第6話 時間は不可逆だ
◇ 14日前(土曜日) ◇
昨日は自分の犯した失敗に打ちのめされて、チャンスだったに違いないのにそそくさと自室に戻ってしまった。
親身になってよく話を聞いて、同情して、慰める。それがわたしのアドバンテージになったかもしれない。
それなのに、ベッドによりかかりながら床の上に座り込んで、膝を抱えて悶々と考えていた。
なんで気がつかなかったんだろう? いままでもそうだった? ううん、そんなことはない。「ただいま」の声で、その日の気持ちのトーンに気づいたはずだ。
そしてなに食わぬ顔で夕食の支度をして、そっとビールを出してみたり。「いいじゃん、普段は飲まないんだから」なんて言ってるうちに誠の顔も緊張が解れてきて。
なのに。
気がつかなかった上に気の利いたことのひとつも言えなかった。
まるで自分の自慢話だけして終わりみたいな、最悪の食事だった。
膝を抱えて考えた。
こういうのこそ、心が離れてきたというのかもしれない。わたしたちの心のベクトルは分度器の目盛りがほんの一度ズレた方向に走り始めたのかもしれない。
そして誠のベクトルの先には彼女がいるのかもしれない。わたしたちは二度と交わらない。……そういうのはたまらない。想像というのは時には酷く残酷だ。
取り戻せないものなのかなぁ?
青空の下に洗濯物を干しながら考える。
彼のワイシャツに付いていた袖口のシミがきれいに取れていて、最近の洗剤はすごいなと思う。叩いたわけでもないし、擦ったわけでもない。洗剤が優秀なのだ。シュッとスプレーしただけ。わたしの手柄ではない。
この淀んだふたりの空気も洗濯機に入れて、部屋干しOKの洗剤でガラガラ洗ったら新品みたいにきれいに戻らないかな。
やっぱりこんなにズボラじゃダメなんだろうな。
彼女はきっとまめまめしくて、機敏で、挨拶も弾むように明るい。――そう、こんな青空みたいにさぁ。
······慰めてほしかったのかな。愚痴りたかったのかな。そしてそれはまだ、新しい彼女の前ではできないことだったのかな。
逃げてしまった以上、どちらにしても同じことだ。感傷的になる必要は無いんだよ、自分。
マルメンを一本出す。親指と人差し指でつまむ。洗濯物に臭いが移らないようにしなきゃ。
思い切り吸い込んで、思い切り吐き出す。
この世には吐き出さないとやり切れないことがあるんだ。
わたしにはマルメンがある。誠には――プライドがある。そういうことだ。
「おはよう。土曜日なんだから好きなことをしたらいいよ。まして俺のシャツなんか洗わなくていいのに」
「いいの、ついで」
沈黙が風のないベランダに淀む。タバコは持ち歩いている携帯灰皿に揉み消した。誠はわたしの隣に腰を下ろした。
青空はふたりを悲しくさせるには十分、悲しい色だった。
気持ちばかりに並べた多肉植物が、変な風に伸びているのに気がついた。日常というのは知らぬ間にねじ曲がっていくものなのかもしれない。このかわいそうな植物のように。
「デート、行かないの?」
「んー、今日は行かないんだ。毎日会うってものでもないだろう?」
「そうなんだ。わたしたち、毎日のように会ってた気がするけど学生だったから滅茶苦茶だったしね」
「そうだね。有結はその頃から言ってるのにタバコをやめない」
何気ない会話にドキッとする。そこに本質的ななにかがないことはわかっているのに『タバコをやめれば誠は戻ってくる』という馬鹿げた妄想が頭の中を占める。
そんなことで関係性が変わるなら、もうとっくに別れていたに違いない。本当に馬鹿げていて、馬や鹿に申し訳ない。
「······タバコ、本気でやめようかな」
「そうだね。その方がいいと思うよ」
やわらかい微風がそっと頬を撫でた。まるで傷だらけのわたしの心を癒すように。
誠はさっと立ち上がるとTシャツの上に半袖のリネンのシャツを羽織った。
「出かけるの?」
「散歩してなにか食べてくる。買ってくるものある?」
「······特にない」
一緒に食べないの、と軽々しく言えなかった。追いすがって、重い女だと思われたくないと思ったのも事実だけど、断られるのが怖かった。
彼はわたしの表情の変化を一通り読み取ると、いってくる、と、玄関に向かってしまった。
待って、わたしも行くよ、という言葉は脳内で凝固した。滑らかに口から出てこなかったんだ。
不意にポケットに入れてたスマホが鳴って、着信を知らせる。
LINEが一件、DMが一件。
まず仕事関係に違いないDMから開く。新しい仕事だといいな、と思うと、めんどくさい客からの一報だった。
