第19話 下ごしらえ
◇ 10日前(水曜日) ◇
――昨日は舞美が有結に酷いことを言ったみたいでごめん。今後、有結の引っ越しが終わるまで舞美に鍵を渡したりしないから、安心して仕事をして。
――いろんなことが起きて冷静に対処できなくてごめん。有結にはいろんな意味で迷惑かけてると思ってる。
――有結が良ければ、俺たちの間に新しい関係が築けるといいと思ってる。有結は舞美とは違った意味で大切だって気付いたから。
朝から目が開かない中、わざわざ読みたいメッセージではなかった。そもそも『新しい関係』って何だ? 浮気して別れるのに『続き』があると思ってるの?
……そんなのあるわけないじゃん。
大体、あの女には我慢ならないし。
ソファで? それで? 猥談がしたいなら他所でやってほしい。わたしには不要だ。
そう思ってもどこかがまだ引っかかる。わたしは誠を忘れてはいないし、物は持ち出したとはいえあの部屋はまだそのままあそこにあった。······帰ろうとすれば帰れるかもしれない、と思う自分が憐れだ。
ああ······朝のニュース、一緒に見忘れちゃった。六時に目覚ましをセットしたのにどうしてスヌーズにもせずに寝ちゃったんだろう。
朝ご飯はどうしたんだろう?
「おう、おはよう」
「おはようございます。寝坊してごめんなさい。昨日は······たくさんご迷惑おかけしました」
「迷惑?」
わたしはひとつ頷いた。
「雨の中、迎えに来てもらったり、それなのに子供みたいな真似してみたり」
「子供だろう?」
「もう! 先生の中ではね!」
そう、彼の中ではたぶん、わたしは永遠の十三歳だ。そう言うとロリっぽいけど、そういう意味じゃなく、保護対象みたいなやつだ。
「まぁお互い無理なく行こうや。有結だってそんなに簡単に前の男を忘れたりしないさ。ゆっくり癒せばいいだろう? 時間は無限じゃないけど無いわけじゃない。ゆっくりでいい」
それは誠のことだ。
誠のことをきちんと、精神的にも物理的にも整理しなければならない。そう教師は告げている。この心に、本物の風穴を開けることができるなら誠というフォルダは一度にすべて消去してしまうのに。復元できないところまで削除してしまうのに。
「それでもお世話になってるなんて図々しくないですか?」
「······敬語やめろよ。堅苦しい。名前も呼び捨てでいいよ。俺と葉山だってそうしてるだろう?」
「昨日も言ったけど呼び捨ては勘弁……。十も年上の人をいきなり呼び捨てにはできないじゃないですか。それでその葉山さんなんですけど、土曜日に引っ越しを手伝ってもらおうと思って昨日メールしたんですが」
「俺が手伝うよ」
「葉山さんはパソコンの配線、得意そうだから」
んん、と彼は縁側で俯いた。よく見ると無精髭が残っている。剃り残しだ。
小さな畑は青々としていて、今朝はもうすべて水やりが終わっていた。手持ち無沙汰だったのかもしれない。
「朝ご飯! 朝ご飯、食べたかなって」
「食べた。冷蔵庫に海苔の佃煮があったから」
「お腹空いてない?」
「すぐに昼だよ」
仕事してくる、と言って彼は二階に上がってしまった。二階にはアトリエと彼の部屋があるらしい。居候なので、まだ上げてもらったことはない。
気にならないか、と言われたら気になる。
誰だって他人のプライバシーに触れてみたいものだ。
でも、了承をもらうまでは楽しみに取っておく。まだ見ぬ彼氏の部屋みたいなのもいいんじゃないかと思うし。
……彼氏。
あの教師はわたしの新しい『彼氏』なの? 怪しい。確信が持てない。誠のこととは別に「好きだ」って言われてない。けど言われなくても始まることもある。
そして彼も言っていた通り『簡単に前の男を忘れたり』できない……。
もし彼がわたしの彼氏になってくれたんだと素直に思えるなら、誠の部屋に行くのも、誠に会うのも怖くないはず。
でも怖い。
また誠に縋られたら――。
「なんだ、家にずっといたのか。出かけないのか、今日は」
「……まだなんか怖くて」
教師の大きな手がわたしの頭上に下りる。しっかりした厚みのある手のひらの重みを感じる。
「いっそ一緒に行くか? 仕事できないと困るだろう?」
