第23話 期待値
◇ 8日前(金曜日) ◇
その日は朝から雨だった。
葉山さんは朝早くから会議があるとかで、ろくに話もせず、挨拶だけして出かけて行ってしまった。
教師と一緒に六時のニュースを観ながら生卵でご飯を食べる。週末は雨で、土曜日はまとまった強い雨が降ると告げていた。「生卵と味噌汁でいい?」と聞くと「いいんじゃないか」という返事がかえってきた。こんな手抜きでいいのか、と思ったけど、豪華な食事を作る気にはとてもなれなかった。納豆は切らしていた。冷蔵庫に入ってた新生姜を出した。
「有結」
「はい!」
「今日から週末、雨みたいだぞ。引っ越しできるのか?」
「······どうかな。葉山さんと相談して決めます」
そうだな、と言ってご飯が物足りなかったのか冷蔵庫から出した煮豆をつつき始めた。スーパーで買った出来合いのものだ。
わたしも一緒にその赤い金時豆を摘む。ん、と教師は皿をわたしの方に少し寄せてくれる。「お茶でも入れましょうか」と言うと、「うん」と言った。
誠の有給は今日までのはずだから、アパートには行けない。プロポーズにいい返事はできないからだ。
誠の中の『誰にも言えない』本当の部分を分かち合えるのは自分だけなのかもしれない、というのは自惚れかもしれない。
でも少なくともいま、それを知っているのはわたしだけだし、それがあっても彼を支えてきたのはわたしだけだ。わたしにしか出来ない仕事なのかもしれない。
だけどいまは、いまはまだ迷っているから。誠の腕の中にするりと戻ることは出来ないんだ――。もしもそうできたら簡単なのに。
雨はそれまで降らなかった分、ざんざん降った。今夜の食事はやっぱり天丼しかないかな、と考えていた。
窓の外の紫陽花が笑う。「何を迷うの?」と。
紫陽花の花言葉は確か『移り気』。まるでいまの自分みたいだ。
雫が重いと、頭を微かに垂れた紫陽花をスケッチする。教師のせいかもしれない。スケッチなんて久しぶりにした。
紫陽花の花を幾つかスケッチして、教師に見せようと思う。思ったより良い出来だったし、相手は元美術教師だ。
「先生」
下から声をかける。なんの反応もない。
「先生」
もう一度声をかける。絵に没頭しているのかもしれない。
邪魔は出来ないので、持っていた色鉛筆で軽く色を付けていく。ピンク、紫。濃いところ、薄いところ――。子供の頃にした塗り絵のような気持ちになる。
「有結、そろそろ飯の時間だけど、また何か取ろうか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと待っててくれれば」
「そうか。仕事に熱中してるのかと思ったから。邪魔して悪いな」
それだけ言うとまた二階から物音がしなくなった。熱中してるのは教師の方だと思う。紫陽花はわたしが描き終わってもまだ水滴をしたたらせてこっちを見ていた。
ごろんとしてうつ伏せの姿勢で頬杖をつく。雨、雨、雨。わたしの中の何かを募らせる。想いを。
どうしたらいいんだろう?
教師に忘れられない想い人がいるならわたしはいっそ誠と消えてしまった方がいいのかもしれない。その方が教師も混乱しないで済む。
誠と一緒にどこかに行けば、思っていたより仲良くやって行けるかもしれない。知らない土地では手に手を取り合って暮らさなければならないだろうし······。かと言って浮気を忘れることは出来ない。一夜の浮気ならともかく、数ヶ月もの浮気。それを無かったことにはできない。
わたしだってそんなに馬鹿な女じゃないんだ。
自分の器量が人より良いわけじゃないのも知ってるし······。
昔から器量に自信がなくて、コンプレックスは髪の毛で隠してしまえばいいと思っていた。その長い髪がわたしのトレードマークとなり、わたし自身となった。
いま、わたしは自分を取り戻す時かもしれない。誰のためでもなく、自分のために――。
お昼ご飯を済ませた後、教師に「出かけてきます」とメモを残して家を出た。電話をすると幸い空いているということだった。
傘をさしても路面から跳ね上がる雨粒が足元を濡らす。肩だってびしょ濡れだ。何もこんな日に、と思うけど、こんな日こそ自分を変えられるかもしれない。
自分のすべてを変えてしまったら、一からやり直しになったら、わたしはどんな風に生きていくんだろう? 教師は新しいわたしを受け入れてくれるんだろうか――?
小一時間後、また傘をさして家に向かう。新しいわたしは何を思うだろう?
「ただいま」
玄関に向かってすごい勢いで走ってくる人がいる。もしも捻挫でもしたらわたしは彼を背負ってあげられないのに。――教師だ。
「有結! 心配したんだぞ。『出かける』の一言じゃどこに行ったのかわからないじゃないか。『いつ、どこに、いつ帰る』は基本だろう? こんな雨の中、一体、どこに行ってたんだ」
まだ扉の外にいたわたしはゆっくり傘を閉めて顔を上げた。目の前の教師は驚いて声も出ないようだった。
「お前、髪……」
「気分転換です」
わたしはだらだらと伸ばし続けた髪を顎の下でバッサリ切ってもらった。勿体ない、と何度も言われながら、それに苦笑いを返して。
正直、頭が軽くなった。このまま悩み事も軽くなるといい。
「とにかく入れ。タオルを持ってくる」
教師は目も見ないでいそいそとタオルを取りに奥に行ってしまった。
こんなに短くしたのは小学生の頃以来だ。教師と知り合った中一の時、すでに髪は腰まであったから。美容室があまり好きじゃなかった。お母さんの行きつけの美容室はなんとなく恥ずかしくて、何度も「どんな風にしたいの?」と聞かれることに慣れなかった。
久しぶりに行った美容室はそれほど悪くなかった。店内が白と黄色という目の覚めるような色合いだったことを除けば、店員は朗らかで親切だったし、髪の長さを提示すれば、それ以上うるさく言われることもなかった。ただ、「勿体ない」とだけで。
「だめですか? これ」
「いや、その、見慣れないだけだ。お前の髪が短いところを見たことがないからな」
明らかに動揺する教師がおかしかった。声に出してくすくす笑うのが止まらなかった。
「おい、笑うなよ。それ以上、笑うなよ。いいか、黙ってろ」
んん、と彼は喉の調子を整えた。
「すごく似合ってる。早く中に入りなさい。ほら、サンダルなんか履いて――」
教師はわたしの手を引いて、そしてわたしをやさしく抱き上げた。ふわっと、乾いたタオルのように。
「似合ってる、本当に」
「先生、そんなこと言うと期待値が上がるんだけども」
「上がってもいいんじゃないか? お互い少しずつ上がってきてるのは隠しきれてないだろう?」
「そんなこと――」
暖かい口付け。雨で冷えた体を温めてくれるような。厚い唇の質量を伴って、それはやって来た。
逃げるとか、逃げないとか、そういうのはなかった。
「俺のために切ってきたんだと思っていいのか? 失恋記念とかじゃないよな?」
わたしの小さなわだかまりを他所に、その日に限って教師は饒舌だった。今日一日、アトリエにこもって一言も発しなかった分、雪崩のように言葉が滑り落ちてきたのかもしれない。
「先生、わたし、新しくなりたい」
「俺にはいつでも新しいけど」
「まだ変われるかな? 遅くない?」
「十分間に合う。若いんだから」
会話はずっと彼の腕の中で行われた。もしかしたら白いTシャツに絵の具が付いたかもしれない。
何しろ教師の作務衣は絵の具だらけだったから。
――新しいわたしになりたい。
足を洗いなさい、とお姫様抱っこで風呂場に連れていかれた。
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