なんにもない。

月波結

第1話 消しゴム

 ごしごしごし······。

 消しゴムかけはいつも気を遣う。

 消しゴムは悪いヤツを消してくれるいいヤツだと思っている人たちがいる。

 果たして本当にそうだろうか?

 ツルツルのケント紙の表面が少しずつ、少しずつ削れて······。

「うわっ!」

 やってしまった。いつだって力の入れすぎなんだ。紙の端をくしゃくしゃにしてしまった。


 本当にもう、わたしはいつだってそうだ。

 なにかが欠けている。

 まぁそう。いまで言うなら集中力。

 人間の意識というものは不思議なもので、指先から持ち物、乗り物の端っこまで拡張するらしい。つまり、今で言うなら消しゴムの紙との接地面に意識は拡張されていたはずなのに、だ。


 ――向いてないのかもしれない。

 バタンと頭をローテーブルに傾けようとしたら消しカスだらけだった。そんなところもとろくさい。

 ふーっとため息をつけば消しカスが飛ぶだけだ。

 わざわざカバンの中にしまってあったものを、カバンの持ち手を掴んで引き寄せる。

 あった、あった。やっぱり無いわけにはいかない。例え世界中の人に鼻で笑われても止められないことってある。


「ふーっ」

 マルメンの煙が濃く口の中を流れる。鼻腔はその香りでいっぱいになって、頭が瞬間、すっきりする。

 吐き出すものはもうため息だけじゃない。芳しい煙が主成分。ため息に、ため息をつく必要は無い。


「ただいま」

「おかえりぃ」

 慌ててタバコをくしゃくしゃに揉み消す。そう、禁煙、禁煙。

「あー、また吸ったな。約束、ちっとも守らないよな。健康に悪いぞ」

「······ごめんなさい」

「せめてもう少し女の子らしいタバコにすればいいのに。······なんだ、行き詰まってるの、仕事」

「うーん」

 肯定とも否定ともつかない返事をしながら体を伸ばす。肩を丸めるような姿勢で長時間いたらしい。伸ばすと気持ちがいい。

「行き詰まってるっていうか、先方とコミュニケーションが上手く取れなくて。どんな風に描いてほしいのか全然わかんないの。それでラフ見せると『〇〇に載せてた作品みたいにもっと素敵に描いてください』って。どれも同じくらい素敵に描いてるつもりなんだけどなぁ」

「そりゃ大変だ。風呂入るよ」

「どうぞ」


 まことは普通のサラリーマンだ。本当のところ、普通かどうかはよくわからない。でもテレビに出てるような人たちと同じなので、たぶんそうなんだろう。


 ここは誠のアパート。

 わたしはイラストレーターと言っても、売れっ子なんかじゃ全然なくて、アイコンひとつ三千円、立ち絵一枚五千円で描いてる。Twitterのプロフには「仕事の依頼はDMで」と書いている。『イラストレーター』という言葉にしがみついていなければ、になってしまう。


 正直、収入はお小遣い程度で課税されることもない。

 居酒屋のバイトはこの間、辞めてしまった。しつこい変な客がいて、心配した誠が迎えに来てくれてたんだけどシフトを変えてもダメで、誠も迎えがしんどくなって辞めてしまったのだ。


 バイトはいくらでもある。

 でもイラストレーターでいるのは難しい。


 もう一本のタバコに手を伸ばしてから止めて、夕飯の支度にとりかかる。今夜はナポリタンとサラダ。硬くて細い麺を茹でようと、大きな鍋に水を張る。

「あ、俺、メシいらない」

 水を出しっぱなしのまま、誠の目を見る。早く言ってくれたらいいのに。

「お風呂いつもより早かったね」

 シンクのへりに腰で寄りかかる。

「暑かったからさっさとシャワーだけで済ませた」

 そうなんだ、と答えてなんでもないふりをする。

 さて、自分のご飯はなににしよう。めんどくさいからインスタントラーメンに卵を落とせばいいか。作っちゃったサラダはラップして冷蔵庫だ。


有結あゆ

「なに?」

 インスタントラーメンの袋を開けている時、首元に寒気を感じた。すっと、そこだけ冬の風が通り過ぎた。この生ぬるい六月に。

「別れようか」

「······」

 そう来たか、と答えようとした。でもなぜか声が出なかった。代わりに頭が真っ白になって、鼻の奥がツンとした。

「どうして? どうしていきなりそんなこと言うの?」

 ああ、ダメだ。こんなこと言ったらあかんやつだ。どれだけの漫画で使い回されたフレーズだ。

「そうだな。いろいろ考えたんだけど、お前と俺の生活スタイルはすれ違ってるし、お互い自由になった方がいいんじゃないかって思ったんだ」

「そうか、自由になりたいんだね。どうせわたしはしがないだし、イラストだって全然売れないし、このままじゃ寄生虫みたいだし、それにわたしのこと、もういらなくなったってことだよね? つまるところ」

「······自由になりたいっていうのは確かかな。フリーターとか寄生虫とか、そんなのはどうでもいいんだよ。ただ、別れたい。別れてほしい」

「やり直そう、じゃなくて? そのチャンスもないの?」


 誠はキッチンの床にしゃがみこんだ。わたしはバカみたいにいつまでもラーメンの袋を握りしめていた。まるで幸運のアイテムのように。

「――好きな子、いるんだ」

 心の中のすべてが一瞬かたまった。それはまるで氷の塊のようにわたしの心をキリキリさせた。重みと冷たさで目が回りそうだった。

「······好きな子って、なによ。だってずっと一緒にいたじゃない」

「とりあえず週末にはここを出るよ」

「あてはあるの?」

「男だからなんとでもなるよ」

 その子の部屋に行くんだ、と思った。

 この部屋は誠名義で借りた部屋だ。わたしが出ていかないわけにはいかない。

 アホみたいに鼻水が出て、涙が出て、キッチンの少し湿ったタオルで顔を隠した。

 ああ、もう本当に終わっちゃうんだ。

 どんな子が誠の心を射抜いたんだろう。きっと笑顔がかわいくて、毎日きちんと化粧をしていて、子鹿みたいに機敏に働くんだ。


「誠、それは間違ってるよ。出ていくのはわたしだよ。ほら、わたしだけじゃここの家賃も払えないしさ。急いで物件、探してくるから」

「そんなことできるの? 事務的なこと苦手なのに」

「大丈夫、なんとかする。そうだな、二週間くらい。えーと、今日は水曜日だから······十七日後に、出ていきます」


 出ていく日が来るなんて考えたこともなかった。未熟なわたしが『結婚』というものを意識するのは畏れ多いと思っていた。でもこのまま、学生の時に前のアパートで同棲し始めた時の気持ちのまま、毎日が続くものだと。


 道は途中で途絶えることもあるのだと、怖いことを考えていた。



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