第29話 待ち人来る

 ◇ 5日前(月曜日) ◇


 葉山さんは仕事なので朝、颯爽と出かけて行った。相変わらず白い車は音を立てずスムーズに走り出した。

 運転席から手を振る葉山さんに頭を下げる。「いろんなことをありがとうございます」と。


 わたしが葉山さんにもらったものは、わたしに制御できるのか不安だけどとりあえずいまはタバコを吸っている。葉山さんの作った小さい農園の前の縁側で吸うタバコが一番上手いんだ、とこの人は言う。

 隣に腰を下ろしてタバコに火をつける。口をつけて吸い込むと、タバコの先がチリチリと赤く燃える。


 誠の容態についてのいい報せは入ってこなかった。

 検査結果、脳に損傷がないこと、アパートとおじいちゃんの盆栽との間にあった植木がクッションになったこと、どちらにしても頭を打ったし手足を骨折していること、そして――意識が戻らないことをお母さんは教えてくれた。

 お願いだから病院に来てほしい、と言外に言われて申し訳ない気持ちになる。


 人を好きになるってことは難しいことばかりだ。

 教師を好きだった絵麻さんは、教師に嫉妬して自ら命を絶った。

 葉山さんは教師の才能を愛し、ずっと傍らにいた。

 誠はわたしがいながら叶わぬ恋に溺れ、受け入れられないとわかるとわたしの元に帰ってこようとした。

 教師は愛する人に先立たれ、そしてわたしと知り合った。教師と生徒という立場で。教師いわく、わたしの絵に心奪われて。

 わたしは――。

 わたしは誠の意識が戻ることを願ってる。またあの明るい笑顔を見せてほしい。何年も共にした肌の温もりが懐かしい。この一連の出来事がすべて夢で、目が覚めたら隣にいるのが誠だとしたらそれを受け入れると思う。

 でも一方、もう教師を無視できない。あんな風によくわからない理由でわたしを強く求める彼に、わたしも強く惹かれ始めている。

 あの人にはきらめきがある。ほかの誰も持っていないような。撒き散らすきらめきの欠片をわたしに落としてくれる。手の中には知らないうちにきらめきがたくさん。


「じゃあいってきます」

「本当にひとりで行くのか? 大丈夫なのか?」

「たぶん」

「たぶんってお前」

 じゃあ、と手を振って家を出た。

 今日はアパートの片付けをする。何かやっていた方が気が紛れると思う。途中のコンビニでタバコを買う。

 思い出ばかりを連ねた鍵を出してドアを開ける。――一瞬、目が眩む気がした。

 わたしがあの時に掴んだのか、誠が落ちた時に引っかかったのか、カーテンレールからカーテンが外れているところがある。

 天気は曇りで湿度は高かった。エアコンをつけて自室に入る。

 昨日のような恥ずかしいことにならないよう、パソコンが置いてあったところやディスプレイの裏側の埃を掃除する。周辺機器をひとつにまとめて箱にしまう。

 季節外れの服や靴、愛読書、イラストの資料。

 そして過去の遺物たち――。可燃物の日に「ポイ」と捨ててしまおうと思っていたのだけど、見てくれる人がいるのなら持って帰ろう。

 さて、よく働いたと、あのいけ好かない女の指したソファにどかっと座ると、一服だ。

 冷蔵庫にあった牛乳の日付けを確かめて、アイスコーヒーを作る。氷たっぷりで。カランカランと氷が揺れる。コーヒーと牛乳が混濁した世界に、水が溶けだしていく。


 ――昼飯は食べたのか?

 ソファテーブルに置いてあったスマホに着信が入る。広い背中を思い出す。ここに来てなお思い出させるとはなかなか手強い。会いたい気持ちが先行して、フリックする指が覚束無い。わたしはあの人の強い思いに追いつくことができるのか、自信がない。

 ――まだなのでコンビニで何か買って食べたら帰ります。

 ――じゃあ途中まで迎えに行く。あのヒップホップの店でいいよな?

