第9話 迎えに行く

 どうやら奈落の底に落ちる前で留まれたようだ。

 ひとり歩く夜の街は誰も彼も『そこにいるだけ』の知らない顔で、通り過ぎていく物も人もすべてが同じだった。

 彼女が明るい水槽の中のグッピーなら、わたしは用水路の底を泳ぐドジョウだ。『華美』、そう、そういったものはわたしにはない。

 あるのはだらしなく伸ばしっぱなしの髪の毛と偏食で太らない体。あのキラキラした愛らしさはどこに行ったんだろう? 年齢もそれ程違わないのに。

 ふと、人恋しくなって誰でもいいから知ってる人に会いたくなる。正常な自分に戻りたい、とその時切に思った。


「いらっしゃい。有結ちゃんじゃないの、久しぶりだねぇ。どう、ここ辞めてから元気? イラストまだ描いてるの?」

 以前の職場の店長は矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。その早さに、わたしは「はい」とか「ええ」とか「まぁ」と答えた。

 カウンター席に着いておしぼりで手を拭いていると、店長がまた話しかけてきた。今度はいかにも聞かれたくないといった感じの小声で。

「有結ちゃんさ、あの彼氏とはなんで別れちゃったの? 長かったんじゃないの?」

 え、どうしてこんなところまで話が流れているんだろうと思っていると、話には続きがあった。

「この前さ、有結ちゃんの元彼、女の子連れて来たんだけどさ、見る目ないねぇ。あれは愛嬌はあっても金ばっかかかる女だよ。やっぱりね、こういうところで長く働いてるといろんな人が来るわけよ。だから勘が働くんだよ。あの子はだめだねぇ、でも若いうちはわからないか。華やかな子に目がいっちゃうんだろうね。『綺麗なバラには』って言葉もあるのにね」

 はぁ、と弱々しい相槌しか出てこなかった。店長の語りが右から左、左から右に衝突して混乱して脱力感でいっぱいになった。······ビール一杯で帰ろう。さっき飲み逃した分の代わりだ。

「新しいバイトはなにしてんの? 暇なら手伝ってほしいなぁ。なにせ最近の若いのはなんだかんだ理由つけてすぐに休みたがるからさぁ」

 いらっしゃい、と新しく入ってきた客のところに店長はそそくさと行ってしまった。確かに人手不足のように見えた。

 でも、店長には悪いけどわたしはもうここでは働かないだろう。あのふたりが――。

「ごちそうさまです」

 席を立ってレジに向かう。まだ慣れない様子の店員が精算してくれる。なんだか少し懐かしい、やさしい気持ちになる。

「有結ちゃん、帰るの? またビール一杯でいいからいつでもおいで」

 ありがとうございます、と笑顔を作って挨拶をする。


 またひとりになってしまった。

 スマホを見ると一件だけLINEにメッセージが入っていて、そこには誠から「帰ってきて」とあった。

 帰ってどうしろと言うの?

 間抜けなフタマタ話はもう聞きたくない。

 ······ふたりの部屋で、ひとりでいるのも寂しいし。本気で部屋を出る覚悟を決めなくちゃいけない。

 あまり良くないのはわかってはいたけれど、頼れる人はいまはひとりしかいなかった。一夜の宿を借りることだけでもできないかな、と本音は気が進まなくても現実的に考える。

 ネットカフェなんかで一晩を過ごす勇気はない。

 ――こんばんは。いま、少しいいですか?

 道の真ん中で片手にスマホを持って返信を待つ。

 すぐには返ってこない。でもまだ寝るには早い時間のはずなので、もう少し返事を待つつもりで近くのコンビニに入る。

 もしかしたら今日は雨だと言ったのに晴れたから怒ってるのかもしれない、なんて馬鹿なことを考えてひとりほくそ笑む。

 返事はなかなか来ないので、コンビニより少し先のカフェに入る。すぐに閉店しそうな雰囲気ではないので安心してカフェモカを頼む。

 と、スマホが震えた。

 ――すぐ返事できなくてすまん。友だちが来てて飲んでたんだよ。

 友だちかぁ。飲んだら泊まっていくのかもしれない。二十四時間営業のファミレスでも探した方がいいかも。

 ――お友だちがいらっしゃってるんですね? それならまた今度で。楽しく飲んでください。

 ふぅ、とタバコを出そうとして店内禁煙なのを思い出す。コーヒーだけじゃ口寂しい気がしたところにまた着信があった。

 ――お前、外にいるの? 迎えに行くから場所、教えろよ。

 ――やだな、先生。中学生じゃないんだから。

 ――ひとりなんだろう? 

 言葉がすり抜けていく。矢のように。

 少し間が空いてしまってハッとする。

 ――大丈夫です。ご心配おかけしました。ではまた!

 ――おい、どこにいる? 俺は外に出たぞ。どこだ?

 もう、みんな馬鹿だなぁ。どうしてそうやって。

 ――先生にはわからないかも。自然公園の方から駅前に出て、左に······

 わかりやすい説明はしたはずなんだけど、やはりコメダデビューしたばかりの教師に、新しい奥まったところにある隠れ家風のカフェはわからなかったのかもしれない。道に迷えば連絡があるはずだし、その時こそ謝って帰ってもらおう。


 不意にドアが開いて、驚いたことに作務衣姿の教師が店に入ってきた。そしてわたしの前に座って「同じのひとつ」と頼んだ。

「なーんだ、お前。大人ぶるなよ。俺より十も年下のくせに」

 向かいのわたしの頭をぐしぐし撫でる。束ねた髪がぐしゃぐしゃになっていくのを感じる。

「大人ぶってなんていませんよ」

「突っ張るなって。『話は聞く』って約束しただろう?」

「そうだけど······」

 ぽろっと堪えていた涙が自然にこぼれて、目の前の人に安心感を覚える。ああ、この人の前なら泣いても大丈夫なんだ。なにしろ中学生の頃の痛いわたしも知られてしまっているわけだし。

 そう、あの頃も誰も彼も同じに見えて、ひとり、窓の外ばかり見ていた。移りゆく季節や、自然の色合いを。


「ほら、無理してたんじゃないか。コーヒー飲んだらうちでゆっくり話せばいい。心配すんな、泥酔してる馬鹿がひとり転がってるから、お前を襲ったりしないよ」

「······襲う気があったんですか?」

「だから襲わないって言ってるだろう?」

 ぷ、と目と目が合って笑ってしまう。この教師には勝てないかもしれない。いわゆる『天然』てやつだ。巧妙に罠を仕掛けてもすり抜けるタイプだ。

「先生。今夜泊めてくれますか?」

 教師の眉間にシワが寄った。さすがに甘えすぎかもしれない。

 冗談です、と言おうとしたところで教師が先に口を開いた。

「条件がある。お前がなにがあったのか、洗いざらい話すならな」

 洗いざらい、はオーバーじゃないの、と思ったけど一宿には替えられない。ひとつ頷いた。

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