第30話 忘却

 ◇ 4日前(火曜日)  ◇


 昨日から連絡が無いので自分から誠のお母さんに連絡する。

 誠の容態は良くないそうだ。また言外に何か言いたいことがあるのをちらつかせる。わたしにやましいことがあるからそう思うのかもしれない。

 ――お見舞いに伺います、とわたしは告げた。

 夏物のワンピースを着て、ささやかな花束を買って路線バスに乗る。先日教師が乗ってきたバスだ。町外れの高台にある病院に乗せていってくれる。

 教師は出かけに「大丈夫か?」と聞いた。それがどういう意味の「大丈夫か?」だったのか、よくわからなかった。けれどわたしは「ひとりで大丈夫です」と家を出た。


 病室に向かう途中、花瓶の水をかえるお母さんを心構えのないまま偶然見つけた。色とりどりの花が活けられた花瓶が、なぜかわたしには色褪せて見えた。

「お母さん」と声をかけると「忙しいのに悪いわね」と憔悴した顔で笑顔を見せた。

 言葉少なに病室への短い廊下を歩く。誠の変わらない容態のこと、離れたところに住んでいる希理子ちゃんは会いに来ていないこと、お父さんは仕事があるので昨日来たっきりとのこと。だからお母さんが独りでこんな思いをしているんだ。

 ――誠の孤独は杞憂なんかではなかったのかもしれない。

 そう思うと胸の中が黒い罪悪感でいっぱいになる。


 ベッドの上の誠はいつものように眠っているようだった。ただ頭も体も包帯で真っ白だった。声をかけたら起きそうな気がして「誠、来たよ」と小さく囁いた。けれど起き上がるわけもなく、彼の瞼は閉じられたままだ。

 とりあえずお母さんに仮眠を取ってもらう。「今日は夕方までいますから」と告げる。お母さんはとても戸惑っていたけれど「これくらいしかできませんから」と言って眠ってもらうことにした。

 そう、ここに来てもわたしにできることは少ない。点滴を打ってない方の手をさする。できるだけ思いが届くようにとさする。


 そんなことで目覚めるなら昨日の夜にとっくに目覚めていたに違いない。売店で買ってきた雑誌をめくり始めた。

 そう言えば髪を切ってから少しはオシャレに気を配ろうと思っていた。

 髪は上手くブローしないと跳ねたし、朝は寝癖が酷かった。教師に見られないようにそろりそろりと洗面所に向かうと、決まって向こうから「おはよう」と頭の上にあの厚い手のひらを置いていった。

 顔もよく見えるようになってしまったので、化粧もしないわけにはいかなかった。もし相手が誠なら長年の付き合いだし、朝からいそいそと化粧に励むことはなかっただろう。

 けど相手は教師だ。朝から薄く化粧をする。パウダーをはたいて、眉をかいて、薄い口紅を塗る。教師ははじめ変な顔でわたしを見ていたけれど、そのうちどうでも良くなったらしく、それに対して何も言わなかった。

 いずれにせよ、長年長かった髪を切らせたのは教師の力で、あの時のわたしは圧倒的に変わりたかったんだ。そしてそれは誠のためではなかった。

 流行りの服、流行りの着回し、流行りのメイク。わたしが避けて通ってきたものたち。どれもこれも新しく見える。

 二十五がお肌のターニングポイント。

 だとしたらわたしはいま、ちょうど気をつけないといけない時期だ。

 ターニングポイント。お肌だけじゃなく、人生もそれを迎えていた。変わっていく、それまで奇跡のように変わらずにいたものたちが。

 ここで軽やかにターンを決めればいい。······でもどこへ? わたしはいまも迷っている。「好きだ」の一言がいえない。


「······有結? 俺、寝過ぎたかな」

 膝の上の雑誌が水のようにスカートを滑り落ちる。

 心の中が見えない何かで満たされていく。当たり前のことがどんなにうれしいことか。とりあえず、驚かせたらいけない。

「今日は仕事は休みだから大丈夫だよ、たっぷり眠って気持ちいい?」

「気持ちはいいけど――あちこち痛いみたいだ」

「ちょっとケガしちゃったね」

 何気ないふりをしてナースコールを押す。お母さんを起こす。

「誠! 誠、生きててよかった! お母さんどんなにあなたを心配したことか――」

「川嶋さん、お気持ちはわかりますが息子さんもびっくりしちゃうんで」


 医師が大股でやって来て、わたしたちは廊下に出た。茶色い合皮のベンチに座ってしばらくお母さんは何も言わなかった。

 だからわたしは「良かったですね」と言った。

「有結ちゃんだから目が覚めたのよ。長年一緒にいたからだわ。ねぇ、ふたりの仲は元に戻れないの? わたしは有結ちゃんなら誠を安心して預けられるんだけど」

 それにはすぐに答えられなかった。状況は複雑すぎたし、元に戻るにはお互い原点から遠いところに来すぎてしまった。それを何と言っていいのかわからなかった。

「あの人? あの一緒にいた人を好きになっちゃったの?」

「いいえ! あの人はわたしの恩人の友人で、わたしの引っ越しを手伝ってくれてたんです」

「どうして引っ越しなんか! 誠に落ち度があったの? 何か気に入らなかった?」

「それは――」

 言った方がいいのか、黙っているべきなのか迷う。本当のことを言う方がなんだろうか?

「誠さんにほかに好きな女性ができて、わたしが出て行くことにしたんです」

「そんなの一時の気の迷いよ。誠には有結ちゃんしか······」

 その時ナースが現れて「どうぞ」と呼ばれた。よかった、悪口を言わずに済んで。危ない流れだった。

 涙するお母さんに誠は戸惑っていた。誠は一時的な記憶障害を起こしていると医師は言い残して行った。彼にはお母さんが泣く理由がわからない。

 ケガの原因は「誤ってベランダから落ちたため」と見え透いた嘘を教えられていた。「恥ずかしいなぁ」と照れ笑いする誠は、ここ二週間のことをまったく覚えていなかった。不思議と舞美さんのことも――。


「有結がどこかに行っちゃう夢を見たんだ。追いかけたくてもこの通り、包帯だらけで追いつかなくて。有結······明日も来てくれる?」

「当たり前だよ」

「イラストは順調?」

「もう少し」

「そっか。じゃああんまり引き止めたら悪いね」

 じゃあまた明日、と病室を出て、わたしはどさっと椅子に座った。

 ――何も覚えてない?

 怖い。そうしたらわたしの世界には教師も葉山さんもいなくなってしまう。わたしはどうなるの? もし彼の記憶が戻らなかったら······。

 誠を愛していないわけじゃなかった。でももう振り出しの無垢なふたりには戻れそうにない。彼がこの二週間を忘れても、わたしが忘れられるわけがない。忘れられないんだ――。









 



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