第27話 まだ生きている

 ――ドアを開けると同時に、ベランダから大きな物が落ちた。

 ドサッと重みのある嫌な音がした。

 わたしは信じられなくて部屋の真ん中でその人の名前を呼んだ。

 葉山さんがベランダに状況を確かめに走った。早く確かめたいのに、膝が笑って一歩も前に出ない。

 日曜なのでアパートにいた人は多くて、一階の人が様子を見に行ってくれる。

「大丈夫です! まだ息があります!」

 その人から詳しく何かを聞いて、葉山さんは電話を取り出した。

「金沢さん、ここの住所は?」

 わたしはただ震えていた。

 この間わたしが洗濯物と一緒に干されていた時、下を見たらおじいちゃんの盆栽が並んでいた。あんなところに落ちたら――。

「金沢さん!」

「はい」

「住所」

 それはするすると口から出てきた。まるで誰かが魔法をかけてくれたみたいだった。葉山さんがここにいるように、と言い、外に走って行った。

 怖い······。膝が笑う。

 誠は死んでしまったんだろうか?

 誠に話してないことがいっぱいあるような気がしてきた。家族の中で孤独を抱えなくても大丈夫だよって、もっと言ってあげればよかった。わたしでいいのなら仙台だってどこにだってついて行って孤独から守ってあげればよかった。浮気だって許してあげればよかったのかもしれない。わからない、わからない。最適解がわからない。どこで間違えたんだろう?

 壊れたパソコン、落ちた誠。

 やがてサイレンの音が聞こえてきて、救急隊員の人の声がした。川嶋さん、川嶋さん、······と続けて彼の名を大きく呼ぶ声が聞こえて、そこでやっと足に力が入った。――誠。

 息を切らせて階段を駆け下りる。愛しい人の元に走り寄る。

「あなたはこの方の知り合い?」

「恋人です」

「彼に呼びかけ続けてあげることはできますか?」

「はい」

 はい、それくらいのことで『贖罪』になるなら。だからいなくならないで――。


 どれくらい長い間呼び続けていただろう?

 何度も何度も、何度も何度も名前を呼んだ。

 救急車はなかなか発車しなかった。病院が見つからないのかもしれなかった。

 どうして名前を呼び続けることしかできないんだろう? わたしはあまりにも非力だ。声が掠れてくる。この声を届けたい。いままできっと何度もこの人に助けられてきたに違いないのに、何も返してあげられないなんて。

 誠の手はまだ温かかった。枝でつけたと思われる切り傷が痛々しく、そこには触れないように手をずっと繋いでいた。


 ――いなくならないで。

 もし、わたしたちの『愛の奇跡』があるなら、彼を奪わないでください。


 ようやく救急車が発車する見込みがついたようだった。葉山さんが「車で追走するから安心して」と言ってくれた。肩をぐっと掴まれて「金沢さんのせいじゃないよ」と言われる。

 わたしには判断ができない。

 頷いたら嘘になる。

 これは全部わたしのしてきたことのツケだ。


 救急病院に着くと、今度は知らない椅子に座っているように言われる。ガラガラとベッドや金属音が響き、誠はあちこちに連れ回される。

「しっかりしてくださぁい」という声が目の前を通り過ぎる看護士から聞こえて、まだ誠は生きているようだとほんの少し、安心する。

 だって、あれが最後だなんてあんまりだ。

「金沢さん。病院の中は広いから、見つけるのに手間取っちゃってごめん」

「葉山さん、わたし、取り返しのつかないことを······」

「さっきも言ったけど、金沢さんに責任はないから。もし証言が必要なら僕がちゃんと言ってあげるから安心して。金沢さんのせいじゃないよ」

「葉山さん······」

 わたしは葉山さんにしがみついて、葉山さんはわたしの頭を撫でた。汚したらいけないと思ってた葉山さんのTシャツはわたしの涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった。それなのにやさしく、丁寧に髪を撫でてくれる。「ビックリしたよね」、頷く。

「それだけ金沢さんのことが好きだったってことなのかな?  結局のところ」

「それはどうかな? 舞美さんにフラれて自暴自棄のところに、わたしが別れ話をしたから……」

「別れ話前提だったでしょう?」

 そうだ。わたしは誠から手を引くはずだった。できるだけ早く、遠い所へ消えるつもりだった。

 なのにどうしてこんなことに?

