第2話 教師
◇ 16日前(木曜日) ◇
わたしの仕事はイラストレーターだ。そう、お絵描きの延長線。子供の頃から外で遊ぶよりクレヨンがすきで、幼稚園の先生を泣かせた。
上手い描き方なんてわからずにひたすら何枚も、何枚も描いて、ケント紙やコピックも買って、うわーって出てくるはみ出したエネルギーをイラストにした。
見方を変えるとイラストばっかり描いてる陰キャだ。幸いオタバレすることはなかったけど、中学になると話が変わった。
美術の時間に描いた自画像が先生の目に止まった。
元々、美術の成績なんて気にしてなかったから思うように描いた。
五月だった。
木の芽が萌え出て眩しかった。
だからわたしは自分に似ているかわからないギョロっとした目をした赤茶色い顔に、緑色の髪の毛を巻き付けるように、芽吹くように描いた。
我ながら傑作だった。
それぞれの色は自分を保ったまま絡み合い、時に手を取りあった。
そしてそれに熱中していたわたしは、先生の気配に気がつかなかった。
「お前、やるな」
振り向いた。新任の美術教師の顔を初めて見た。よく見るとほどほどにイケメン。少なくとも若い。
「名前は······」
「金沢です」
「金沢さんはこういうの誰に教わったの?」
「······自分で。イラストを描くのがすきなんだけど、パソコンもタブレットもスマホもないから絵の具でいつもこんな風に、頭の中のイメージで描いてます······」
情けなくなってきた。
時代はデジタルだ。
描いた絵をSNSに上げるなんて、夢のまた夢。高校生になったらバイトをするんだ。それでお金を貯めて。
「ふーん。枚数描いてるやつは違うなぁ。この絵の勢いは若さだな。うん、すきなように続けてみなよ」
教師はニカッと白い歯を見せつけたりせず、普通に呼ばれた生徒のところに行ってしまった。
結論を言うと、その絵はちょっとした賞をもらって職員室前の廊下に展示された。
自分の絵がそんな風に丁寧に扱ってもらえることがあるなんて思ってもみなかったから、そこを通る時はなんだか怖かった。
教師は無責任にも「誰にでも取れる賞じゃないんだぜ」と言った。胸がドキドキして、それは絵のことなのか、それともそのほかのなにかのせいなのか、わからなかった。
教師はことある事に「自分の世界観持ってるって強いぞ」とか「自分が思う通りにやってみな」と言った。元よりそうしたかったので、変に作品に手を入れて邪魔してこないことに感謝しながら授業を楽しんだ。
ところが、その教師が転任することになってしまった。臨時雇用だったのだ。その場合、一年しか同じ学校にはいられない。
離任式の日、若い男性教師とあって、先生はたくさんの花束を抱えて女の子に囲まれていた。
わたしは少し離れたところからそれを見た。もちろん花なんか持っていなかった。手紙もなかった。文章は苦手だった。
不意に、教師と目が合った。
逸らそうと考えた。
でもその前に教師が口を開いた。
「金沢!」
顔を上げる。
「お前、絵、続けろよ! 自分を信じて、自分の思うようにやればいい。お前はお前でいいから」
恥ずかしくて返事なんかできなくて、頭を小さく、顎を出すように下げた。
そうなのか。すきなことをすきなように続ければいいのか。
――それがその教師がわたしに植え付けた悪の種だ。
それからは高校時代、バイトして、iPadを買って、大学の、名前だけは『美術』とつく学科を出て今に至る。
誠は近くの大学の経済学部にいて、合コンで知り合った。正直、甘いお酒に酔いながら「いい男だな」と思った。それは彼が礼儀正しくて、シュッとしていて、気を利かせたリーダーシップを発揮する人だったからだ。
イラストはそこそこ売れている。それは寄せているから。自分の描きたいように描いていたらこんなに売れない。買い手の趣味に合う絵に寄せるんだ。
個性は押し殺せ。
瞳の中にハート型のハイライトだって入れるし。
買い物の帰り、近所のカフェに当たり前のように入って、当たり前のようにカフェモカを頼む。
店は狭くて、カウンターしかない。
キッチンに向けてカウンター席があるだけなんだけど、ダークブラウンに妙にお洒落に仕上げた内装が落ち着く。奥さんの趣味でドライフラワーがいくつか飾られ、コーヒー色の枠と針のついた丸い時計がチクタク鳴った。
音楽はよく知らないメロウなヒップホップ。「すみません、これはなんていう音楽ですか?」と以前、店長に聞いたらそう言われた。
チリンとドアベルが鳴って、背の高い男性が入ってきた。でもそんなことはよくあることなので、にんじんやらジャガイモやらが入ったエコ袋を足元にお行儀悪く足で引き寄せた。
わたしはその、いまだによくわからないメロウでヒップホップな音楽を聴きながら冷房の心地よい店内で熱いコーヒーを飲んでいた。······昨日のことに思いを寄せないわけにはいかなかった。
「金沢、じゃない?」
誰、と思いながら隣を見ると知らない人がいた。少なくとも学生の時から住んでいるこの街での知り合いではなかった。
「金沢だろう? その、だーっと長い髪、お前だと思ったんだ。中学の時とお前も変わらないな。俺の勘もなかなかのものだ」
そう言うと男は図々しくもわたしのすぐ隣の席に座り、カプチーノをひとつ、マスターに頼んだ。
「元気か? あの後、どうしてた?」
「······すみません、どなたですか?」
恐る恐る小さな声で窺うようにそう言うと、相手は大きな声で笑った。
「これは失礼。覚えてなかったか。ほら、中学の時に美術を一年教えたんだけど」
「あ、美術教師」
「そうだよ、美術教師だよ。失礼だな、先生って呼べよ。お前、いまも描いてるか?」
機嫌の良い美術教師の隣で、なぜかわたしは俯いた。顔を上げてシャンと、いまも描いてるって言えばよかったのに。なぜか、言えなかった。
酔っぱらいと同じだった。
あまりに教師が赤の他人との垣根なく話しかけてくるので、涙を抑えながら洗いざらいすべてを話してしまった。もう振っても叩いても出るものはなかった。
「困ってるのは別れること? それとも家がないこと?」
両方、とわたしは答えた。疲れていた。それは前日のことだったのに。
ことん、と目の前にチーズケーキが置かれた。ブルーベリーソースがかかったクリームチーズの。教師が勝手に頼んだ。それもふたつ。自分も食べるらしい。
「別れることに関しては、俺にはどうにもしれやれないな。でも話くらいなら聞いてもいい」
「······もうこれ以上、話すことなんてないです」
「バカだな。昨日までのことは全部聞いたけど、今日、またなにかが起こるかもしれないだろう? 一年間、お前の教師だった縁だ。なんでも話せ」
わたしは顔を教師とは反対側に向けて、口を手で覆ってこらえきれず笑ってしまった。
「ふっ。先生っておかしい。若い時から美術教師なのに変に熱血で体育会系なところがあるなって思ってたけど······」
「失礼だな。いまもまだ若いぞ。まだ三十代だ。十しか違わないんだぞ」
「嘘!?」
「あの時、新卒だったから二十三で、お前は中一で十三だっただろう? 」
本当だ、驚いた。冷たくなったコーヒーを一口飲み込んだ。
あの頃の『十』は果てしなく遠いものだったけど、この歳になるとそんなに隔たりがない。
僅かに、ほんの僅かに親近感が湧いてくる。
銀色の細いスプーンを取り上げて、真っ白いケーキに真紫のソースをすくい口の中に運んだ。甘い。甘酸っぱい味がとろり、口の中で蕩けた。
なにかあったら連絡しろよ、と教師は押し付けがましくLINEまで交換して先に帰って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます