第21話 結婚

「先生、わたし帰るのでまだだったら素麺食べませんか?」

 陽炎の立つ緩やかな坂を上る足元はなぜか行きより軽やかだった。わたしは教師に電話をした。

「また仕事サボるのか? 仕方のないやつだな。腹が減って我慢できなくなる前に帰ってこいよ」

 はい、と言って一歩一歩を大きく歩く。早く帰りたい気持ちが先走って、体がついて行かない。あの古い家は時に圧迫的だけれど、全体的に見れば何枚も重ねた布団のようにわたしをいつも包んでくれる。

 早く帰りたい。

 素麺とそれ用のつゆを買って、あともう少しだ。


 日差しの中をぐんぐん歩いてようやく家に着く。主はまだ絵を描いてるのか、物音がしない。

 とりあえず自分の荷物を置こうと部屋に入ると、網戸の向こうに大きな背中が見えた。

 足音で私が帰ってきたことに気づいているはずなのに振り向かない。わたしは意地悪の仕返しをしようと、網戸を開けて外に出た。

「先生」

 背中からするりと抱きつく。うわっと教師は驚いて尻もちをついた。

「お前、裸足じゃないか」

「先生が意地悪するからですー」

「なにもしてないぞ」

「帰ってきたのにおかえりなさい、してくれなかったでしょう? 気が付かないフリしたでしょう?」

 どっこいしょ、と座り直して教師は落としてしまった緑の葉を束ね始めた。

「お前が素麺だって言うから紫蘇を採ってた」

「でも無視したでしょう?」

「……無視したつもりはない。ただその……こんなに早く帰ると思わなかったからだな」

 それだけで十分うれしかった。ここにはわたしの帰りを待ちわびてくれてる人がいる。……待っててくれたんだ、という思いが気持ちを強くする。

「お湯、沸かしてきます。先生、ふたりならそんなに紫蘇は採らなくて大丈夫ですよ」

 裸足のままそろそろっと家に戻って、風呂場で足を洗う。水が冷たい。プールに行きたいな、と全然違うことを考える。


 足をよく拭いて、台所に戻ると先生は一時のニュースを観ていた。それを確認して、大鍋を火にかける。バラバラッとぐらぐら沸いたお湯に素麺を入れる。時間は一分。つまり六十数える。

