第七十三話ー危惧


 宮陣春樹の自室から見つかった雪之丞宛の手紙と彼が調査の最中ずっと付けていたと思われえる手記が見つかってから数日後。


「はい、お待たせ」


 特夷隊の詰め所へやってきた雪之丞は春樹の調査を真澄から依頼された隼人と拓へ、自身の実家と宮陣の実家から届いた書状を手渡した。


「ありがとうございます。秋津川博士」


 2通の書状を受け取り隼人と拓は揃って雪之丞に頭を下げる。これでようやく祭事部関係者への調査が可能になると思うと、逸る想いだった。


「ごめんね、君達には色々負担をかけるけど」


「いえ、春樹さんの事は行方知れずになった時からずっと気になっていましたから、こうして行方を捜す手立てが出来て少しほっとしています」


 特夷隊としての業務の合間に別の業務をこなす事になる二人に雪之丞は深く頭を下げた。春樹が行方不明になった原因の一端は自分にある。ようやくこうしてこちらに戻ってこられた事で、自分がいなかった間の清算をしようと思っていた。


「僕も真澄と一緒に違う方面から春樹君の件は当たってみるから。進展があったら教えて」


「分かりました」


 隼人と拓に書状を託した雪之丞は、ちらりと普段真澄が座っている隊長用の執務机の方を見る。まだそこに座るべき主の姿はない。そういえば、昨夜は巡回の宿直勤務だと言っていた。

 未来の日ノ本から現在の日ノ本に戻ってきてまだ数日の雪之丞には、特夷隊の業務がどのように行われているか、はっきりとは頭に入っていなかった。

 巡回というからには、夜な夜な東京の街を見回り、怪夷の脅威から軍都を護っているのは想像がつくが。


「真澄って、昨日は巡回だっけ?まだ戻ってないの?」


「いえ、多分隊長はまだ仮眠室かと。そういえば、同じ巡回組だった南天と鬼灯が医務室に入っていくのを見たような…」


「医務室…三好君の所か…」


 隼人から聞き出した話に雪之丞は一瞬眉を顰めたから、にこりと微笑んだ。


「じゃあ、僕も少し医務室に行こうかな。真澄が起きてきたら呼びに来てくれる?」


「分かりました。でも、俺達はこれから春樹さんの件について聞き込みに出るの、他の誰かに伝えておきます」


「うん、お願い」


 ひらりと踵を返し、ひらひらと手を振りながら雪之丞は執務室を出て奥にある医務室へと向かう。

 その途中、ちらりと仮眠室がある2階へつながる螺旋階段を見上げた。

 しんと静まり返った2階からは誰かが下りてくる気配はない。

 しばし上の階を見詰めてから雪之丞は再び歩き出し、今度は寄り道をせずに医務室へ辿り着くと、引き戸をノックした。


「おはよう失礼するよ」


 中からの返事を待たずに室内へ入ると、そこには丸椅子に腰掛けて背中を丸めている南天と、仁王立ちで珍しく眉間に皺を寄せながら引き攣った笑みを浮かべている鬼灯という修羅場が広がっていた。


「…なに?これ、どしたの?」


「ああ、ドクター。いい所に」


 目の前に広がる光景にポカンと雪之丞が口を開くと、待ってましたとばかりに鬼灯が雪之丞を振り向いた。それにつられて南天も雪之丞の方を見遣るが、こちらは何かを隠すように直ぐに視線を外し、叱られた猫のように肩を縮こませた。


「朝から鬼灯がキレてる理由は?」


 引き攣った笑みを浮かべた鬼灯が明らかに何かに怒っていると感じた雪之丞は冷静に事態について質問を投げかける。

 それに答えたのは三好だった。


「それについては私から説明します。実は……」


 眼鏡を直し、胸の前で腕を組んで三好はちらっと南天を一瞥してから、昨夜の真澄との出来事を雪之丞へと伝える。

 すると、初めは静かに話を聞いていた雪之丞だったが、話が進むにつれて次第に額を押さえて俯き加減で眉を顰めた。


「…そういう訳です」


「あ~はは、なんか戻って来て早々色々整理が追い付かないなあ…」


「これが、昨夜九頭竜隊長から採血した結果です」


 三好から聞かされた昨夜の真澄と南天の一連の出来事。それに困惑しつつも雪之丞は三好が差し出してきた検査結果の書類を受け取った。


「真澄が怪夷に…それもあの南天が飼ってた子猫のくろたまに噛まれて腕が黒化したってのも初耳だったけど、南天の首筋に咬みついたってのもまた…」


 数値の記された書類に目を通しながら雪之丞は三好から聞いた話を自分なりに整理する。鞘人と使い手の契約はある種まだまだ未知数な部分が多い。契約の際に互いの血を与えあうとい形式も、かつて聖剣の使い手であった自身の母親達が、聖剣と今一度強い結びつきを形成する為、自身の血を聖剣に吸わせたという逸話から来ている。