「……ちゃんと、明日には勇気を持って向こうに行きます。わたしが行かなかったからお昼は美味しいお蕎麦が食べられたんでしょう?」
ははは、と彼は笑った。拳ひとつは入りそうな口の大きさだった。あの唇が、と思うと、夜の中の出来事だったのに生々しく感触が蘇ってきて······。
「晩ご飯はなににする?」
「先生の食べたいものは?」
「さぁ。絵を描いてる間に考えておくよ」
よいしょ、と立ち上がるとあの口で、あの唇で「ごちそうさん」と言って二階に上がってしまった。これじゃなんだか置いてきぼりだ。
仕事の邪魔はしないつもりだけど――。
そばにいてほしい。不安だから。
静かなエンジン音がして、一台の車が停まった。最近の車のエンジン音はすごく小さい。葉山さんの車だと、高そうな分、余計に静かに感じる。
「金沢さんの手料理をいただこうと思ってがんばって早く来たんだけど、夕食はもう終わっちゃった?」
「葉山さーん」
意地悪をされてわたしは泣きたくなる。約束が違う。
「嘘、嘘。ちゃんとお持ち帰りにしてもらったよ。暇そうな会社の子見つけて見繕ってもらってきたから」
『美味しいものを持っていくから金沢さんは何も作らないで待ってて』と事前に連絡をもらっていたのに酷い意地悪だ。
教師は玄関でなにも言わずに食事を運んでいた。
「デパ地下厳選だってその子、言ってたからきっと美味しいよ」
「葉山さん、それワイン? 帰り、運転できなくなっちゃう」
「めんどくさいから明日はここから出社だよ。それともお邪魔かな?」
「そんなことはない。第一、有結がお前を呼んだんだろう?」
「有結……。そういう仲なの? 早くない?」
「いえ、まだその……ほら、同じ家の中で堅苦しいからって」
「ふぅん、僕はそれでもいいと思うよ。耀二の考えは読めるからね。ただまだ早すぎるんじゃない?」
だから……とわたしは赤くなって俯いてしまった。そのことを責められるのは一番困る。
何しろ現象としては、悲しくてまいってたわたしに彼がキスをしてくれたって、ただそれだけのことで。好きとか嫌いとか、愛してるとかはないわけだし。元カレを忘れろよとも言われない。それどころか、元カレと同棲してた部屋に一緒に行こうか、なんて、わたしを好きなら簡単に言えることだろうか? わたしなら考えただけで
「僕の事じゃないからね、ご自由に。ただ下ごしらえをしっかりした料理ほど美味しいってこと。あ、今日は高いワイン持ってきたから禁煙で!」
「おい」
「わたしは吸いません。美味しいものの方がいいもの!」
葉山さんの持ってきてくれたオードブルは美味しそうなものは何でも入っていた。葉山さんが説明してくれるんだけど、葉山さんにもわからないものが多かった。それでも摘んでみると美味しくて、悲しくなってくる。
「金沢さんはどっちがいい?」
そこには、あの日、いや、慎ましやかに暮らしたあの日々に買うことのなかったスモークサーモンと、ローストビーフ、どちらのサラダも入っていた。
わたしはいつもは誠が選ぶローストビーフを選んだ。誠の食べたかったものを、わたしも味わうことで誠をもう一度知りたかった。
「金沢さん、ワイン飲みすぎじゃない?」
「こいつはけっこういける口だからもう少し飲ませてやったらどうだ?」
「大丈夫です。美味しいです。いままで飲んだワインの中でいちばん……」
たぶんブラックオリーブの渋みがわたしを泣かせるんだろう?
昼間はわたしの中にすっかり仕舞われていた誠がまた顔を出して現れる。わたしがいないとだめだ、と言う彼の顔を思い出す。
手の届く目の前にいる教師が涙でブレる。手を伸ばそうとして、体勢を崩して、危ないところで抱きかかえられる――。
「先生、『耀ちゃん』って呼んでいい?」
「……」
「金沢さん、それだめ。さすがにそれは」
不意に、彼がものすごく遠のいていくのを感じる。わたしの体を支える手が強ばっている。
「いいよ、別に。昔のことだ」
触れてはいけないほどのこと。それは昔のこと。会わなかった十数年の間にあったことはお互いに手出しできないことは確かだ。
教師がまだ恋をしていた頃、きっとわたしはお子様だった。
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