 なんだかあの店も懐かしく思える。わたしはカレーの材料のニンジンやじゃがいもの入った足元のエコバッグを足でどかして、そこに座った人。

 ――OKです。もし遅くなったら待ってて。

 ――了解。

『了解』。教師はそんなスタンプは使わない。自分自身の意思を込めて文字を打っている。『了解』と。

 そんな真っ直ぐなところにも惹かれているなんて、本人にはとても言いたくない。

 待たせると悪いのでお昼はパスしてすぐに帰り支度をする。じゃらじゃらした飾りだらけの鍵を出してドアを閉める。思い出を閉じ込めるように。

 ここから店の方が、家から店より近いわけだからわたしが先に着くだろう。そしたら冷たいコーヒーを飲んでゆっくり待てばいい。

 教師はまた履き潰したビルケンのサンダルで大地を踏みしめるようにゆっくりこっちに向かってくるだろうから――。


 驚いたことにヒップホップの店に行くと、わたしより遠いはずの教師がもう来ていて、何やら生クリームのたっぷり乗ったキャラメルラテを目の前にしていた。相変わらずだ。

「いらっしゃい、『待ち人来る』だね」

 何それ? まだ何もはっきりしてないのにほかの人に言うとは!? 信じられない。マスターは奥でにやにやしている。

「何にする?」

「アイスカフェラテで」

「クリーム乗せてやって」

 この人と一緒にいると確実に太ってしまう。どれだけ甘いものを食べるんだ?

「何食べる? どうせ食べてこなかったんだろう?」

「鋭いですね。BLTサンドで」

「甘いもの頼まないのか? 遠慮すんなよ」

「先生、そんなに食べてどうして太らないの?」

 というか肩から背中にかけて、ずいぶん鍛えられている。頼もしい背中。

「サボり気味だけどずっと泳いでるよ。描けない日は泳ぐんだ。水の中にいるといろんなイメージが捕まるからな。だけどお前といるとイメージが洪水になって押し寄せてくるからスイミングは必要ないし……確かに太るかもしれないな」

 なるほど。食事を共にするならわたしも何かした方がいいかもしれない。

「……なんだ、太るのを気にしてるのか?」

「気にするというか、甘いもの食べすぎて血糖値上がっちゃう」

 教師は楽しそうに笑った。その笑顔は眩しすぎて、忘れてはいけないことまで忘れてしまいそうになる。わたしはまだ、この人だけのものになれないのに――。

「この店で知り合って恋に落ちるなんてうれしいね。奢りだよ」

 目の前にふたつのモンブランが置かれた。

 モンブラン……。過去を思い出さずにいられない。

 わたしの目はわたしより正直で嘘がつけない。そんなわたしの目頭から目尻までを、教師の太い指がなぞる。

「泣くほど好きなんだな」

「たぶん」

「じゃあモンブランはこれが最後だ」

 わたしの肩をぽんぽんと叩いて腕を体に回すと、教師はまるで不自然なことなど何もないようにわたしを抱き寄せた。

 マスターが不思議な顔をして見ていたけれど、とにかくわたしたちの仲がいいことは伝わったようで仕事に戻って行った。

 わたしたちは古い恋の思い出と、新しい恋の始まりにクリームたっぷりのコーヒーで乾杯した。モンブランはもう、わたしの好きなケーキじゃない。何だか肩の重荷がひとつ下りたような気がした。


 駅からの緩やかな上り坂をふたりで手を繋いで歩く。

 重い木枠のついたキャンバスは置いてきて、ベニヤに紙が貼ってあるイラストボードを何枚か持ってきたけれどやっぱり重くて持ちきれなくて、教師が代わりに持ってくれる。

「重かっただろう。馬鹿だな。痛いところはないか?」

 筋肉痛の話だろうと見当をつける。

「そうですね……強いていえば昨日、彼の手を強く握っていたのでそこの筋が痛いです」

 ちょっとした意地悪を言った。

 無口になる。

 風もない中、汗ばんでくる。

 わたしは狡い。大切な人を手に入れたのに、まだ誠の無事を祈ってる。誠が死ななくてよかったと心から思っている。

 早く目を覚まして呼びかけたら答えてほしい。またわたしの名前を呼んでほしい。それがどんなに馬鹿げたことかわからないけど――むかしみたいに「愛してる」って甘く蕩けるように囁いてほしい。

「先生、わたしやっぱりだめです。覚悟が決まらない。もしも、もしも誠が目を覚ましたら――」

「それはその時でいいんじゃないか? いまは少なくとも俺たちだけだよ。ふたりであの家に帰って早く一服しよう」

「ちっともロマンティックじゃないじゃないですか!?」

「······ロマンティックが好きならできるだけそうできるように努力はしてみるが」

 真面目な目でじっと見られてドキッとする。いや、思い違いだ。この人はいまのままでも十分にロマンティストだった。芸術家をなめたらいけない。

「ちょ、ちょっと。道端でそういうのはやめてください! 帰ってから、帰ってからでいいでしょう?」

「そうか、お前がそうしたいならそれでもいいけど」

「そうしたい、とは言ってませんから」

 帰り道にスーパーで買い物をしていこうという話になった。なににしようかと話し合って、『お肉が柔らかくなる唐揚げ粉』と鶏肉を買う。教師は袋の裏側を見て自分でもできるのかと暗誦しようとしていた。面白いので放っておくことにした。今夜は唐揚げと冷奴だ。






 

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