第32話 ただの幻
◇ 3日前(水曜日) ◇
病院行きのバスに乗る。
今日は何かを思い出してくれるかもしれないと期待して、いつも着ていたお気に入りのTシャツとデニムという色気のない格好で行くことにした。
切ってしまった髪は戻せないので、ピンも使って後ろにひとつにまとめた。――思い出してほしいから、全部を。
病室に着くとお母さんは打って変わって朗らかで、「お茶でもいれてくるからふたりで話でもしてて」と出て行ってしまった。いざふたりきりになると、言葉が出ない······。
「想像したことなかったけど、髪短いの似合うね。すごくかわいいよ。かわいい顔立ちが髪をかきあげなくてもいつでも見られる。でもそれは俺だけの特権だったのにな、何年も」
「それは誠が勝手にそう思うだけで、世の中の人はわたしの顔をまじまじ見たいとは思わないと思うよ」
「そうかな。いつも家の中じゃ素顔だったでしょう? 化粧もしてて別人みたいにキレイだよ」
そう、と適当に受け流しつつ、恥ずかしくて耳まで赤くなってしまう。あの日々の中でも髪を切ったら同じことを言われた?
――違う、忘れたらいけない。変わりたいと思った契機は教師がくれたんだから。
「何か食べたい?」
「じゃあ定番のリンゴを」
「意地悪。上手く剥けないの知ってるくせに。第一、まだ果汁くらいしか受け付けないんじゃないの?」
「そうだね」と言って誠はおかしそうにふふと笑った。あの日々が戻ってきたような錯覚に陥る。ぐるぐると時間が巻き戻って、あの日々に――。
毎日がおままごとみたいに進んで、愛を育んでいる気になっていた。少なくともわたしは。
「有結ちゃん、悪いんだけど着替えを取りに戻ってる間、誠をお願いできる?」
誠の実家はここから二時間ちょっとのところだった。いきなりのことに戸惑う。
でもお母さんはもうそのつもりで、いそいそと準備をしている。「よろしくね。有結ちゃんのお陰で安心して出られるわ」そんなつもりで来たのではないのに。
「そんなに心配しなくても我儘を言って困らせたりしないよ」
「そうかな?」
「そんなに僕はだらしない男かな?」
ドキッとする。だらしないどころか、信用のできないところまで行ったのに、いまの彼はそれを忘れている。
「そうだね。この前わたしのマグカップ割ったでしょう?」
覚えているわけがない。
「割ったかな? でも僕が割ったっけ? どっちにしても退院したら気に入ったのを買えばいいよ。お揃いもいいんじゃない? ほら、鍵についてるストラップみたいにふたつでひとつみたいな」
······薄らと覚えてる? しかも舞美さんのことまで? いや、それは邪推というものなのかもと考えるのをやめる。
することもないのでパズル雑誌を買ってきて、ふたりでクロスワードをする。
看護士さんが回ってきて「仲がいいですね? ご婚約されてるんですって? お母様、うれしそうでしたよ」と言われて青くなる。そんな······。そんなつもりじゃ······。「まだ口約束だけで」と誠は返した。
ただ、穏やかに回復に向かってほしいだけなのに、嘘が降り積もっていく……。
お昼もとっくに過ぎて、おやつの時間が近い頃、思いがけない人がやってきた。ストレートの黒髪にピッタリしたスーツが似合っている。ウエストの位置が高いんだ。
「有結ちゃーん!」
その子はわたしの姿を見るとガバッと抱きついてきて、きゃーっと歓声を上げた。
「希理子、病室なんだから静かにしろよ」
「たまには有結ちゃん、借りてもいいじゃない。こんな時でもないと会えないんだから」
「お前、何しに来たんだよ?」
「お見舞い、という名の······」
ふふっ、と軽やかに彼女は笑った。
「もうさぁ、びっくりするじゃない? こんな騒ぎを起こしてさぁ。会社になんて言えっていうのよ。『誤って落ちて』って言ったけどさ」
はは、と苦笑いする。なんていうか、疑って育った誠とは違って、兄妹ながらこんなに違うのかというくらい真っ直ぐで裏表のない子だ。この明るさがたぶん誠には眩しくて目を開けていられないんだと思う。
「じゃあ、ちょっと借りるね」
はいはい、と誠は観念したようだった。
ラウンジに降りていって、ふたりでコーヒーを飲む。売店で買ってきたプリッツを一緒にポリポリ食べながら。
「有結さんさぁ、ぶっちゃけるけどお兄ちゃんと別れるつもりだったんでしょう? いいの、ここにいて?」
希理子ちゃんがどこまで知っているのかわからないのでとりあえず相手の出方を窺う。裏表のない分、話しやすい。