なかなかOKが出ないので、いままでと方向性を変えて、まったく別の印象の絵に変えてみたのだ。鉛筆でラフを描いて、色鉛筆で軽く色を置いた。
『バッチリです! ありがとうございます! これこそkanaさんの絵って感じです!』
kanaというのはわたしのペンネームだ。苗字の『金沢』から取った。
とにかくこれでひとつの仕事に目処がついた。あとは線画を描いてPCに取り込んで、彩色すれば良し。彼の小説に彩りを与えてあげられればいいんだけど。
わたしの描いた表紙で
今日はツイている。
夕方までは仕事をすることにして、洗濯カゴを脱衣所に投げておく。誠はいつ帰るのかわからない。
部屋に向かいながらそう言えば、とLINEを開く。LINEは苦手だ。わたしも相手も一方的な感がある。ぎこちなくて歩み寄れない歯痒さがある。
――今日は暑いな。
教師からだった。
わたしの友人は教師しかいないような錯覚に陥る。落ち着いて、近くにはいなくても離れたところで友人は元気にしてるから。
――洗濯物がよく乾きますよ。明日から雨らしいから。
即レス。
――嘘だろう? 俺、知らない。
――天気予報見てください。今夜遅くから降り始めますから。
まったく、いまどき天気予報アプリも入れてないのかと思う。まぁ、でも油絵の画家はアナログっぽそうだよなぁと思いながら、もう一本タバコに火をつける。
――今日も不動産屋巡りか?
――いいえ。今日はうちで仕事です。
――土曜日なのに働き者だな。そう言えばもうイラストだけで絵は描かないの?
絵か······。あんまり考えたことがなかった。
お金になりそうもないし、そこにぶつけるなにかも、情熱もないし。もしそれがあったなら、ひとりになることにこんなに不安にならなくても済んだかもしれない。
――考えたことないです。
――そうか。特に意味は無いから。
特に意味が無いなら聞いてこなければいいのに。聞かれると急にそのことで頭がいっぱいになってきて、いまの自分の仕事のことが追い出されてしまう。
もちろん、イラストだって絵なんだけど。
水彩や油彩で絵を描いてきたときのことを思い返す。臭い、手触り、ささいな一筆の入れ方、二度と戻すことのできない、デジタルとは違う世界。
クローゼットを開ける。
さすがに油彩は狭いところにしまってないけど、一枚のデッサンに目が留まる。――それは高校の時に履き古した室内履きの絵で、くたびれ具合がなかなかよく描けたと思っている絵だった。大学で初めて描いた絵だ。
目の高さまで上げてみる。
特に他人より上手い絵ではなかった。
わたしなんてその程度なんだなと思った最初の絵。
また絵を描くなんて考えたこともなかった。
ただいま、と俯きがちに玄関から誠は入ってきて、小さな箱をひとつくれた。深紅のツヤのある印象的な箱。そしてそのまま自室に向かった。気がつくと外は暮れていた。
すれ違う時、ほんのりアルコールの匂いがして、外で飲んできたんだなと思う。
「開けてみてよ」
「うわぁ、かわいいケーキ。オペラだね。チョコレート、ツヤツヤ。これ一個しか入ってないよ、食べちゃっていいの?」
「いいよ。それは有結のだから」
ありがとう、と言いながら、チクリとなにか刺さるものを感じる。そんな風に変に気を回されるといたたまれない。
ハッとなって、自分の世界に閉じこもってたことに気がつく。「ご飯、食べてきたから」と聞かなくてもわかる台詞を言われる。「ああ、そうなんだ」と別に気にしてないように返事をする。本当に彼女と会わなかったのかな、と邪推する。
「じゃあ遠慮なくいただきます」
チョコレートが鈍く光を反射する。それを無理にフォークで割ってケーキを一口分にする。口に入れると濃厚で、上品な味が広がっていく。
こんなケーキ、いままで買ってきたことないのにな。
誠はわたしが好きなのは、苺ショートかモンブランだと信じている。買ってくるのはいつもどちらかだ。
会社帰りに明るい声で「ただいま」と言いながら、靴を脱ぐ前にコンビニの袋を渡される。パッケージにふたつ入ったショートケーキ。「おみやげ」という名の、それはもう過去のものになった。
彼女が彼を変えてしまったに違いない。
苺ショートやモンブランより、高級でお洒落なデザートを教えてもらったんだろう。悔しいけど高級で甘い、甘いケーキ。
コンビニのケーキのことは『思い出ボックス』にしまっておくしかないだろう。クローゼットの中のデッサンのように。
時間は不可逆だ。
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