 もし何らかの理由で聖剣が使い手の血を求めるなら、それはあり得ない話ではなかった。


「でも、先に契約していた鬼灯や鈴蘭達はそんなことないんでしょ?」


「ええ。全くありません。清白もあの異質である桔梗や竜胆ですらまだ聞いた事がないですよ。まあ、桔梗達に関してはまだ巡回先で怪夷と遭遇していないので、強化剤を試していないので分かりませんが」


 雪之丞よりも早く、どの鞘人よりも先行して送り込まれ、一番最初に使い手との契約を果たした鬼灯ですら、朝月から血を求められた事はない。これまで何度か強化剤も渡して飲ませているが、今回の真澄のような事は朝月との間で起こった事がない。


「ということは、真澄と南天に限ってのことなのか…分かった。この件に関しては僕も色々調べてみよう。三好君が調合してくれた強化剤の副作用なら、今後改良も考えないとだし」


「そうですね。そこはドクターにもご協力頂けると助かります」


 雪之丞の協力を取り付け三好はホッと肩から力を抜く。昨夜、南天の傷の手当をして真澄の様子を観察して採血を行った後から今まで、正直言えば三好自身も気が抜けなかった。


 怪夷が現れて既に半世紀以上。怪夷との戦いの中で判明した怪夷による感染症である黒結病は、今でこそほぼ駆逐され、その対処方法も確立されている。だが、それはあくまで初期から中期における状態の時に治療が出来た場合のみだ。全身に黒化が広がれば三好やこの病の専門病院たる東雲病院でも恐らく治癒する事は叶わない。実際、五年程前までは過去に黒結の病を長年患い、その命を散らした患者もいたのだから。


 真澄に限っては常に怪夷と関わる環境にある。黒結病の黒化は怪夷の傍にいる程進行が速かった。


 更に三好が気にかけているのは南天についてもだ。鬼灯や桔梗達同様に彼も聖剣を宿した鞘人であるが、彼の中にある三日月がいつどんな経緯を経てその身に宿ったのかは、三好はおろか雪之丞ですら分からない。


