第24話 人を食う
◇ 7日前(土曜日) ◇
――酷い雨になるらしいから、パソコンには良くないんじゃないかな? 明日の天気で考えない?
――その方がいいと思ってたところです。心配してくれてありがとうございます。
朝、跳ね上がる雨の中、畑から小松菜を採っておひたしにした。土のついた小松菜にはいのちの息吹を感じる。葉山様のお陰だ。昨日は買い物に出られなかったので、今朝はウインナーと目玉焼き。つくづく献立の幅が狭い。
それでも彼は何も言わず、変わらない顔で食べてくれるからありがたい。
テレビには六時のニュース。電車の遅延情報を流している。土砂降りだ――。
「さすがに買い物に行くか」
「先生、車もないのにこの雨の中無謀ですよ」
「傘がある。リュックがある。有結もいるのにいいものも食べさせてやらないのは罪悪感が募るだろう? こんなに小さいのに」
「立派にもうアラサーですが」
お前さぁ、と手で呼ばれて近づく。大きな手が近づいてきてまたがしっとやられるのかと思えば、今日はそうじゃなかった。
「こんなに小さな頭をして。小学生くらいだぞ?」
「頭の大きさで年齢を決めないでください」
「まぁそうなんだけど何か買ってくる。近い方のスーパーに行くから心配しなくていいぞ」
はぁ、と同意する。さすがに一緒に行きます、とは言わなかった。
「あれ? 金沢さん、その髪は!?」
「······似合いませんか?」
「かわいいよ。顎の細さが出て、前より断然似合ってる。全体的に軽くて明るい印象を受けるよ」
そこまで言われるとなんだかくすぐったくなって、顔を隠したくなってくる。真正面から見られるのが恥ずかしい。髪を切ったので実際少しはメイクにも時間をかけた。
「そうか、切ったんだね。で、耀二は?」
「······買い物に。止めたんですけど」
「馬鹿だな。もう少し待てば車で乗せていったものを」
仕方ないですよ、とわたしは葉山さんにタオルを渡した。
コーヒーを出して、ふたりで座卓に着いた。明日の天気は良くなるのか、パソコンだけでも運べるのか、そんな話をまったりとして、まるで現実が非現実のように思えてくる。
誠と暮らしていた時の方が濃度がこくて、いまは引き伸ばされたテープのようだ。ふわふわして、重みがない。信じられないでいるだけ。捨てる神あれば拾う神あり、なんてことが本当にあるってことを。
「仕事、休んでるんでしょう?」
「そんなことないです。話を詰めるくらいの絵ならiPadでも十分描けますから」
「iPadがあるのか」
「どこででも描けるよう、念の為」
なるほど、と葉山さんは言って、一向にやまない雨を眺めていた。要するにわたしたちにはそれほど話すようなことはなくて、ただただ教師の帰りを待っていた······。
聞いてもいいことと悪いことがある。
それでも大抵の場合、聞きたい気持ちが優先する。
ずっと一緒だった葉山さんなら少しは知ってるかもしれない、ともじもじしていた。
「あれから進展はあったの? ああ、聞かなくてもその髪型が物語ってる? ……まさか失恋したからじゃないよね?」
「そういうわけで切ったんじゃないです。新しい自分になれるかなと思って」
「なるほど。なれそうなの、耀二と」
「わかんない……」
雨音は容赦なく古い家の屋根を叩いて、まるで嵐の深い海の底のような気分にさせる。わたしは不安に思いながらそこに座って、空の向こうを思っている。まったくあの人は無事なんだろうか?
