第10話 古い家
教師の家は駅の裏側の閑静な住宅地の方にあった。新しい家と古い家が不思議と共存している。まるでいろんな種類のイソギンチャクが並んでいる水槽のようだ。
途中のコンビニで必要なものを買うと、隣のレジで教師はスーパーカップのチョコレートをふたつ買っていた。甘いものがないとだめな人なんだろう。
道々、特になにを話すわけでもなく歩いているとぽたぽたと雨が降ってきた。泣きたいばかりのわたしの代わりに空が涙をこぼしてくれる。そんなことを考えていると教師は「もうすぐだ」と言ってわたしの腕をいささか強引に引いた。
ほとんど小走りでどこを通ってきたのかもわからないうちにそこに着いた。
「帰ったぞー」
「いらっしゃい。さぁ、せっかく来たんだから加わりなさいよ」
「こいつ、もう飲んでるよ。酒の匂いするもん」
失敬な、とプンプン怒ってしまうけれど本当のことだから仕方ない。ビール一杯だけです、と作り笑顔で挨拶をした。
「大学で一緒だったんだよ。たまにうちに来て、ぐでんぐでんになるまで飲んで帰っていく迷惑なヤツ」
「
「なんのことだよ? なんにもない! なんにもないぞ、金沢」
くすくす笑っているとお客さんはわたしの目をじっと見た。
「奥で勝手に寝てるから踏まないでね。耀二に襲われないようにね、金沢さん」
はは、と乾いた笑いを浮かべているとお客さんは本当に家の奥に行ってしまった。
「いいんだよ、よく来てるから『勝手知ったる』ってやつ。アイツ、葉山。さっきも話したけど大学でさぁ」と話しながら教師はタバコを出した。
「先生」
「お、悪い。やめられなくてさ」
「わたしもなんです。吸っていいですか?」
「おお、いまでは貴重な仲間だ。大いに吸え。ただし癌にはなるな」
また吹き出してしまう。教師の独特な台詞回しがツボってしまってつい笑ってしまう。
そんな彼は隣で「アイス食うか?」と聞いてきた。
住宅街といえども静かな夜だった。雨の音がぱらぱらと聞こえて、水の中の避難場所のようだった。どこかの
妙に居心地が良くて、スーパーカップ片手にぼんやり辺りを眺めていた。窓の外はすぐそばに立つ常夜灯の明かりだけがほんのり辺りを照らしていた。
その家は築三十年は経っていそうで、床や柱に変に磨きがかかっていた。素足で歩くとひんやりして気持ちの良さそうな床だ。
わたしと教師がいたのは板の間で、貫禄のある座卓の下にはイグサで編んだ敷物がしかれていた。
台所は小さな蛍光灯がひとつつけられていたけれども薄ぼんやりしていて、家のほかの部分は闇が浸していた。
「悪いな、スリッパとか出る家じゃなくて」
「男ひとりなら仕方ないですよ」
チョコレートが口の中にまったりと広がって、傷ついた心をやさしく覆ってくれる。
うちではいつも普通のスプーンを使っているので、木のヘラで久しぶりに食べるアイスは懐かしい味がした。
「で、どうした?」
ごくり、と喉が動いた。慌ててむせそうになる。むせてもここにはアルコールしかないのだから危険だ。
「彼が――」
一息に話し終わると、自分でも本当にそんなドラマみたいなことがあったのか
「ほら、デッサンする時、目線の位置を決めるだろう? あれと同じで誰目線なのか決めてみると話は簡単になる。その男と別れてよかったな。話の感じからしてけっこう長く浮気されてたんじゃないのか? それに気が付かないお前も鈍いけど」
確かにそうなんだけど、なにかが腑に落ちない。それは『なにか』ではなくて、自分でも隠しきれない彼への愛情だった。まだ、愛している。
こんなに酷い目にあっても、それを上回るくらいいいことがたくさんあった。わたしはしあわせだった。この話を聞くまでは。
なんとか彼を正しい道に戻したい。
わたしのところには最悪、戻ってこなくてもいい。間違った恋愛を精算して、いつもの聡明な彼に戻ってほしい。
タバコの灰がぽろっと落ちた。
「すぐにっていうのは無理だよ。人間についている最高の技は『忘れる』ってことだけどな、『早く忘れる』ってことができるほど万能ではないんだ」
忘れるなんて到底考えられなかった。人生の、何分の一かを共に過ごしてきた人を忘れるなんて一生無理だ。この傷だらけの心を抱えて生きていくしかない――。
わたしは大真面目にそう思っていた。
「彼氏を軽蔑しないの?」
「軽蔑するのは女の方です。······彼も馬鹿だとは思いますけど」
「なるほどね」
ボーン、と古い振り子時計の音が鳴った。思った以上に話し込んでいたらしい。
「お前、お腹は?」
「食べてきました」
あれを『食べた』と言うならだけど。
お腹が空いているようには思わなかった。
「風呂は? ちゃんとシャワーもあるぞ」
それは魅力的な誘いだった。ちょっと考えて、お願いした。そして着替えのないわたしに、雨に濡れてしまった服の代わりに教師のTシャツを貸してくれることになった。
「すみません。愚痴愚痴言った上にご迷惑までかけてしまって」
「別にいいよ。ほら、ああいうのが飛び込んでくることもあるんだから気にすんなよ。それより失踪みたいなのの方が勘弁な」
「······すみません」
「朝飯食べるまではこの家にいろよ」
情けなさに濡れたTシャツの袖をぎゅっと握った。外から見たら、何年も同棲している男に逃げられた馬鹿な女がわたしなんだ。しかも理由が浮気なんて······。これは俗に言う『寝盗られ』なんだろうなぁ。
わたしに新しいタグがつく。『寝盗られ』。
――どんな顔をして彼女を抱くんだろう?
なんていやらしい想像をしているんだろう、と風呂の中で思う。肌を水が滑り落ちる。
いつからわたしと彼女を交互に抱くようになったんだろう。
帰りが明らかに遅くなったのは今年度になってからで、あの人の良さそうな大河内さんの転勤もその時期だと言っていた。
······やめよう、自虐的なことを考えるのは。指折り間違いなく答えられたら誠が帰ってくるわけではない。帰ってきてほしいのか、それとももう二度と······。
天井から冷たい水が落ちて肩に当たる。
もう二度と会わない方がいいんだろうか?
彼の不誠実はどうにかして償われることはないんだろうか?
彼が――わたしのようにわたしを思い出してくれるんだろうか?
わたしを?
いますぐは無理だ。あの目がそう言ってたもの。あの、恋する人特有の目。
おーい、のぼせてないか、と声をかけられて初めて長湯だったことに気がつく。はーい、と答えて浴槽を出た。
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