第20話 誓約
◇ 9日前(木曜日) ◇
昨日の夜は結局ぐでんぐでんに酔って泣いてしまって、計画を練るどころではなかった。葉山さんの貴重な時間をだめにしてしまったことを、二日酔いの頭で平身低頭して謝った。
「気にしなくていいよ。ここは来ようと思えばいつでも来られるところだから、まぁ、時間のやり繰りができたらまた今夜にでも」
本当にすみません、と。
こっちから呼びつけたのに何の話もしなかったなんて申し訳ない。
じゃあ、と言って軽やかなエンジン音は消えていった。そして、そこにはわたしと教師だけが残された。
「今日はどうするんだ?」
「さすがに仕事します」
「そうか、偉いな。描いてると余計なことに気を取られることもあるけど、無心になれることの方が圧倒的に多いだろう? お前もそうだと思うよ」
教師なりのやさしさに胸が温かくなる。まるで言葉で抱きしめられているように。
大きな手のひらは今日もわたしの頭に乗ると「がんばってこいよ」とひと言、彼は階段を上って行ってしまった。コンスタントにアトリエにこもっているところを見ると、やっぱり『画家』なんだなぁ、と思う。すごい人みたいだ。
また飽きずにイラストの道具を持って、いってきます、をする。気をつけろよ、とぶっきらぼうな声が返ってきていまは描くことに夢中なんだな、と思う。
ついて行こうか……なんて言っていたのに。
最初は遠く感じた道のりも慣れれば元々知った街中を通るわけで、それほど遠く思わなくなった。アンクル丈のデニムに中途半端な丈のTシャツを来てきたけれど、暑かった。日差しが背中からわたしを焦がす。
アパートの階段を上って、鍵を出そうと相変わらず散らかってるカバンの中からわたしは鍵を探してドアの前に立っていた。
と、ドアが突然開いて驚いた隙にやさしくぐいと引かれて部屋の中にわたしはいた。
――誠?
「今日は来ると思ったんだ」
「仕事は?」
「有給。昨日から有結が来るのを待って三日間、有給取ったんだ。だから何でもできるよ」
「わたしは」
そっと抱きしめられてビクッとしてしまう。想定外の出来事だ。
「泊まっても構わないんだよ。朝まで喋ってても」
つい数日前まであんなに抱きしめられたかったはずなのに、なぜかそういう気持ちにならなかった。ほかの人の入った腕の中に、易々と受け入れられたくなかったのかもしれない。
「仕事に来たんでしょう? 静かにしてるから大丈夫だよ」
「舞美さんは?」
「舞美……? その話は後にしよう」
不自然な空気がふたりの間を通った。
それでもわたしはとにかくやらなくちゃいけないことがあって、その間、彼のことは無視し続けなくてはならない。
無理。
無視なんてできない。
「誠は朝ご飯、ちゃんと食べたの?」
「食べたよ。有結がいなくなってからめっきりパン党。トーストとスティックコーヒーがあればとりあえず済むから。便利だよね、食パン。会社帰りにコンビニでも買えるしね」
「そっか、ならいいけど」
コーヒーを飲むためにお湯を沸かす。自分のマグカップを探して右から左にカップを眺める。
「誠も飲む?」
「もらおうかな」
ない。わたしのイニシャルの入ったお気に入りのカップがない。
「……マグカップ、割れちゃったんだ、ごめん。似たものを買うよ」
「いいよ、向こうにもカップはあるから」
「ここに来る時、使うでしょう?」
言うべきか迷った。大事なことを言う時は六秒迷え。六、五、四、三、……。
「土曜日に知り合いの人の車を借りてパソコンも引っ越す予定なの。その時に一緒に残ってるものも持っていくと思う。だから、……いままでありがとう。そしたらもう二度と会わないと思う」
誠は信じられない、という顔をしていた。まだ一週間ある。ギリギリまで引っ越さないと思っていたのかそれとも。
「住むところ、見つかったの?」
「うん」
「バイトは?」
「まだだけど、絵を描きながら自分に合うところを探せばいいって、その、大家さんが……」
