第28話 言葉にならない気持ち

 その日は葉山さんの車で古い家に帰った。窓の外の景色はいつも通りで、何ひとつ変わったことはなかった。わたしの世界の中で変わってしまったのは誠だけだった。たった一日で。


 途中、買い物があるからと葉山さんは高い方のスーパーに迷いなく寄った。何かたくさんの食材を手に入れてきたらしく、白いビニール袋の中はパンパンだった。

「よし、買い込み終了。何しろここの住民は放っておくと餓死するからなぁ」

「餓死……」

「米があれば死なないよ」

 くすくすと葉山さんは笑った。確かにわたしの料理スキルは低い。教師を餓死までいかなくても栄養失調にしてしまいそうだ。

「今日は美味しいものを食べさせてあげるから安心していいよ」と、葉山さんは神様のようなことを言った。


 その晩のご飯は『ご馳走』だった。

 おかずはロールキャベツで、ご飯はそこにはなかった。代わりにバケットのトーストが添えられていた。それからスムースなマッシュポテトがたっぷり。クルトンの浮いたオニオンスープ。クノールではない。どこの家だ、ここは、といったテーブルだった。

「耀二と暮らしてるとどうしても和食中心になるでしょう? 若い女の子はこういうものが好きなんだよ」

「うるせぇな。どうせ俺には作れないよ」

 まぁ落ち着きなよ、と葉山さんが言って「いただきます」をした。


 ロールキャベツなんて家で作ったことがない。誠と暮らしてた時に作ったのは冷凍のロールキャベツを買ってきて煮た『なんちゃってロールキャベツ』だけだ。でも葉山さんのは挽肉とキャベツから作られていて、それだけで感動する。ソースはトマト味でマイルドな酸味がちょうどいい。

「金沢さん、どう?」

「美味しいです。どこで習ったんですか?」

「料理本と料理番組。むかしはYouTubeもクックパッドもなかったからね」

「だからひとつひとつがきちんきちんとしてるんですね、きっと」

 葉山さんはにこにことわたしの顔を見るとこう言った。

「『美味しい』って思ってもらえて良かったよ。そう思えるうちは心は元気だってことだから」

「……心配かけてごめんなさい」

「あの場にいたのは僕たちふたりなんだから、お互い様でしょう? 何の遠慮もいらないさ。パソコン、一応修理に出したよ。データ復旧ができるかもしれないしね。それにもしパソコンが壊れてたら僕が新しいものを用意するよ。何しろ未来のうちの作家さんに投資して損は無い。それから、人に甘えられる時は甘えておきなさい」

 いつかそんな言葉を聞いた気がする。要するに葉山さんは面倒見がいい。

 そんな立派な絵、描けませんよと苦笑いする。第一、元々そんなにハイスペックで豪華なパソコンでもないわけだし。あるのは愛着だけだ······。


 よかったな、と教師が言って、わたしの頭をがしがしした。ぼさぼさになった髪を手で撫でる。その頭を教師が撫でる······切なそうな目をして。

「落ちたのがお前じゃなくて本当に良かったよ。もし無理心中なんてことになったら、一緒に行かなかったことを一生後悔した。今日だってそばにいてやれなくて······悪かった」

 葉山さんが見ているのに、教師は覆い被さるようにわたしを抱きしめた。わたしはと言えば、この人はこんなにわたしを好きでいてくれてるんだなぁと遠くから見るように再確認していた。そうしてそっと、添えるようにその背中に手を回した。


 葉山が来てると一服もできない、と言って教師はぶらっと出て行った。またミニ菜園の前にでもいるのだろう。

 わたしは葉山さんが食後に出してくれたアイスコーヒーをちびちび飲んでいた。

 葉山さんは障子が一面朱くなるのをじっと見ていた。夕暮れが足元までひたひたと迫り来るのを、波打ち際でじっと待っているようだった。何か物憂げな横顔は話しかけるのを躊躇わせた。

「金沢さんさ、もう一度、絵を描いたら? 勿論イラストでもいいんだけど。今日も見させてもらった絵の中にいいものもあったよ。学校では評価が悪かった作品でも、刺さる作品てあるからさ。耀二の言う通り、金沢さんの絵は、金沢さんにしか描けないんだよ」

「褒めてもらってうれしいです。でも絵はもうお別れしたというか。今回のこともあるし続けるのは辛いだけかも」

「お金になるよ」

「え!?」

「これでも審美眼はあると思ってる」

 はははっと本気なのかどうなのか訝しく、葉山さんは笑った。それにはわたしがと唸ってしまいそうだった。


 夜が茜空を食らっていく。空の低いところはすでに夜の領域。日は暮れ始めると早い。

 葉山さんの横顔がまた沈んだ。何を考えているのかまったく見当もつかなかった。すごく真剣な眼差しをしていた。

「金沢さん」

「はい」

 また何か言われるのかと思って姿勢を正す。今日は葉山さんに助けてもらってばかりだ。真摯に言葉を受け止めようと心構える。

「考えたんだけど、金沢さんに耀二をあげるよ。と言っても元々僕のものじゃないんだけど。絵麻さんのような人もいたけど、誰も本当の意味で耀二を捕まえられなかった。僕はずっと耀二の絵や才能に惹かれてた。ずっと耀二と耀二の絵を見てきた。僕は画家にはなれなかったけど、耀二の絵から離れられなかった。ほかに、より魅力的なものは見つからなかったんだよ。だから結婚にも興味が持てなかった。人生に耀二さえいれば何もいらないと思ってたんだ」

「なのにどうして?」

「今日、君の絵を見てわかったんだ。耀二がどうしてそんなに金沢さんに執着するのか。……金沢さんが羨ましい。金沢さんには力がある」

「おい、何気持ち悪いこと言ってんだ。有結が引いてんじゃないか。まったく人のことをモノ扱いしやがって」

 わたしは葉山さんの方を見て、否定の意で顔の前で手を振った。

 わたしの隣によっこらしょ、と座った教師からは慣れたメンソールの匂いはちっともしなかった。何か考え事でもしていたのかもしれない。

 教師は葉山さんから見えない座卓の下でわたしの手をぎゅっと握った。

 ――手を繋ぐだけで伝わる思いがあればいいのに。

 でも考えてみると教師から伝わる思いは、もうわたしの期待値をとっくに超えていた。

 わたしから「好きだ」ってちゃんと声に出して言ったことがあった……?

 わたしはもう教師を好ましく思っていた。この人と一緒の人生ならどんなに楽しいかと――。

 誠とのことがきちんと終わったら、ちゃんと伝えよう。世界で一番好きだってことを。大切にしてくれていることを感謝していると。そうして同じくらいあなたを大切に思っていると。

 できるだけあなたを大事にしたいと――。

 言いたい時に言えなくなることもあると、わたしは学んだから。




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