「葉山さんは……亡くなった女性のことをご存知ですか?」
持ち上げたカップを彼は下げた。そうして指で湯呑みを軽く弾いた。
「
「名前は知らないけど……」
彼は障子の向こうにあるはずの紫陽花を見ているかのように目を細めて遠くを見た。相変わらず雨が強くてやはり教師が心配になる。座卓の表面を葉山さんが落ち着かないというように細かく何度もタップする。
「耀二の絵、もう見た?」
「いえ、お互いのプライバシーは尊重し合ってるので」
「そう。あのさ、耀二の絵は前にも話した気がするけど人を食うから。それをみんな『感動』って名前で呼ぶのかもしれないけど、同じく描いてる方にしてみたら
それと、死んでしまったという女性に何の関係があるのかまったくわからなかった。わかったのは彼女の名前が『絵麻』さんだということだけだった。
玄関の扉が開く音がして、不在だった主の帰りを知らせる。
わたしは予め用意していたタオルを持って出迎えた。
「なんだ、葉山が来てるのか」
「はい、ずっとふたりで待ってて」
「じゃあ昼飯は葉山が作るからどんと構えてればいい」
ひどいなぁ、と居間から声が上がった。何が食べたいの、とその声は言った。
「ほら、言った通りだろう?」
とりあえず教師はシャワーを浴びることになった。濡れてないところはないくらいにびしょ濡れで、渡したエコバッグもひたひたになって帰ってきた。
「まったく相変わらず無茶するなぁ」
「いまは『ひとり暮らし』じゃないからな。預かってるなら責任を取らないと」
「まぁいいや、スパゲッティでもいい?」
「ある物なら何でも使ってくれ」
葉山さんは大きな鍋にお湯をぐらぐらと沸かし始めた。それから「ちょっと外に出るね」と言って紫蘇を摘んできた。紫蘇も食べ頃があるから、と言って細かい千切りにしてザルを出した。
「わたし、スパゲッティ茹でますよ」
「アルデンテで頼むよ」
葉山さんらしい笑顔で彼はそう言った。なのでわたしは付き合って、無理ですよ、と答えた。
「おお、いい匂いだな」
「いいところに出てきたな」
「出来たてですよ」
スパゲッティをフライパンからお皿に分けている時、教師は丁度やって来た。バターの甘い香りがぷんと部屋いっぱいに広がる。
「葉山さんの奥さんになる人はいいなぁ」
「結婚したらほとんどする機会はないでしょう。仕事があるからね」
「えー、なんか冷たい。そういうものですか?」
「そもそも結婚する気ないから」
そういう選択をする人もいる。多くは仕事の好きな人だ。それについてどうこう言うつもりはない。
「葉山、お前、結婚しないの? 相手はたくさんいるだろう?」
「結婚より大切なものがあってもいいだろう?」
麺が伸びちゃう、という話になり急いで席に着く。今日のランチはたらこのスパゲッティだ。お店でしか食べたことがないので秘かに感動を覚える。
「美味しいなぁ。どこで覚えたんですか?」
「料理本と料理番組。むかしはクックパッドもYouTubeもなかったでしょう?」
「だから葉山さんの料理はきちんきちんとしてるんですねぇ」
まあねぇ、と彼も満更ではないようだった。
わたしも教師の胃袋を支えるならもう少しスキルアップするべきだと考える。誠との時は、酷い手抜きだとシリアルと牛乳だけだったし――。でもあの時はそれで良かったんだ。お互い学生だったし、一緒にだるい朝を迎えて、冷たい牛乳でシリアルを流し込んで。
「苦手だった? たらこ」
「全然そんなことないです! むしろ感激しちゃって、むかしお店で食べたたらこスパを思い出しちゃって」
「お店のと比べないでよ。向こうはプロなんだからさ」
「これめちゃくちゃ美味しいので今度教えてください」
素直なのは良し、と葉山さんは言った。その間教師は無心にスパゲッティを食べているように見えたけれど、どこかぼんやりしていた。疲れたんだろう。
「こんな雨の日にパンを買ってくるとはねぇ」と言って葉山さんはガーリックトーストを作ってくれた。今度は香ばしいパンの香りが広がる。
「どうせ耀二はスパゲッティじゃ足りなかったんじゃない?」
「よくわかったな」
カリッと焼いたパンは誰のテーブルにも平等にたくさんの粉を撒き散らした。
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