第7話 たかが箱ひとつ
◇ 13日前(日曜日) ◇
「そばでも食べに行かない?」と誘われたのは自室でイラストを描いている時だ。
ちょうど興が乗ってきて、ペンが滑るようになってきたところだった。
もちろんわたしはすぐに返事をして、大急ぎで着替えた。
······この前買ったシフォンのスカートが目についたけれど、デートではないんだし、ただのそば屋なんだし、といつものデニムパンツを履いて、長い髪を後ろでひとつに結わえた。そろそろ結えないわけにはいかない季節になった。
雨になると言っていた天気予報は大ハズレで、確かに夜中にけっこう降ったけれど、そんなものはなかったかのように晴れていた。今年は六月なのに雨が少ない。日本から梅雨が消えたのかもしれない。
でも貴重な日曜日に舗道の、まだ新鮮な萌黄がかった街路樹の下を歩くのは気持ちよく、テンションが上がった。
お互い別れ話が出たあとでも歩くスピードはそんなに簡単に変わるはずがなく、並行して言葉を選びながら木陰の穏やかな日差しの中を歩いた。
ただひとつ違うのは――同じ速度で揺れる彼の手に触れることが許されないことだ。わたしにはもう、彼に触れる権利がない。この事実を痛いほど思い知らされた。すぐそばにあるその手は、まったく知らない誰かのものになった。
こんにちは、といままでとなにひとつ変わらないといった様子で店に入る。何回も来てるのに一応、メニューを見る。奥さんがお茶を持ってきてくれる。
「今日は暑いからお水がよかったら言ってくださいね」
「ありがとうございます。お茶、いただきます」
なんにも変わってないという顔でわたしが答え、誠は微笑んだ。
結局いつも通り、ざるそばふたつ。
貧乏臭くざるなのは、学生の頃から通ってたせいだ。奥さんも旦那さんも最初からそのつもりだったんだろう。
「それにしても仲がいいわよね。こういうの聞くのよくないのはわかってるけど、結婚しないの? そういうのが流行りなの?」
わたしと誠の間の空気が固まってしまった。結婚なんてものは然るべき時に来るもので、こっちから進んで向かうべきではないというのがわたしたちの見解だった。
でもいまのわたしたちには――。
「まだ職場では新人扱いですから。収入がしっかりしないと」
「不景気だものねぇ」
「恥ずかしい話ですけど、現実はそんなものですよ」
難しいのねぇ、と奥さんは言った。奥さんは六十手前といった風情だったけれど、たぶん、バブルを経験した分、わたしたちと物の価値観が違うんだろう。
「でも有結ちゃんも早くドレスが着たいわよねぇ。有結ちゃん、細いからきっと似合うわよ。ほら、いまは模擬式みたいなのがあるんでしょう? ああいうのやってみたらいいのに」
「一度着たらまたすぐに着たくなっちゃうから。誠に負担かけたくないからまだ取っておきます」
「お似合いよねぇ。慎ましい、きっといい夫婦になると思うわ。結婚式にはよかったら呼んでね。御祝儀包んで行くから」
それにはお互い作り笑いをするしかなかった。なぜならそれは叶わない未来だからだ。
なんでこの店に来ちゃったのかな、と後悔した。奥さんも旦那さんもいい人だから余計だ。
嘘をついてしまった。
再び緑の下を歩く。
夏至は一日いちにち近づいていて、午後になっても空は微動だにしないように見えた。
「有結はドレス似合うと思うよ」
そう言った人の隣でギョッとしてしまう。
この人はなにを言っているんだろう? 宇宙人かなにかなのかしら?
「ないない。ガサツだし」
「ガサツは関係ないよ。スタイルの話。ウエストも腰も細いし······その長い髪をアップにして花で飾ったらきっと似合うと思う」
「······ありがとう」
また沈黙。
あなたじゃない人と結婚する時のことなんて、いまは考えたくない。いつか、と漠然としていてもそこに繋がるのがわたしの未来だと信じていたんだから。
風が強くなってきた。日差しは眩しいのに、吹く風は少し冷たい。
いつもなら自然公園をぐるっと回ってくるところだけど、今日はそれはなしだろう。
うちに帰ったらまた元の他人同士のふたりに戻ってしまう。
そう思うと一分一秒が惜しくなって······。
「夕飯、ズルしてもいい?」
「作ってもらってるんだから文句は言えないよ」
「じゃあ······そこのデパ地下でコロッケ買いたいんだけど。あそこのクリームコロッケ、美味しくない? それとスモークサーモンのサラダとかどう? ローストビーフの方が好きだっけ? ここでいつも」
「意見が分かれる」
ふふっ、とどちらからともなく笑みがこぼれて、まだ繋がりは残ってるんだと安心する。
誠の方はなんとも言えないという顔をして、急に黙ってしまった。
風がふたりを揺らす。決して繋がれることのない手と手も一緒に。
日曜日のデパ地下は、まだ夕飯には少し早いのにすごい人出で、ちょっと間違うと迷子になりそうだった。
わたしたちは目的の店を決めていたので人の波をかき分けて――手を繋いだ。
数日前までは当たり前のようにしてきたことなのに、まるで神様の
目的のコロッケを目の前にして、ローストビーフの店の前を通った時、また笑みがこぼれる。目と目を合わせる。よかった。まだわたしの知ってる人だ。
と、不意に誠の足が止まって繋がれていた手が解かれた。彼の目は一点を見つめていて、それしか目に入らないようだった。
その視線の先を辿ると大学を卒業したてといったところの奥さんと、もう少し年上らしい旦那さんがお惣菜を買っていた。
会社関係の人なのかな、と思って少し下がる。わたしの動きで誠は我に返った。
「会社の同期と後輩なんだ。こんなところで会うと緊張するよね」
「そうなんだ。感じのいいご夫婦だね」
「結婚はまだなんだ。婚約中ってやつ」
そう、と話を流そうとすると誠はまだそのふたりから目が離せない様子だった。
「······売り切れちゃうよ?」
「ああ、うん。ごめん」
誠がこっちに向き直った時、今度は向こうから声がかかった。
「川嶋さん。偶然ですね、買い物?」
「そう、そっちも?」
「
その男性は恥ずかしそうに笑って耳の裏側をかいた。『舞美』と呼ばれたその女性もくすくす笑った。
その時ふと、男性の持っている袋の中にある箱に目がいった。それは鮮やかな深紅のツヤのある紙で作られた、どこかで見かけた箱だった。この前は中にオペラが入っていた。
自分でも気が付かないくらいそれをじっと見ていたらしく「舞美がここのケーキ、好きなんだ。これから帰って食べる予定で」と彼は言った。
じゃあな、と男性が手を上げ、女性は軽く頭を下げた。緩く、ふわっとさせた肩下までの髪が彼女のやわらかい雰囲気にピッタリだった。淡いグリーンのワンピースが人波に消えていくのを、わたしたちはなぜかなにも言わずに見送っていた。まるで涼し気な水槽の中を泳ぐグッピーのような
それからわたしたちは無言でコロッケ屋の列に並び、サーモンもローストビーフもどちらのサラダも買わなかった。
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