第26話 バックアップ
◇ 6日前(日曜日) ◇
天気予報はいささか外れて、梅雨前線は
教師は朝からつまらなさそうだった。
自分が除け者にされていると思っているようだった。確かにそうかもしれないけど、この家に荷物が届いた時に教師がいないと、部屋に荷物を運ぶのは難しくなる。
だからわたしは「帰ってきたら先生も手伝ってくださいよ」と言うと「俺も行った方が良くないか?」とやはり聞いてくる。
そんなややこしいことにはなりたくないと思っていると葉山さんが「子供じゃないんだから留守番しててよ」とピシャッと言ってくれてほっとする。わたしからは言えない。
いってきます、と葉山さんの車で出かける。こんな車に乗るなんて高級なパソコンですね、と言うと葉山さんは笑った。駅を避けるように線路を渡る道を教えて、歩きとは違ってあっという間にアパートに着いた。
「金沢さんのイラスト、手伝ったんだから見せてくれるでしょう?」
「見せたくなくても部屋には過去の遺物がごろごろしてますよ」
「お宝だらけだね」
お宝ならいいけど、とわたしは笑った。
ふたりで階段を上がる。慣れた階段とももうすぐお別れだと思うと感慨深い。手摺りに無意味に手を置いて上がっていく。手が鉄臭くなるあれだ。
「二階でよかったよ。アパートという名のエレベターなしの五階建てとかだったらどうしようかと思ったよ。僕は耀二と違って非力だからね」
「パソコン、落とさないでくださいよ」
「冗談だよ」
ふざけながら話していると部屋の前に着いてしまって、緊張が最高潮に高まる。これからどんなことがあるのか、思いつかない。
どちらにしても家主は在宅だろう。
ピンポーンと呼び鈴を押すと返事がない。二度、三度押しても同じなので仕方なくカバンから自分の鍵を出す。
じゃらじゃらとしたその鍵を見て、葉山さんは「かわいい鍵だね」と笑った。
部屋に入ると、部屋の中は妙に静かで落ち着いた空気が漂っていた。戸惑いながらわたしの部屋に葉山さんを案内する。初めての人を招くのは緊張する。
「耀二はもちろん来たことないんでしょう? 僕だけ招かれたなんて光栄だね」とおかしなことを言ってまた笑ってしまった。
耀二、耀二、耀二、······。その欠片はここにはなくて少し不安になる。あの大きな手がそばにないことが不安なんだ。
「金沢さん、これだね、お宝」
「嫌だぁ、ゴミだと言ってください!」
そこには学生時代に描いて処分できずにいた絵と、イラストボードにアクリル絵の具で描いたイラストが何枚か立てかけてあった。『過去の遺物』だ。
「······金沢さんさぁ、なんで絵をやめちゃったの?」
「イラストレーターになりたかったから。先生に会った中一の時にもそう言ったから我ながら執念ですね。いまだになりそこないですが」
「金沢さんの絵は、金沢さんにしか描けないものだよ。ぜひ描いてみたらいいと思う」
「めんどくさいですよ、いまさら」
「お金になるよ」
「ほんとに!?」
「僕の仕事を知ってるでしょう?」
仕事の話は聞いたけど、あくまで他人事だったし。自分はその中に入らないものだと思って聞いていたから、そんなことを言われてもちっともピンと来なかった。
それからは言葉少なげにパソコンを外す作業に入った。パソコンの背面が埃だらけで恥ずかしい思いをする。葉山さんのキレイなTシャツが汚れてしまう。
「今日は汚れ仕事しに来たんだからいいんだよ。遠慮しないでね」
あくまで葉山さんはどこでもジェントルでわたしを少しも嫌な気持ちにさせなかった。
よっこいしょ、とふたりで筐体を注意して運ぶ。パソコンの中心部だ。葉山さんも慎重になる。
「それじゃ持ち上げるよ」
いっせーの、と合図をして持ち上げる。
「金沢さん、大丈夫?」
「大丈夫です······」
膝に機体を乗せて、ドアを開ける。
すると部屋の中にはいるはずのない――。
「初めまして、川嶋誠です。自己紹介はあまりいらないと思うんですが······。有結、髪切ったんだね。すごく似合ってる。新しい彼氏ってあなたですか?」
わたしたちは目を見合わせてとりあえず床にパソコンを下ろした。ディスプレイやキーボードが無くてもいいけど、何しろこれが壊れては意味が無いんだ。パソコンが動かなくなってしまう。
「いえ、僕は彼氏代理。葉山と言います。君は絵を描かないの? 僕は絵を売ったりレンタルする仕事をやってるんだ。いまは
誠は下を向いたまま何も言わなかった。デニムのポケットに手を入れて、何かを考えているのか黙り込んでいた。
「有結、転勤は決まったよ。仙台に行く。一人じゃとても行けそうにない。俺のこと、わかるだろう? 有結がいないとだめなんだ」
わたしが何かを言おうと思うと葉山さんが手で制した。何も言うな、と言うようにわたしを背中に庇った。
「金沢さんは君の転勤には着いていけない。理由は君が一番よく知ってるはずだ。悪いけど失礼するよ」
葉山さんがわたしに目でパソコンを持ち上げようと合図をした時だった。
「クソ喰らえ!」
誠がパソコンを蹴り飛ばして、わたしはうっかりそれを落としてしまった。パソコンは、わたしの仕事道具は角から落ちてしまった。
「なんてことするの!? わたしの仕事道具だってよく知ってるじゃない。何年も一緒に暮らしていてわたしの大切なものがわからないの? ひどい! 信じられない!」
葉山さんがとりあえず様子を見てみないことには、と冷静なアドバイスをくれたけれどそれどころじゃなかった。
「どうしてわたしの邪魔をするの? 舞美さんと上手くいかなかったから? ああそう、だからわたしが一番だとか言うんだね。一番だったことなんてとっくにむかしのことだよ。誠からだめにしておいてなんで······なんで······ひどい」
「パソコンには金沢さんの作品が全部詰まってるんだ。壊れていた時には賠償請求も考えるからそのつもりで」
わたしは悔しくて歯を食いしばった。こんなことのために泣きたくなかった。こんな子供じみた嫌がらせに屈したくなかった。
「ごめん、僕がもっと上手くできればよかったのに。バックアップは取ってあるんだよね?」
「······念の為、クラウドにもあるし、物理的にも取ってあります」
「よかった。作品すべてがだめになるかと思ったよ。いまは少なくともクラウドがあるから便利になったよねぇ」
クラウドは便利だ。でもクラウドに愛や思い出は上げられない。バックアップできないものがあるんだ。
車のトランクにそっと、壊れたに違いないパソコンをしまった。あとはペンタブやキーボードなどの周辺機器とディスプレイを取りに行かないと。
また嫌な目に遭うかもしれないと思いつつ、重い足取りで二階に上がる。
――ドアを開けた瞬間だった。
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