「お母さんがさぁ、『お兄ちゃんが心変わりして』って言っててさ、病院に有結ちゃん呼ぶの悪いんじゃないって言ったんだけどね、『やり直すきっかけ』とか言って馬鹿みたい。お兄ちゃんが二股かけた女って知ってる人?」
「……最初は知らなかったんだけど、バッタリ会っちゃって」
「最悪じゃん。なんでその女は来ないわけ?」
あ、と思った。そうなんだ。舞美さんはここには来ない。なぜならもっと大切な人がいるから。
会社でも今頃、誠の入院はちょっとしたニュースになって騒ぎになっているに違いない。それなのに、この仕打ちだ。誠と舞美さんは本当に切れたのかもしれない……。
「その人、二股だったから」
「最悪! お兄ちゃんも二股でしょう? こういう時に会えないような関係、作ってほしくないよね。大体お兄ちゃんから別れ話しておいて、お兄ちゃんが落ちるっておかしくない?」
「……やっぱりやり直せないかって聞かれたから、無理だって答えたの」
「おかしくない? そんなのおかしいじゃん。二股の彼女に相手にされなくなったから? お兄ちゃんって真面目でお堅いと思ってたのに意外だなぁ。不誠実すぎるよ。でもそれじゃ、有結ちゃんはお兄ちゃんに振り回されてばっかりじゃん。いいんだよ律儀にお見舞いなんか来なくて。お母さんもどうかしてる。こんな時に有結ちゃんに頼んで。有結ちゃんはお兄ちゃんのこと、もう好きじゃないんでしょう?」
胸の奥がぎゅうっと掴まれたような感覚がした。好きじゃない。そうなの? そうなのかもしれない。
いま、仲良くしてるのはただの幻だってことを忘れたらいけない。あの人にだって、わたしに真っ直ぐな愛情はもうないはずだ。
「やっぱり放っておけないじゃない。何年も一緒にいたのに。誠が落ちた時、どうしようかと思った」
「そうかなぁ、はっきり言ってやらないとつけ上がるだけだよ。お兄ちゃんもお母さんもさ。あ、Twitterもインスタも見てるよー。フォロワーどんどん増えてるね。今度暇な時、わたしのアイコン描いて。宣伝するから」
「うん、いいよ。希理子ちゃんは描いてる?」
「描いてるけどなかなか時間が取れなくて。ひとり暮らしってさ、便利そうで不自由。自分のことは全部自分でするでしょう?」
そうだね、と頭のどこかで別のことを考えながら答えた。
希理子ちゃんは小一時間ほど病院にいて、また明日も仕事だからと帰って行った。帰り際に「あんまり有結ちゃんに甘えたらだめだからね」と言い残して。
曇天からパラパラと雨が降り始め、病室の窓ガラスに痕跡を残していく。雨が降ると余計痛かったりするのかしら、と心配したけれど、本人は落ち着いていた。
夕食前のひととき、穏やかな時間を過ごしていた。
「よくわからないけど、落ちた時に助けてくれてありがとう」
「なんも。わたしはなんもしてないよ。……できなかった」
「でも病院に着くまでずっと声をかけてくれてたのって有結だよね? それは何となく覚えてるんだ」
それだけだよ、とわたしは答えた。
怖くてほかに何も出来ることがなかったんだよ、と。次第に俯いて言い訳じみている。
「有結、それでこんなことになってそれがきっかけだなんておかしいんだけどさ、いわゆる九死に一生を得たわけだ。だから······これからの新しい人生を一緒に歩いてくれないか? 有結だっていままでみたいに同棲してるだけよりその方がシンプルで良くない? 勝手な想像だけど、有結のご両親も喜んでくれると思うんだ。結婚しよう? これからもいままで通り、毎日を共に過ごそう」
ごくん、と唾を飲む。この人はどれくらい本気でそう言ってるのだろう? もし記憶が戻った時も同じことを同じように思ってくれるのか――そんな都合のいいことはない。
でもいまの誠は本物の誠じゃない。ショックを与えないように……。
「ごめんなさい、いきなりで驚いちゃって。少し、少しでいいから時間をくれる? 考える時間を」
「いくら長年一緒にいても即OKとはいかないか。まぁいいよ。時間はいくらでもある。待ってる」
お母さんは夕暮れ時に戻ってきたので逃げるように病室を出た。不自然だったかもしれない。そして誠はプロポーズしたことを誇らしげに言うかもしれない。
もしこのまま記憶が戻らなかったら――。
そんなご都合主義の夢みたい話があるわけない。あるわけない、と思いながらバスに揺られて二週間前まで見ていた夢に思いを馳せていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます