第3話 背中

 その日も誠は食事を済ませてきたことを謝って、お風呂に入るとすぐ自室に戻ってしまった。

 自室、といっても同棲してるんだし、お互い行き来自由だった。

 どちらかというとわたしの部屋は仕事に占領されていたので、誠の部屋に行く方が多かった。


 ダイニングテーブルに着いて、静かに考える。

 今日買ったニンジンやらで作ってしまったカレーは彼がお風呂に入っている間にジップロックに詰めて冷凍庫にしまってしまった。

 香りは残っていたかもしれない。けど、見られたくなかった。わたしなりに『今日の工夫』をしたカレーを見られることは悲しいことのように思えた。玉ねぎを飴色になるまで、無心で炒めたことをひどく後悔した。


 なにがいけない? どうしたらよくなる?

 わからない。

 いま、誠はどんな顔をしているんだろう?

 覗いてみようか? ······そんなわけにはいかない。


 怖い。なにも言わない人が。


 夜更けに、静かな寝息がかすかに聞こえてくる。

 リビングで寝ずにまだスマホをいじってたわたしはどうしても気になって、足音をできるだけ立てないように細心の注意を払って、彼の部屋に行った。

 ――特段、変わったことなどないんだ。たった一日でガラッと彼女の趣味に模様替えされてたら逆に笑えるし。


 細くカーテンの隙間から夜の街あかりが差し込む中、彼は健やかに眠っていた。それは誰かが邪魔をしていいことではなかった。

 彼は壁を向いて寝ていた。

 そういう性質なのだ。横向きに寝る。

 それでもわたしは寂しいので、いつも無理にこっちを向いてもらう。ねえ?

 怖いものが夜の中に潜んでるかもしれないじゃない? だからそっと抱いていて。

 寝ぼけ眼の彼はやさしく微笑んで寝返りを打つとわたしを包み込んだ。

 ほら、こんなに愛されてる。


 ベッドの隅にそっと腰を下ろしてみた。起きる気配はない。だからもっと気をつけて横になってみた。

 と言っても、いままではほとんど毎日一緒に寝てたけど。

 背中。正しいリズムの寝息と、ゆったり無理なく丸まった姿勢。

 彼はいつもこうやって眠りたかったのかもしれない。わたしが邪魔をしていたのかもしれない。

 ふと、思いつく。

 ベッドの向きを変えればよかったんじゃなかったのかな?

 そうしたら誠は壁の方を向いて寝なくて済んだのに。

 バカだな、こんな時に思いつくなんて。


 背中に頬を寄せる。体温が伝わってくるのにピクリともしない。

 ああ、体もわたしを忘れちゃったんだ。わたしを抱きしめることを、腕を伸ばしてくれることを忘れちゃったんだ。彼の腕はわたしじゃない女性ひとを抱きしめるためにある。

 胸がキリリと軋む。


 ――明日こそ不動産屋に行かないと、約束不履行になってしまう。二週間で見つかるかな?

 学校のあるこの街に残っている人は少なかった。みんな、就職先に越したり、地元に戻っていた。

 即日入居できるところを。古くてもいいから······。


 涙が。嗚咽が止まらなくなる。

 ここからは彼の寝息とわたしの嗚咽の協奏曲コンチェルトだ。······いつになったら気づいてくれるの?

 気づかない。深い眠りに落ちている。

 ひとしきり泣いて、こんなことをしてもどうしようもないことを悟る。

 そっと、来た時と同じように自室に戻ろうとして――。

「有結、ごめん」

「なにも謝ることないってば」

「······泣かせた」

 しん、と窓の外も中も静けさに染まった。

 ひと言も言い出せない。その背中に、また手を置くのは躊躇われた。


「どういう人?」

 そろり、と誠はこっちを向いた。表情は見えなかった。気配が彼の驚きを伝えていた。

「······こっち来る?」

 瞬時迷って、招かれた彼と壁の隙間に滑り込む。ああ、そうだ。これならわたしは床に落ちないんだ。

 誠は頬杖をついた姿勢でわたしを見ていた。不思議とそこに澄んだ視線を感じた。

「彼女の話はしたくないんだ、ごめん。······こんな風になるなんてあったらいけないことだよね?」

 瞳の色が突然悲しさに支配される。

 わたしはなにか気の利いたことのひとつでも言って、場を繋ごうとした。会話が終わるのは怖かった。

「······どこにでもあることだよ、きっと」

 じっと見つめられる。嘘つきは磔にされるかもしれない。その上石を投げられたとしても、そういう偽善ぶったことしか言えなかった。


『どこにでもあること』、本当にそうかもしれない。それでも自分に降りかかってきたものの重さに耐えられそうにない。すがりつきたい。誰かに――そう、あなたに。


「ごめん、そういうのはいまは無理なんだ」

 腕の中にしまってほしいと願って飛び込むと、ピシャリと撥ねつけられた。踏切の遮断機を思わせた。

「······ごめんなさい。そうだよね、わたしたち付き合ってるわけじゃなくて、いま、わたしが居候してるだけなんだった。勘違いしちゃった」

 やだなぁ、と顔にかかった髪を耳の脇によけながら体を起こした。そうだ、この人はもうわたしを好きじゃない。勘違いしたらいけない。『やさしさ』は『施し』だ。

「そういうこと言ってるわけじゃないよ。眠れないんでしょう? 隣で寝ても大丈夫だよ」

「······よしておく」

 彼も上体を起こしてわたしを見た。

「じゃあどうしたいの? 一緒に寝たくてここに来たんじゃないの?」

「だってもうそんな権利ないって」

「同じベッドで寝るだけなら。いつもひとりじゃ寝られないってよく言ってるでしょう?」


 彼はさっと布団に戻ったので、わたしも習うように横になる。もぞもぞと同じ布団に入る。触れた彼の背中が、僅かにわたしを避ける。夏用の、慣れ親しんだ軽い掛け布団はもうすぐお別れだと思うとまたさみしくなる······。

「······好きだよ。わかってるの、言っても意味がないこと」

 一瞬、誠の背中が固くなった気配がした。わかっていたことだけど、余計な事だった。いま以上に嫌われるかもしれない。

 それでも、いま言わなければいつ言うんだ、と思ったから。


 返事はない。

 彼の肩の力が抜けた。

 部屋の空気がわずかに動いた。

「おやすみ」

 わたしは間違っていた。わたしと誠の向きが逆だったとしても、背中を向けられる日がもう来てたんだ。

 甘えたら抱きしめて腕の中に入れてくれる日はもう過ぎたんだ。

 涙がじわっと滲んできた。おやすみなさい、と返事をした。


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