第5話 クソ彼女

 教師は彼らしくなく、頬杖をついて、はーっとため息をついた。気だるげだ。それまでとあまりに違う。

 訝しんで観察していると、窓の外を見ていた目線が突然こちらを向いて、真正面から顔を見られた。前置きなしの動作にドキッとする。

「これもひとつの手段だと思え。選択肢のひとつだ。選択肢は多い方がいいだろう?」

 はい、とよくわからないままに返事をする。それでも教師はどこか乗り気ではない調子で、そわそわしながら口を開いた。


「あー、うちのことなんだけども」

「はい」

 彼は一言話してコーヒーを飲みこんだ。話しづらいなら無理に話さなければいいのにと思いながら、次の言葉を待つ。

「どうせなかなか決まらないんじゃないかと思って。ほら、いま流行ってるだろう? 何人かで家を――」

「シェアハウスですか?」

「そうそう、それ。お前、アパート決まらないんだろう? もしそのクソ彼氏との期日までに決まらなかったら」

「クソとか言わないでください」

「いや、教え子を捨てられたんだからさぁ」

 知らないフリしてコーヒーを飲む。

 なんてひどい教師だ。口が悪すぎる。

 確かにわたしは捨てられたのかもしれないけど、彼にだけ非があるわけじゃないかもしれない。わたしがだらしなくて嫌になったのだとしたら、非があるのはわたしだと思う。


「まぁそう怒るなよ。俺、近くの古い一軒家、借りてるんだよ。自宅兼アトリエにね。油もアクリルも絵を描く時は臭いからさ、アパートじゃやりきれなくて。そんでまだ部屋は余ってるから······その、つまり『シェアハウス』と割り切ってしまえばだな、男女でも」

「シェアハウスは異性でもしますよ。――でも、そんなこと言っちゃっていいんですか? 先生の彼女を呼ぶのも困ることになっちゃう」

「いないよ」

「は?」

「いない。彼女はいないから変な気を遣わなくていいから。だけどこれは最終手段だぞ。やっぱり教師と元生徒っていうのは」

「やらしい」

「そう、やらしい」

 教師は腕を組んで頷いた。

 一体どこからが本当の話で、どこまでがおとぎ話なのか。信じろという方が無理だ。わたしはそんなに世間知らずじゃない。


 教師となんだか不自然な話をしたあと、午後の日差しは傾きかけていて、買い物をしなくちゃと思う。エコバッグ持ってきたかな、と不安に思ってカバンのジッパーを開けたところで手が止まった。

 今夜も食べてくるのかもしれない。

 彼女の部屋で、彼女の手料理を前にして朗らかな笑顔で今日あったことを話しながら。

 食べてきたものがこみ上げてくるような気がした。そしてそれと共にあの紅い氷の冷たさが喉元を冷やした。

 なにを食べてなにを話してなにをしてくるのか。

 そんなこと、わたしの知ったことではないかもしれない。わたしたちはお互い別々の道に進むことになったのだから。

 でも、気になるものは気になる……。

 彼女のことは話したくない。そんな気持ちになるものなのか。

 わたしにはなにもかも秘密なんだね、と空の高いところを見つめた。


 部屋に帰るとDMが三件入っていたことに気がつく。嫌だ、顧客を増やすにはこういうところに気をつけて、できるだけ即レスできるようにしなくちゃ。

 一件は先日の、はっきりしない注文についてだった。残りはアイコンが一件、それからお得意様から新しい小説のイメージイラストをキャラの立ち絵など数枚、請け負うことにした。

 いまはWeb小説でも表紙や挿絵をつけるらしく、やはりその絵が魅力的な作品の方が人気が出ると彼女はディスプレイの向こう側で語った。そして彼女の世界のイメージにわたしのイラストがよくハマるのだと言ってくれた。

 バイトをしていないいまのわたしには貴重な収入源であり、また自分をより深く知るいいチャンスでもあった。

 いい絵が描きたい。お客様に気に入ってもらえるような。

 長い髪を束ねて細い一本の三つ編みを結う。

 先方とできるだけ親密にDMでやり取りをして好みを聞き出し、わたしの場合、紙に鉛筆で何枚かのラフを描く。とりあえず小さな仕事であるアイコンのラフから手をつけ始め、お客さんにOKをもらい休憩に入った。