 流水の下のざるにあけてよく洗う。

 ふふんふーん。

「お前、それ、『ボヘミアン・ラプソディ』。古い曲も聴くの?」

「やだ先生、QUEENの映画やってからはみんな知ってるから」

「そんな映画あったのか」

「『ボヘミアン・ラプソディ』、後でネットにあるか調べてみます?」

 水をよく切って、氷と一緒に盛り付ける。氷を乗せないと、麺と麺がくっついて取れなくなる。

「いただきます」

「有結はロックが好きなの?」

「そういうわけではないみたい。ほら、メロウなヒップホップも聴くし」

「あれは別」

 ふたりして笑う。紫蘇の、爽やかな香りが食欲をそそる。

 いい感じに風鈴が鳴って、わたしたちは涼しさを共有して素麺をすすった。眠気を誘う夏の午後……。

「今日はどうした?  遅くなるかと思ってたよ」

「……何もないですよ。向こうに着いたら部屋が閉めきりだったから暑くてやる気にならなくて」

「そうか。まぁ、お前も大人なんだから責任持って自分のペースで仕事が出来るんだろうし。俺は何も言わないよ」


 次に来たのは居心地の悪い沈黙だった。

 秘密はわたしの中でどんどんどんどん大きくなり、心の中に目に見えない誠がいっぱいになり、報告義務がある関係なのか測りかね……。

「先生、結婚は周りの人を安心させるためにするものですか?」とまわり回って訳のわからない質問をしてしまった。

 教師は喉に素麺を詰まらせたのか、急いで麦茶を飲んだ。それはそうだ、教師だって未婚なのに。

「わからんが……ひとつの考え方としてはそうかもしれないな。有結はそうなのか?」

「わたしは……わたしは、親不孝なのであんまりそうは思えなくて」

「そうか、周りが丁度結婚する年頃か」

「ですね。でもわたしはイラストもまだ半人前だから」

 つるつると素麺は食べられていく。三人前茹でたのに足りなかったようだ。おかわりいりますか、と聞きかけて教師の方から話しかけてきた。

「正直、お前が来るまでそんなことはどこかに置き忘れてたよ」

「……そうなんですか」

 恥ずかしくて死にそうになる。それはいまは少しは意識してくれたってこと? 勿論いますぐ結婚、なんていうのはナンセンスだとわかっていても心が浮き立つ。

 おかわり茹でましょうね、と言って立ち上がる。教師は団扇をあおいで黙っていた。あまり喋らないところもわたしを安心させてくれる。ひと言ひと言を大切にしてくれる人なんだな、と思っている。

 ――お前が来るまでは。

 これはすごい大波ビッグウェーブで心を踊らせた。

 対してさっきのプロポーズは――散っていく薔薇の花弁を思わせた。乾燥して、握るとパリッというに違いない。

 わたしたちの花盛りは終わってしまった。なのにどうしてそんな悲しいことを言うんだろう? やり直せるなんて本気で思ってるんだろうか?

「……先生、今日はプロポーズされてきました」

 わたしは素麺を茹でながら背中で返事を待った。でもその返事は期待したものと違って、ひと言も、いつもの唸り声さえ返ってこなかった。

 それはわたしを酷く失望させた。


 ――今日はご飯だけ用意しておいて。

 葉山さんからそんなメッセージが届いた。昨日に続き、また来てもらえるのかと思うとありがたかった。料理は何年やってもつくづく上達しない。

 教師に告げると素っ気なく「ああ」と言っただけだった。

 午後は居間でラフをああだ、こうだとひねくり回して描いた。息詰まると一服して、冷えたアイスコーヒーを飲んだ。

 二階のあの人も同じタバコを吸っているのかと思うと、その繋がりが、幼いわたしを安心させた。まだ突っぱねられたわけじゃない。

 一階二階で繋がっているわたしたちの、有耶無耶うやむやな関係について考える。まだ何も聞いていない。悲しかった時にキスをくれただけ――。

 そう考えてしまうと同情以外の何物でもなく思えてきて、シュンと萎んでしまう。

 ……先生、キスだけじゃなにもわからない。


 白い車はたくさんの天麩羅を運んで来た。

「馴染みの店で揚げてもらったんだ。ほら、サクサクのうちに食べないと」

 わーい、とわたしは喜んで、教師は「悪いな」と言って天麩羅を食卓に運んだ。

「金沢さんは二日酔いにはならなかったの?」

「少し寝過ごしましたけど」

「それだけか、若いなぁ。でも今日は酔う前に話をしなくちゃね」

 葉山さんの明るさは食卓を和ませた。

「で、引っ越しはどう?」

「後は家具を少しとパソコンなんですけど」

「わかった。なんとかするよ。土曜日でいいの? もう日がないけど」

 わたしは教師を見た――。

 教師はわたしを見なかった。シシトウの天麩羅を、知らない顔で食べていた。

「の、予定だったんですけど、向こう、出てきた時にガチャガチャにしてきちゃったから来週の方がいいかも。週末、雨らしいし。元々その予定だったんで、もし葉山さんが良ければですけど」

「それでいいなら僕はいいけど。怖いカレカノは大丈夫? 仕事にならないんじゃないの?」

「仕事は――パソコンの具合が悪いって先方に伝えてます」

 ディスプレイの向こうにいるお客さんの顔がちらりと見えた気がした。こんなにいい加減でいいんだろうか?

 わたしはまた教師を見た。何か言ってほしかった。正確に言うと怒られたかった。葉山さんに対しても、お客さんに対しても不誠実なわたしを叱ってほしかった。

「パソコンだけいっそ運んじゃえば?」

「ああ、それもありですよね」

 バン、と座卓が音を立てた。驚いてそっちを見る。葉山さんも飛び上がるほど驚いたようだった。

 沈黙が何秒続いたことだろう……。

 教師はタバコに火をつけると大きく息を吸って吐き出した。そして「結婚は誰かのためにするものじゃないと思うぞ」と言うと風呂に入る、と行ってしまった。

「何かあったの?」という問いに、わたしは曖昧に笑った。

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