗚咽まで漏らしてしまって、防音の良くないこの家で、きっと教師に聞こえてしまうに違いないと思う。
それは恥ずかしさであり、同時に祈りでもあった。いつものように甘やかしてくれないのか、不満に思う。いつからこんなに欲張りになったの?
――それはずいぶん拗れた話になったね。
――正直、どうしたらいいのかわからないんです。彼の笑顔がまた見られるのはうれしいけど、一生を共にするのは違うと思うから。
誰にも相談できなくて、葉山さんに相談している。葉山さんは教師の味方だ。わたしを罵るかもしれない。
――僕も一緒に病院に行こうか? 何かを思い出すきっかけになるかもしれないでしょう?
――ショックが大きすぎないでしょうか? 混乱してしまうかも。
そこでレスが途切れる。
何か用事があるのかもしれない。大丈夫だと言っていたけど、葉山さんは忙しい人だ。
――有結ちゃんは元カレに甘いんだね。でもそれはやさしさじゃないよね。やさしさを被せた別の何かだ。どうしたらいいのかはとっくにわかってるはずだと思うよ。僕からのアドバイスは以上。明日も何かあったら連絡しておいで。
葉山さんは本当にやさしい。
『耀二』をわたしに譲ってくれた。その『耀二』は怒って何も言わなくなってしまった。
わかってる。わたしのはっきりしない態度にイライラしてるんだ。
でも、そんなに簡単じゃない。できればスムーズに思い出してほしい。わたしたちが別れたことを。そして納得してほしい。もう二度と会わないんだということを。
仙台に行くなら誠ひとりで行くといいと思う。
そうしたら彼も自由だし、これまでのことを冷静に考えて、これからを楽しく生きていけるかもしれない。
わたしは仙台には行けない。
もう、教師と離れられない。好きなんだ、あの人が。わたしを心から理解しようとしてくれて、いつでも包んでくれているようなそんな彼を拒絶するなんてできるだろうか?
誠に思い出してほしい。
そしてわたしはこの家にいたい。真っ暗な洞穴のようなこの暖かい家にくるまっていたい。
なんて言ったらいいんだろう? どうしたら誠とお母さんに納得してもらえるんだろう?
教師を連れて行って、誠の浮気話も暴露すればいい?
いずれ思い出すかもしれないけど······そんなことはできそうになかった。
「有結」
まだ作務衣を着ていた教師は描いてる途中だったんだろう。邪魔をしてしまった。
「すみません、うるさかったでしょう?」
「そんなことはどうでもいいさ。大切なのはいつもお前だ」
そしていつもロマンティックだ。ずばり、見失ってはいけないことを教えてくれる。
「わたしも······わたしも先生がいちばん大切です」
「『先生』か、相変わらず背徳的でいい響きだな」
「もう、いいところなのに!」
「そうだ、いいところだ。俺はお前を大切に思ってるし、お前も同じだと言ってくれる。何も問題は無いはずだ。なのにどうしてそんなにあの男に操を立てる? 先に裏切ったのは向こうなのに」
難しかった。
わたしと誠の数年にわたる繋がりを一口で説明できなかった。
勿論それを台無しにしたのは誠だけど、誠だけのせいでもない気もしていた。浮気をされる方にも問題があるってやつだ。『彼女』の座に胡座をかいてふんぞり返っていたのはわたしだ。
せめて誠に、恩返しはしたかった。
「ずいぶん長いこと一緒にいたんです。愛は冷めても情はなかなか消えない。できることをしてあげたい。どうせ嘘なら」
「そうか、そう決めたのか」
向かい合わせに座っていたわたしをぐっと無理やり自分の胸に押し付けて、教師はわたしをまるで「離さない」と言っているようだった。苦しくなる。胸のどこかがきゅーっとして、心臓が苦しい。
「戻って来るって信じてる。考えてみろよ、こちとら十三のお前を心の底にしまったままここまで待ったんだ。数年どころじゃない。時間の長さなんかで比べないでくれ。男として比べられるなら負けても文句は言えないけどな」
ぐっと頬を先生の肩に押し付ける。できる限りの力で。
「先生、わたしが迷わないようにずっとそばにいて」
「お前が望むならいくらでも、望まなくても邪険にされてもそばにいるよ。代わりはいないからな」
しばらくそうしていたけれど、教師は「疲れただろう、寝るんだぞ」と言って自室に帰ってしまった。教師がお風呂に入る水音と、曲名のわからない鼻歌を聴きながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
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