第11話 もてる男

 ◇ 12日前(月曜日) ◇


 目覚めるとそこはちっとも知らない民家のひと部屋で、ああ、やっちゃったな······と反省する。

 わたしの悩み事を誰かに一緒に背負ってもらうのは間違いなんだ。でも、ひとりでは背負いきれないのも事実だ。


 そろそろと着替えをして布団を畳む。

 久しぶりの畳の感触に癒される。デニムパンツはまだ湿ってたけど、干しておいたTシャツは乾いていた。

 ――誠はどう思っただろう? いままで無断外泊なんてしたことがなかった。いつだって行き先を告げて外泊していた。無論、女ともだちのところに。

 心の通じ合うような友だちはみんな、結婚や就職であちこちに引っ越して行った。それでも友だちは友だちだったけど、いまみたいに切羽詰まった時には誰かにそばにいてほしい。そして話を聞いてほしい。話を、大丈夫だよと言われながら······。


 薄暗いと思っていた廊下は縁側になっていて、雨戸を開ければ外の陽光がよく入ってきた。

 あまり手入れのされていないと思われる庭に、紫陽花が彩りを添えている。ここの元の住人は紫陽花がよほど好きだったと見えて、青とピンク、どちらの色のものも植えられていた。

 ピンクはハッピーカラー、ブルーは悲しみ、そして冷静さを表す。バランスのいい取り合わせ。


「おはようございます」と居間に顔を出すと昨日の男性――確か葉山さんがそこにいた。

「おはよう、えーと、金沢さんだよね?」

「はい。昨日は急に押しかけちゃってすみませんでした。先生は?」

「ああ、森下は酒が飲めないんだよ。昨日、ちょっと口を湿らせたらこうなんだから」

 にこっと感じのいい笑顔で葉山さんは笑った。思わず女子ならドキッとする魅力的な笑顔だった。

 葉山さんの外見は、鍛えている感じの教師と比べて細い感じで、身長も教師より低い感じがした。逆に言えば教師は細いのに体格がいいと言える。

 目鼻立ちは彫りの深い教師に対して日本的で、ただ鼻筋が理想的なラインですっと通っていた。切れ長の目にはやさしさと、大人の落ち着きがあった。

「金沢さんはどんな絵を描くの?」

「わたしは絵描きじゃなくてイラストレーターなんです。ネットで顧客をとって、希望に沿った絵を描くんです」

「へぇー、今どき。耀二に聞かせたい」

「先生はわたしがイラスト描いてるの、知ってますよ」

 葉山さんはそこで破顔した。

 目尻がぐっと下がり、顔だけではなくわたしの方を見るような姿勢になった。

「違うんだよ、アイツ機械オンチなんだ。パソコンのセットアップも僕がして、この家の無線LANも僕が引いてね。今どき無線LANくらい無いと不便でしょう? 金沢さんもここの無線使ったらいいよ。あとで教えてあげる」

 するすると出てくる言葉は感じよく、淀みなく、頭のいい人なんだなぁと思わせた。濃紺のポロシャツにサンドベージュのチノが品の良さを思わせる。

「とにかく朝ご飯を食べてしまおう。ご飯は炊いておいたんだ。アイツは和食党なんだ、作れないくせに。味噌汁と納豆でいい?」

「はい、全然構いません」

「玉子焼きもつけようか?」

「あ、それならわたしが」

「いいの、いいの。助けてもらえる時には助けてもらうものだよ」

 勝手知ったる、というのは嘘ではなかったようで四角いそれ用のフライパンを取り出して、ボウルも魔法のように手早く出てきた。

『助けてもらう時には助けてもらうものだ』という考えはわたしにはあまりなかった。

 誠とは小さな愚痴を話し合ったりはしたけどお互いの業種はあまりに違ったし、相談事も包み隠さず話したけれどそこで終わりだった。

 肌を重ねることでお互いを深く知り、慈しみ合っているとどこかで思っていた。

 この間の仕事の失敗の時のように彼が躓いた時、親身になって、吐き出せるだけ話を聞いてあげて、癒せる存在になれただろうか――? あの女性はわたしより上手に彼を癒してしまうんだろうか?

 考えても取り戻せないことを考える。

 長い間、一緒に生活しているだけで心が繋がっていると感じたのは錯覚なのかもしれない。


「悪い······。あ、金沢! お前、来てたんだっけな」

 なんか酷い。昨日はあんなにやさしかったのに。

「ちょっとでも酒が入っちゃうとどうしてもだめなんだよ。吐いたりはしないんだけど、気がつくと二日酔いってことはよくある」

「ちびちびやってたじゃないですか」

「お前もビール3本は飲んだだろう? 変なとこだけ大人になりやがって」

 ふたりの会話に笑いながら、葉山さんが支度をしてくれる。納豆には小葱と紫蘇しそがついていた。

「紫蘇」

「苦手だった? この家の庭には自生する紫蘇があってね、勿体ないと思って」

「いえ、うちでは使わないから新鮮で」

「金沢さんは料理しないの?」

「するにはするけど上達しないんです。たぶん、せっかちなのが良くないのかも」

「こいつ、絵も筆が早いんだよな。たまには細部にこだわってもいいと思うんだけど」

「先生、中学の一年間しか見てないじゃないですか?」

 葉山さんが手をぱんぱんと叩く。

「はい、終わり。金沢さんのイラストは興味あるから後で見せてもらうとして」

 えー、と大きな声を出すと葉山さんは箸を揃えて「いただきます」をした。それに習いながら、先端の欠けてしまったわたしの箸を思い出した。それは誠と付き合い始めた時に買った、長い付き合いの思い出深い箸だった。


 葉山さんのご飯は嘘のように美味しかった。

 こんなに丁寧な食事を久しぶりに食べた。

 納豆でさえ、既にこねたものをみっつの小鉢に分けてあった。

「この小松菜、美味しい」

「こいつ、人の家の庭で畑作ってるんだよ」

「失敬な。簡単な野菜を少し植えてるだけだよ。だからほら、こういう時に食材がなくて困ることがないんだ」

 なるほど。葉山さんは思っていた以上にこの家に来ているらしい。仕事の丁寧な人には好感が持てる。

「金沢、こいつはだめだぞ。もてるからな。泣かされるのがオチだ」

「好きになった女性はできるだけ泣かせないよ。そのために全世界の女性を敵に回してもいい」

 妙に説得力のある言葉に「はぁ」としか言えなかった。葉山さんは確かにもてるだろうなぁと思ったけど、わたしの心の中は悲しいことにいまは誠を取り戻したいという気持ちでいっぱいだった。

 お茶碗を持って黙ってしまったわたしにいち早く気づいて葉山さんが話しかけてくる。

「僕のご飯は美味しい?」

「はい、とても」

「よかった。味がわかるうちは君が『大丈夫』だって証拠だよ」

 上手いことばかり言いやがって、と教師は玉子焼きをつついた。わたしも負けずにひとついただいた。

 甘いだけじゃない、やわらかく出汁のきいた玉子焼きはわたしの心の不安をやさしく受け止めた。

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