ふぅん、と誠は言った。下を向いていたので、どんな顔をしているのかはわからなかった。お湯が沸いてガスを止める。お客様用カップをひとつと、誠のカップを出した。
「有結はさ、どう思う? 俺は考えてみて、気がついたんだ。やっぱり舞美とは無理だって」
「そう」
スティックコーヒーを二本、それぞれのカップに入れる。
「俺、ほんと馬鹿だった。俺の事を本当に考えてくれてるのは有結だけなのに。それなのに非日常に溺れて、自分を物語の主人公か何かと勘違いしてた」
「チート能力が働いたの?」
「働かない。自分をよく見せようと背伸びしても自分以上にはなれない」
そう、と相槌を打った。
いままでの誠はどちらかと言うと野心家で、コツコツ努力を積み重ねて粘り強く上を目指していた。その彼に何があったのか? 大河内さんとの違いに愕然としたのか、それはわからない。
「だから思ったんだ。俺にはそのままを受け入れてくれる有結しかいないって。有結と別れるなんてどうかしてるって。お願いだよ、いままでの喧嘩みたいに許してほしいんだ。大切にするって約束する」
走馬灯のように、長い付き合いの中、いままでしたたくさんの小さな喧嘩の数々が頭の中をぐるぐる回った。その度にちょっと傷ついて、ちょっと愛情を見直して。そんなことが何回あっただろう?
「いままでの喧嘩とは違うと思うよ」
カップを誠の方に渡しながらわたしはそう告げた。単なる喧嘩とは違うから、わたしたちはいま、別々に暮らしてるんじゃないの。
十一時半の時報が流れて、もうこんな時間、と思う。自由に時間を使えると思ってきたから家を出るのがゆっくりだった。失敗した。
「でもさ、仮に、もし俺が反対に有結の目の前からいなくなったらどうする?」
「言ってる意味がわかんない」
「俺、転勤するかもしれない。そうしたらやり直す転機にならない? 忘れたいことはここに置き去りにすればいい。――有結、やり直そう。そば屋でも言われたじゃないか。どっちの親もそれで安心させてあげられるよ。貯金はいくらかあるし、転勤すれば手当もつく。やって行けると思うよ。······結婚しよう、有結」
「――それは誠意なの?」
「わからない。エゴかも。でもどっちみち有結なしじゃ生きていけない」
「舞美さんは?」
「······大河内に着いていくんだろうよ」
「わたしは?」
「あんなに泣いてたじゃないか」
「あの時は」
あの時といまとではまったく状況が違ってしまった。
あの時、メロウなヒップホップのかかるカフェであの人に会わなければわたしは喜んでやり直してしまったかもしれない。舞美さんのことなんかすっかりなかったことにして――。
でもいまはもうあの人と出会ってしまったし、わたしの人生の選択肢はひとつではなくなってしまった。
コーヒーをすする。熱くて飲めない。この人の前じゃタバコも吸えない。
なんてことだ。いつの間にか会いたいと思う人が反対になってしまったなんて。
「帰る。誠も有給、有意義に過ごして」
「ちょっと待てよ。せめて来週、来週引っ越すって話だったでしょう? その一週間の間にきっと心を変えてみせる。だから帰っておいでよ」
「引っ越しが早まることはないとは言ってない。もう頼んじゃったから。無理だから」
「有結、誓うよ。思い出して、前みたいに楽しく暮らそうよ。有結しか俺をわかってくれる人はいないんだ」
「舞美さんに
誠は勢いを失い、テーブルの上で頭を抱えた。それは彼の罪悪感の顕れなのか?
「――言えなかった」
「そっか」
じゃあまたお邪魔します、とこれっぽっちも進捗のない仕事を持って帰ることにした。どっちみち引っ越せばガリガリ描けるし。それに――。
いまから帰れば教師と一緒にお昼が食べられる。今日は素麺にしよう。
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