 もし今回の一件が真澄側ではなく、南天側にあった場合、他の使い手にも同様の現象が起こらないとも限らない。


 そうなれば、彼等は自らの中に湧きおこる衝動と戦いながら過酷な戦闘に見を投じる事になりかねない。


 医師であり、特夷隊の後方支援者である者としては出来るだけリスクは取り除きたかった。

 幸いなのは、医学にも科学にも精通し、呪術の分野にも明るい雪之丞が戻っていることは、一人で抱え込む必要がなく、三好にとって心強かった。


「えっと、取り合えず南天はその怪我が他の人に知られないようにしないとね。特に真澄と同じ使い手には。桔梗達には僕や鬼灯から話すから」


「分かった」


 しゅんと肩を丸めた南天の傍へ雪之丞は静かに歩み寄ると、銀糸の髪を優しく撫でた。


「痛かったね」


 シャツの下にある痛々しく張られたガーゼを見つめ雪之丞は眉根を寄せる。

 暫く南天の頭を撫でた雪之丞はそっと南天から離れた。


「真澄はまだ寝てるの?」


「うん、あれから起きてない…」


 雪之丞に問われ南天は彼を振り仰いで頷いた。

 それを聞いて雪之丞は白衣の裾を翻すと医務室の入口へ爪先を向ける。


「ちょっと真澄の様子を見て来る。今日は春樹君の事で色々話しをしたくてこっちに来たから」


 南天と鬼灯、三好にこれからの行き先を告げた雪之丞はそのまま彼等を残して医務室を後にした。





 医務室を出た雪之丞はそのままエントランスの方角へ廊下を進み、エントランスから続く二階へ上がる螺旋階段を登る。

 二階の廊下を少し進むと現れる仮眠室の扉を開き、中へ入った。


 入口から離れた奥のパイプベッドに、真澄は仰向けで寝かされていた。

 上半身は裸のままで、胸まで丁寧に掛布が掛けられている。これを掛けたのが誰かは言うまでもなかった。


 すやすやと子供のように寝息を立てる幼馴染の寝顔を暫し眺めてから、雪之丞はポケットから一枚の呪符を取り出し、真澄の鼻先に近づけた。


「バンっ」


 鉄砲を撃った時のような掛け声の後、真澄の鼻先で呪符が火花を散らして弾けた。


 その衝撃と冬の日に起こる静電気のような痛みに驚き、真澄はがばっと勢いよく起き上がった。

 咄嗟に傍にいた雪之丞の腕を掴み、ほとんど無意識のままにベッドに俯せに押し付けると、その細腕を捻り上げた。


「痛いっ痛いっ、真澄、ギブ、ギブ、僕だよっ!」


 容赦の無い真澄の組手に雪之丞は本気で悲鳴を上げた。雪之丞自身も彼の父親から受け身や護身術の訓練は受けていたが、現役の軍人である真澄と自分ではその動きや身の捌き方に雲泥の差がある。息が出来るように体制を少し緩めるのがやっとだった。


「っ、雪!?なんで」


 ハッと我に返った真澄は、今目の前で取り押さえているのが自身の親友だと気づき、慌てて雪之丞を解放した。


「はあ~いや、そこまで本気だす必要ある…?」


「悪い、てっきり賊かと…というか、ここは?」


 ベッドサイドに座り込む雪之丞を見下ろした真澄は、ふと自分が何所にいるのかを確認し始める。親友の行動に雪之丞は違和感を覚えた。自身の中にある仮設を立てて雪之丞は真澄の現状を把握すべく質問を投げかけた。


「真澄?昨日の事、どこまで覚えてる?」


「昨日?昨日は南天や朝月、鬼灯と巡回に出て怪夷と遭遇して…そうだ、あの怪夷は無事に退治できたのか?」


 雪之丞に問われて真澄は、眠りに落ちる前の記憶を辿り始めた。詰め所を出て旧江戸城方面へ向かい、市ヶ谷へ進路を変えた後、陸軍の練兵場で怪夷に遭遇したのは覚えている。そこから先の記憶はまるで夢の中にいるような靄がかかった状態で実に曖昧だ。

 途中、怪夷の討伐をしたような、任務完了を告げる南天の声を聴いた気がした。そこから詰め所に戻ってきた所まではなんとなく像が浮かぶが、その先は殆ど記憶になかった。


「俺はなんで仮眠室にいるんだ…?」


 自問自答しながら昨夜の事を懸命に思い出そうとしている真澄を、雪之丞は静かに見つめた。

 記憶障害に近い状況が真澄に起きている。これは少し厄介な状態だった。



(もしかして…真澄は自分が南天を襲った事は全く覚えてないんじゃないか…)


 科学者として真澄の現状を彼の発言や先程三好や南天から聞いた内容、採血の検査結果などと照合し雪之丞は幾つかの仮説を立てた。

 それは、今後の怪夷を旧江戸城に完全に封印する為の作戦やオルデン達との対決に少なからず影響を及ぼしそうな内容だった。


「真澄は疲れてたんだよ。戦闘の後いきなり倒れたんだって。だから、朝月君達がここに運んだみたい」


「そうなのか?そう言われれば…なんだか身体のあちこちが痛いような…」


 雪之丞に半分驚かされて起こされたせいで忘れていたが、冷静になった途端、背部や腹部、首筋に鈍い痛みが残っている。打撲でも負ったのかもしれない。


「三好君は問題ないって言ってたよ。それより、今日は大翔の家に行って春樹君が残した術式の検分付き合ってくれるんじゃなかったの?」


 話題を変えるように雪之丞は真澄に彼を尋ねてきた目的を告げた。

 それを聞いて真澄はあっと、声を上げた。一昨日くらいにそんな約束を雪之丞としたのを今更ながらに思い出す。


「悪い、今着替える」


「早くしてよね。僕が早起きしてここまで足を運んだんだから」


 ベッドサイドに腰掛、胸の前で腕を組んで頬膨らませる幼馴染に真澄はたじたじとしながら、慌てて壁に掛けてあった制服とシャツに手を伸ばし、袖を通した。

 真澄の着替えを雪之丞は黙って見つめていた。主にその視線は親友の左腕付近に集中する。

 三好が言った通り、その皮膚は黒く変色し本人が気づいているか分からないが肩付近まで達しようとしている。これはまだ表面的なモノならいいが、皮膚組織を越えて筋肉や血管、他の臓器にまで侵食を伸ばしていた場合、日常生活に支障を来す。


(近いうちに東雲病院へ行ってみるか…東雲先生にも挨拶しないとだし)


 五年前の震災の日に忽然と姿を消し、やっとの思いで戻ってきてから早一週間。自分の身を案じてくれているであろう知り合いや友人の殆どへまだ帰還を告げていなかった。

 神戸で隠居している親にですら、春樹の調査の件で支援を頼む名目で連絡をするまで連絡を怠っていたくらいである。

 母親経由であちこちの関係各所へ伝わっているだろうが、自身が無事に戻ってきた事を数人には直接伝えたいとは思っていた。


 そんな事を考えていると真澄の着替えが終った。少しシャツが寄れているが、当直明けだから気にしない。


「さて、行こうか」


 雪之丞に促され真澄は彼と共に仮眠室を出て、特夷隊の詰め所を出発すると一路宮陣家を目指した。






 大翔から預かった合鍵を使い、真澄と雪之丞は宮陣家に上がり込んだ。

 廊下を進み、真っ直ぐに一年近く開かずの間になっていたこの家の主たる男の部屋へ足を踏み入れる。先日、厳重に術式で鍵の掛っていた部屋は晴美が封を解除した後は雪之丞が別の術式で鍵をかけ直していた。


 襖戸を開いて中に入ると、薄暗い室内には至る所に術式を記した半紙が張られ、呪符や呪具が置かれていた。

 一般の者が見れば異様に映る光景だが、元々術式と深く関わりのある家に生まれている真澄や雪之丞には見慣れた光景だった。


 春樹が使用していた文机を拠点に、二人は室内に貼られた術式の書かれた半紙の中から、見慣れない物を選択して剥がし、文机の上に置いた。


「春樹君の手記を読んでて色々分かったよ。彼が僕の母さんからの依頼で探っていた祭事部の家は三家。どれも呪術の大家で名の通った所だ。まあ、あの土御門や勘解由小路には劣るけどね」


「祭事部に関しては俺はそこまで明るくないからな。お前や大翔達の方が詳しいだろ」


「そうだろうと思って、この三家、中原、九条、辰宮について調べておいたよ」


 術式の構造を紐解きながら雪之丞は真澄に、数枚の紙を束ねた書類を手渡した。

 そこに記された内容に真澄は目を通す。


「…至って普通の家柄だな…まあ、何処も元は禰宜の家柄って所か」


「それだけじゃないよ。その三家の共通点は星神を祀っている一族ってこと」


 得意げな顔の雪之丞の話に真澄は眉を顰めた。


「星神?」


「星を司る神様っていうのは、この日ノ本では神代の時代に天津神とやり合っている逸話が多く残っているんだよ。太陽や月は重要な神として名高いけど、星の神は意外にも排除の対象とされた時代がある。彼等はその星神を祀った一族の末裔」


「つまり、現政府というか…最高司祭である帝にとって、本来は敵対していた一族か…」


 自分の中にある知識をフル稼働させて真澄は雪之丞が言わんとしている結論を絞り出す。そこまで考えて真澄は眉間に皺を寄せた。


「だから、連中が国家の転覆を企んで陸軍と手を組み、怪夷を復活させて国盗りに臨もうとしたってことか?」


「そこまでは飛躍しすぎかな。ただ、彼等が現政府をどうにかしたかったのは間違いないと思う。今春樹君が集めてた珍しい術式を解読してみたら、やっぱり星神と関わる内容が見つかったよ。ここ、北斗七星だ」


 雪之丞は身体をずらして真澄に半紙に描かれた術式の一部分を指し示す。元々の体質のせいで術式の勉強は知識くらいしか入れて来なかった真澄には、雪之丞が示す部分を直ぐには理解できなかった。


「この点と線の並びか…そういや、昔奥出雲の里で似たようなのを見た事あるな…」


「奥出雲の鍛冶の里には星図があったもんね」


「星図か…ん?そういえば、聖剣の元々の呼び方は星の字を当てたものじゃなかったか?」


「あ、そうだ。聖剣には天から降りし岩より精製した玉鋼が使われていた筈。むむ、ここにきて星神と繋がりが出て来るなんて…」


 真澄との会話で出て来た内容を雪之丞は自身の手帳にメモを取っていく。その紙面には既にびっしりと様々な情報が記されている。お世辞にも字が綺麗とは言えない為、覗き込んでいる真澄には何が書いてあるのか読めなかった。