 ……コーヒーの香りで落ち着く。

 そう言えば今日は妙な一日だった。

 あの教師は一体なんなのだろう? 十数年ぶりに再会しておいてシェアハウスとは……。

 シェアハウスか。

 考えられない話じゃない。条件によっては、教師も絵を描くわけだし、気兼ねなくわたしも仕事ができるかも……ん? 教師はぶらぶらしてるけど、学校はどうしてるんだろう?

 ――まぁいいか。

 どうせ選択肢のひとつだし、そんなに重く捉える必要は無い。

 アパートを借りられれば、わたしはデジタル主体の作品しか描かないからそういうアナログな絵画特有の問題は特にないし。せいぜい使ってもアクリル絵の具だ。


「ただいま」

 おかえりなさい、とコーヒーを置いて振り向くと「着替えてくる」と彼は自室に向かった。

「……ご飯は食べてきたの?」

 ドキドキしながら答えを待つ。あんまり期待しない。自分を傷つけないためだ。用意もご飯を炊いただけだった。

「今日は食べてないんだ。いいよ、作らなくて。俺だって有結になにもしてあげられてないんだし、そういうことで甘えられないよ」

「甘えってわけじゃないよ。作っちゃったから食べてくれないと。かえって助かる」

 そう、作っちゃったんだよ、昨日。

 冷凍庫に残されていずれ捨てられるより、いま食べてもらった方がカレーも浮かばれる。……わたしも。

 先にお風呂に入ってもらって、カレーを温める。

 セールだったキュウリと、誠の好きなセロリをスティックにしてサラダにする。

 ズボラなわたしでもこれくらいはできる。

 マヨネーズとコチュジャンでディップを作る。誠の好きなやつだ。

 お風呂のドアが閉まる音がして、タオルで髪を拭くバサバサっという音が聞こえてくる。慌ててテーブルの上に料理を並べて、カトラリーを出し忘れたことに気づく。

 ダイニングに彼が現れる頃にはなんとか準備は終わっていた。


 カチャ、カチャ、……。

 いただきますの後は沈黙が続いた。この嵐の前の静けさのような時間をどう乗り切ったものか、ない頭で考える。

 とても、とても難しい数学の問題のようだ。

「仕事、どう?」

 誠はわたしの仕事を全面的に受け入れてくれていた。たかがイラスト、と扱わず、わたしの本業だと理解してくれていた。

 わたしはスプーンを置いた。

 誠はセロリを予想通りかじった。

「今日はね、この間のをラフからまた起こすことにして、そのほかに新規の依頼が二件来たの。一件はアイコンなんだけどTwitterのフォロワーさんで元々わたしの絵が好きって言ってくれてるから話が早くて」

「へぇ。ファンだね」

「や、ファンかどうかはわかんないけど」

 かぁーっと頬が熱を帯びるのを感じる。それがお世辞でも話の繋ぎでもなんでもよかった。

 久しぶりにことが重要だった。

「もう一件はね、前にも依頼があった人からのリピートな上にけっこう枚数描かせてもらえるから、お金にもなると思う」

 ふぅん、と今度は興味無さそうにカレーを口に運んだ。隠し味の飴色に炒めた玉ねぎが、彼の口の中に入っていく。

 どんな味がするんだろう? いつもと同じだと思うのかな? ほんの小さな工夫だから気がついてくれなくても傷つく必要はないよ、と自分に言い聞かせる。

「俺は――」

「うん」

 話しながら彼はわたしの目を見なかった。

「俺は今日、顧客との打ち合わせの時間を間違えて最悪だった」

 そう……。そう、としか言えなかった。自分のことをはしゃいで喋ったわたしこそ、まさにあの教師が言ったクソだった。

 帰ってきた時の彼のテンションの低さに気づかなかったなんて、まさに彼女失格だ。

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