「……寂しいのがだめな人なんです。ひとりになれない人」

「浮気相手も彼のそんなところをめんどくさいと思ったのかもね」

「それはわからない……。本当に、浮気するまでは誠実で明るくてだらしないわたしを引っ張ってくれる人だったの。無理に好きなイラストを諦めて就職したりする必要はないよって言ってくれて。それなのにどうして」

 葉山さんはひとつため息をついた。それは誰もいない廊下で思ったより大きく響いた。

「とりあえずここにいても何も出来ないわけだから、コーヒーでも飲めるところに行こう」


 わたしたちは清潔な照明器具が廊下を照らす中、ラウンジと呼ばれるスペースに来た。

 そこは床も天井も、椅子もテーブルも、全て白くここが病院だということを思い知らされる。

 冷たいカフェオレが喉を通り過ぎる感覚がする。わたしはまだ

 生きていることにこんなに罪を感じるなんて――。どうせ死ぬならわたしのようにつまらない人間を神様は選べばいいのに。

「有結!」

 その場に似合わない足音で現れたその人の姿に安心を覚える。広い背中、大きな手のひら、深い腕の中。

 でもわたしは一歩も動くことができなかった。そこに飛び込めば楽になるのはわかっているのに、足元の地面を蹴飛ばせない。線の内側で立ち止まっている。

「有結、どこも痛いところはないか?」

 首を振る。

「そうか、それならいいんだ。話は聞いてるから安心しろ。すぐに来られなくて悪かった。この病院、大きいくせに駅からアクセス悪くてさ。俺だったらパソコン落としたところで殴ってやったのに。そうしたらこんなことにならなかったのに、葉山の紳士ぶりもたまには役に立たないことがあるんだな。……喫煙所、はないんだよな」

「あるわけあるか」

 ふぅ、とまたため息が聞こえる。このラウンジは今日、ため息の深海に沈んでしまうに違いない。

 誰も喋らない。わたしは立ったままの教師の姿を斜め下からじっと見ていた。涙が重力に逆らえず、真下に向かって流れていく。夏至近い空はまだまだ明るかった。

「お前のせいじゃない。それに俺はお前が生きていてうれしい。生きろ。生きてる者にできるのはそれだけだ」

「でも先生、わたしが死んじゃった方がよかったんじゃない?」

「馬鹿だな。この世は生きている者勝ちだ。俺を見ろ。どうせ全部知ってるんだろう? 恋人に死なれても堂々と生きてる。どんどん歳を重ねている。あの時俺も死んだ方が良かったのか、たまに悪い考えに取り憑かれる。でもそれは考えなんだよ。なぁ、一緒に死んでどうする? そこに残るのは悲しみ二倍だ。誰得だ?」

 大きな手のひらがわたしの髪をかきあげる。情けない顔が全開になる。

「悲しいことを言うな。俺のために生きろ。お前が好きだ。はっきり言うのをずっと迷っていた。何しろお前は若いし、相手がオッサンじゃかわいそうだしな。――でもここで手を繋いでおかないとお前を逃してしまいそうだ。だから」

 だから?


「あんなことがあって俺の心の中はアイツでいっぱいだった。それこそ、一緒に死んでやれば良かったのかと思った。けど惰性で生き続けてきた。そうしたら、見つけたんだ。生きる理由を」

 教師は一葉の少し古い写真をわたしに差し出した。そこに映っていたのは少し若い教師と、幼いわたし、その間にあの自画像が飾られていた。ああそう言えば、あの時展覧会の会場で――。

「お前の絵が俺に生きる意味を教えた。『生』というものがどんなに強いのかということを。それにしがみつくのは恥ずかしいことじゃないってことを。どんな時でも前を向いて歩けってことを。……だからお前は俺の大切な人だ。普通の日々を送るようになってすっかり忘れてた。でも思い出したからきっとお前を街中で見つけられたんだな。あんな偶然、そうそうないってお前も思うだろう?」

 戸惑った。けど頷いた。

「先生、わたし、中一でしたよ。なんか犯罪的。それに……わたしにはそんな力はないです。いまだってまだ自分の過ちを責めてる。わたしはだめです。先生みたいに思えない。······誠にしてあげられることがあるならなんでも。結婚でも、転勤でも」

「それが相手の思惑でしょう? 金沢さん、そんなものにハマったらだめだよ。思う壺だ。自分をしっかり持たないと――」


 コツコツコツとヒールの小気味いい音が近づいてきた。その音はどんどん速くなって近づき、わたしの前で止まった。

「有結さん、誠はどうしちゃったの? そんなことする子じゃないわ。あんな……あんな姿になってしまって」

「川嶋さんですね。僕はその場にいた者です。ご子息は金沢さんとの別れ話がもつれて、ご自分でベランダの柵をまたぎました。残念ですがそれが事実です」

 誠――とお母さんはハンカチを握りしめた。薄化粧にとりあえずまとめた髪、どんな気持ちでここまで来たのか。

「有結さんとそろそろ結婚するものだとばかり。あの子も手を離れちゃうわねって……。何があったの?  何もなかったわけじゃないでしょう?」

「お母さん、わたし、わたし……」

「川嶋さん、すみません。この子も今日は疲れているので勘弁してやってくれませんか?」

 すみません……、と深々頭を下げた。床には涙の雫が水玉模様を描いた。

 とにかく一度帰ろう、と教師は言った。


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