「まあ、この辺りはもう少し調べてみよう。隼人君と拓君もこの三家について聞き込みに行くって言ってたし」


「今その三家はどうしているんだ?この間朝月達が潜入した陸軍将校と祭事部幹部の会合ではそのうち、中原と九条が参加していた筈だ」


 九月の終わりの事を思い出した真澄は雪之丞にその時の事を話した。

 思えば、その会合に潜入で来たから陸軍とオルデン、祭事部の関りが浮き彫りになったのだ。


「中原と九条に関しては今も祭事部の幹部として帝都や逢坂で勤めていた筈。辰宮に関してだけど、五年前の震災でお家は断絶してる」


「断絶?あの震災で?」


 思いもよらない情報に真澄は食い入るように雪之丞へ内容を促した。


「理由は分からない…だけど、当主と跡継ぎである若君があの震災で犠牲になったらしい。東京の屋敷は焼失、本家があった宇都宮の家もその後に続いた不幸とで震災の一年後には一族離散。既に幹部としての地位も失っている」


「当主を失って一族が離散する事例は珍しくないが…元は禰宜の家系だろう?拠点の神社なんかはどうなったんだ?」


「そこまではまだ調べ不足…ただ言えるのは、今怪夷化歩兵の祭事部側にいるのは中原と九条の二家だけ。このうちどっちかの関係者でも尋問したらもっと色々分かるかもね」


 肩を竦めた雪之丞は再び術式の解読に注視し始めた。

 真澄は室内を歩き回り、何か他に手記や資料がないかを探し始めた。


 無言でお互いの作業に没頭していると、真澄の隊服の内ポケットに入れていた通信機が震え出した。

 着信を受け取り真澄は通話に出る。相手は隼人だった。


「隼人か、どうした?」


『あ、真澄兄さん?今からこの間の会合で陸軍と会っていた祭事部の中原の屋敷に行ってきます。場所が千葉らしいんで今日は一日がかりになるかも。一応許可ください』


「分かった。今夜の巡回の事は気にするな。こちらでなんとかする。進展があったら連絡をくれ」


 短い会話を終えて通話を終える。と、雪之丞が手を止めてこちらを見ていた。


「隼人君?」


「ああ、中原の屋敷に行くから今日は戻らないと言っていた」


「そうか、何事もないといいね…」


 何気なくそんなやり取りをした、真澄は春樹が疾走する直前まで綴っていた手記の最後の頁に目を向けた。


『11月×日。当時の状況の調査をする為、明日は中原邸へ向かう。中原は古くは蟲毒の呪術を得意とする古い家柄だ。気を引き締めて行かなければ…』


 そこを境に手記はピタリと止まり、先には真っ白な頁が続いている。


「…雪、コドクってなんだ?」


 手記の最後に書かれた見慣れない単語を真澄は雪之丞へ訊ねた。


「蟲毒?虫や百足、ネズミなんかを壷の中に閉じ込めて殺し合いをさせて、最後に生き残った生き物を呪いの触媒に使うやつだよ。それがどうかした?」


「春樹が最後に尋ねた家が、今隼人達が向かっている中原家なんだが、蟲毒の呪術を使う家柄だから注意しろって内容が書かれてる」


 真澄が手記の内容を読み上げた途端、それまでのほほんと解読に勤しんでいた雪之丞の頬が強張った。

 慌てて文机の前から立ち上がり、雪之丞は真澄が手にした手記を奪うように取り上げると、手記の最後の文面に視線を落とした。


「雪…?」


「日付は一年前…しかも偶然にも昨日。春樹君が消えた日から一年…中原が蟲毒の使い手だとすると…」


 ぶつぶつと手記に記された日付と今日の日付を確認し、苦い顔で呟く雪之丞を真澄は茫然と見詰めてから、恐る恐る声を掛けた。


「何か分かったのか?」


「真澄、僕等も中原の邸へ行こう。隼人君と拓君が危ないかもしれない」


 突然告げられた部下の危機に、真澄は一瞬驚きながらも次の瞬間には大きく頷いた。


「車出す」


 次の行動を短く告げ、真澄は一目散に春樹の部屋から駈け出していく。

 その背中を見つめ雪之丞は春樹が残した手記をぎゅっと握り締めた。


「…最悪の事態になってないといいけど……」


 眉間をきつく絞り、手記を手に雪之丞もまた真澄を追って春樹の部屋を出る。部屋から去る間際、雪之丞は再び部屋に鍵の代わりに封を施した。







*****************************



三日月:次回の『凍京怪夷事変』は…


朔月:春樹の消息を掴む為彼が最後に訪れた場所へと向かう隼人達。その先で待ち受けていた者とは…


三日月:第七十四話「暗き同穴からの脱出」次回もよろしくお願いします。

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