第8話 奈落の底
その夜は散々だった。
デパートなんか行かなければよかった。
歩きすぎたのか、人に酔ったのか、気分は最悪だった。コロッケをテーブルに置いて自室に下がって気楽なルームウェアに着替える。
汗もずいぶんかいたようだ。
あんなに感じよく街路樹の下を歩いてきたのに――。
これはどういうことなんだろう?
偶然、ということももちろんある。
けどそうではないとは決して完全に否定できない。
あの人だ。
誠に我を忘れさせるのはあの人だ。彼の態度でわかる。
ねぇ待って。彼女は婚約してるんだよ? そんな人とどうして――どうやって毎晩会えるというんだろう。
それとも毎晩女と会っているというのはわたしの邪推だったんだろうか?
······疲れる。
振り回されてばかりのような気がする。
なにに?
表面は誠に、なんだけど、実際は相手の女性にだ。恐らくあの女性、その人に振り回されている。
ずるずると重い足を引きずってキッチンに向かう。サラダはない。仕方がないので、冷蔵庫の野菜室からキャベツを出す。
キャベツを剥くのはコツがいる。太い茎をおろそかにするとやわらかい葉の部分が破けてしまうからだ。
それを大胆に端から破いていく。バリバリっと音を立ててキャベツをもぐように三枚剥いた。
「ご飯できたよ」
俯きがちに彼は自室から出てきた。わたしはなにも喜ばしいことを言うつもりはなかった。ただ疲れていただけだ。
買ってきたコロッケと引き裂いて千切りにしたキャベツ、買い置きの小松菜と豆腐の味噌汁。わざわざデパ地下まで行ったにしては地味な献立だ。
いただきます、と彼が言ったので、ソースを出すのを忘れていたことに気がついて席を立つ。中濃でいいかな、と手を伸ばす。
「あのさ」
テーブルにソースを置いたところで誠は口を開いた。言いたいことは聞きたくないことのような、そんな予感がしていた。
「あのさ、······あのケーキなんだけど」
うん、と顔を見ないように頷きながら椅子に着く。あのケーキ? 聞きたくない。
「美味しかったよ。コンビニのケーキよりもずっと。お高いと見た目も味も違うんだねぇ」
わたしは彼女を思っていた。育ちの良さそうな背筋。華奢な首筋、そこに光る一粒パールのネックレス。彼女を絵にしたらまつ毛は何本くらい描いたらいいんだろう、なんて意地悪なことまで考えていた。
わたしは生まれも育ちも東京近県で、その中でも田舎の部類に属していた。美大に行ったことが近所の話題になるような、そんな田舎だった。
「取引先に挨拶に行った時、彼女があのケーキ屋を教えてくれたんだよ」
「そうなんだ。いい人なんだね」
箸を入れるとクリームコロッケはべちょっとした。サクサクした衣は中身と一体化することに決めたらしい。食べる前から胸やけがしそうだった。
「あの人と手を繋いだ?」
「え?」
下から上を見るような目線で彼の目を捕らえた。
「答えなくてもいいよ。誠がもしも複雑な立場だとしても、わたしにはもう入る余地はどこにもないんだから。ただ聞いてみたかっただけ」
誠のコロッケもサクッとは言わなかった。
なんだつまらない、ひとつ数百円も出して並んで買ったのに。
わたしは立ち上がるとビール二缶とマヨネーズを持ってきた。キャベツにかけるためだ。
ことん、とビールを誠の前に置いて、自分の缶とマヨネーズを握りしめていた。誠の前に座れなかった。
「どうして叶わない恋をするの?」
座りなよ、と誠は言った。
「どうして叶わないって言うんだよ。
誠は酔ってしまいたかったように見えたけど、ちっとも酔えないようだった。わたしにいたっては、プルタブさえ触っていなかった。
「箱入り」
「そう、箱入りだよ。女子校を出てお嬢様大学を出て······手が届かない世界の人ってイメージ」
片思いじゃない。
そんな恋焦がれた目であの子を追うより、目の前の、現実のわたしを見てほしい。
わたしはここにいる。手の届くところに。ずっとそばにいたんだよ?
「それで、大河内について行くか噂になっていた頃、思い切って誘ってみたんだ。自分でも馬鹿なことをしてるなって自覚は十分にあったよ。有結のことはもちろん、友だちでもある気のいい大河内を裏切って。馬鹿だなって思ったんだけど、彼女は『いいですよ』って言ったんだ」
「それはフタマタじゃない」
「フタマタって言うかもしれないけど。それでも彼女は『愛してる』って言ってくれるし、婚約も時期を見計らって断るって」
全身の血が煮えたぎるという表現は誰が最初に考えたんだろう? まるでそんな感じだった。震えが、箸の震えが止まらなくて。
「騙されてるかもって思わないの!? いい、これは友人として忠告しておく。そんな女、信じるなんて馬鹿みたい。やってることも言ってることもおかしいじゃない? あんなところでしあわせそうに歩いてないで、さっさと婚約破棄して誠のところに走ってくればいいじゃない。ただの嘘つきだよ」
それを見抜けないアンタもどうかしてる、というのは喉元で止まった。
思い余ってテーブルに刺してしまった箸の片方の、先が欠けた。
「一度会っただけだからそう見えたんだよ。別れたいって舞美は大河内にもう何度か話してる。大河内が舞美を離さないんだ」
「もう! どうして真っ直ぐ物事が見えなくなっちゃったの? あんなにふたりはいい感じだったじゃない。いままではわたしが我を忘れてると冷静に、やさしく物事を教えてくれてたじゃない。なにが正しいのかって。イラストやめて普通のOLになろうか迷ってた時だって······」
だめだ。ここで泣いたらただの泣き落としになってしまう。でもだめだ。もう既に手遅れで、嗚咽が止まらなくなってしまった。
「有結······わかってくれとは言わない。でも彼女が好きなんだ。アイツと別れたら結婚する約束なんだよ。もう手離したくない人なんだ」
手を、離したくない人。
それから手を、繋ぎたくない人。
そこには絶望的に深い谷があって、決して渡ることができない。渡ろうとしたら奈落の底まで堕ちていくしかない――。
まるで自分がその時、汚物のように思えた。
ここに、誠の隣に相応しくないと。
出かけたまま部屋の入り口に放っておいたバッグを掴んで出ていこうとして思いとどまる。外に出ていける格好ではなかった。
昼間着ていたのと違うTシャツにデニムを履いて、今度こそバッグを掴んで部屋を出た。
あんまり格好よくはなかった。
誠もわたしを格好よく呼び止めたりしなかった。
なにもかも滅茶苦茶で、なにもかも······素敵な日曜日だったはずだったのに。
そば屋の奥さんに、期待に添えなくてごめんなさい、と心の中で申し訳なく思った。
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