第七十二話―復帰戦




 時は遡り、南天にとって久しぶりの巡回へ向かう直前の事。


「これからは戦闘の際にはこちらをご利用ください」


 巡回へ出発する少し前、真澄達を含めた巡回組と鞘人と契約をした使い手である特夷隊のメンバー、及び鞘人は医務室の三好に呼び出されていた。

 三好が差し出してきた二つペアになった小瓶を真澄達はある者は興味深そうに、ある者は警戒しながら覗き込んだ。


「使い手と鞘人の契約が無事全員果たされた今。次の段階へ進んでもいいでしょうと雪之丞ドクターからの伝言です」


 まだ戻ってきたばかりで関係各所への連絡や挨拶に忙しい雪之丞から、三好はある事を頼まれていた。

 それが、今真澄達の目の前にある小瓶である。


「今までは一部の者しか限定的に使用していませんでしたが…南天君も復帰する事ですし、こちらの使用を許可します」


「三好先生、この小瓶の中身は?」


「ああ、これは言ってしまえば鞘人、使い手それぞれの血液を元に作られた薬剤です。ペアになっているのは鞘人とその使い手それぞれのという事です」


 三好の説明を聞き、最初に発言したのは朝月だった。


「鬼灯からもらった強化剤とかいう謎の薬と似たようなもんか?」


「ええ、というか、あれは鞘人自身が造り出したものなので、ようは今目の前にある薬剤の原液ですね。しかし、あれを用意するのは鞘人自身も大変でしょうから、今後はそれに近い物を用意しました。原液は保存期間も短いので効率も悪いですし」


 チラリと既に自身の使い手にソレを渡した事のある鬼灯と鈴蘭を見遣り三好はニコリと笑う。

 三好の意味深な笑みに鬼灯と鈴蘭は涼しい顔で返した。


「これで戦闘時に格段に身体能力や霊力の強化が可能です。まあ、半信半疑だと思うのでまずはお試しで使ってみてください。ただし、これの使用は一日一瓶まで。鞘人と使い手の絆の深さや親和性によって強化値に恐らくばらつきがあると思います。今後も改良などを行う予定なので、暫くは治験だと思ってお付き合いください」


「了解した」


「無害とは言えませんが、今後予想される戦闘において、鞘人と使い手の繋がりを強めるのは必要な事なので、よろしくお願いします」


 一人一人に対応した小瓶を手渡しながら三好は念を押すように説明を締めくくった。


「来る日の為に。我々も全力でサポートします。この怪夷との因縁を断ち切る為に、全力を尽くしましょう」


 真澄達使い手と南天達鞘人を一人一人見つめ、三好は彼等に期待と羨望の眼差しを向けた。




 暗闇の中現れた巨体を結界で生じた苦痛にくねらせたムカデの怪夷は、咆哮を迸らせて禍々しい赤い眼球で真澄達特夷隊を凝視した。


「南天、出発前に三好先生が渡してくれた奴、試すぞ」


 制服のポケットから真澄は先刻受け取った小瓶を取り出す。それに南天も同じように小瓶を取り出して応じた。

 コルク栓を抜き、横目で視線を交わして真澄と南天はほぼ同時にコルク栓を抜き、小瓶の中に満たされていた液体を飲み干した。


 僅かに鉄の味に似た苦みが広がり、喉の奥を一瞬焦がす。薬剤が体内へ取り込まれた直後、代謝が上がった時のように内側から熱が上がってきた。

 即効性のあるものなのか、薬剤は血管を通って全身を巡る。


 力が漲る感覚に真澄は一瞬酒に酔ったような高揚感を覚えた。と同時に左腕―夏の初め南天が世話をしている怪夷の猫・くろたまに噛まれて黒く変色した腕が異様に熱い事に気が付いた。


(なんだ…)


 これまで痛みや可動域への不調などもなく、ずっと気にしていなかったが、久し振りに普段と異なる感覚を感じ取り、真澄は内心で眉を顰めた。だが、それは苦痛ではなくむしろ右腕よりも軽いような、快調といった変化だった。


「マスター、援護を。先陣を切ります」


 薬剤を飲み、自身の中に湧いた力に意識を向けていた真澄は、横からかかった南天の頼もしい声に意識を現実へ引き戻した。

 そうだ、今は目の前の怪夷を倒す事が先決である。不調でない限り左腕の変化など今は些細な事だ。


「ああ、しっかり暴れてこい」


 南天の肩を叩き真澄はこれまでの過保護ぶりが嘘のように軽快に彼を送り出す。

 その期待に応えるように南天は軍用ナイフを構え、意気揚々と怪夷の側面へと躍り出すと、地面を蹴ってムカデの背中へと飛びあがった。


 とんと、硬く節足の生えた関節の多い背中に降り立った南天は、早速とばかりに関節と関節の間にある柔らかい軟骨の部分へ軍用ナイフの切っ先を突き刺した。

 真っ黒い血液が迸ると共に、刃によって与えられた激痛にムカデの怪夷が大きくその身体を振った。


 振り落とされないように南天は鈎爪をムカデの背中に引っ掻けて更に頭部の方へ向かって駆けだす。

 地面では南天の動きを確認しながら真澄が巨大なムカデとその周りを囲むランクDの怪夷を相手に大立ち回りを繰り広げていた


 黒い革袋状の怪夷の身体を真澄の軍刀が横薙ぎに切り裂く。直後、これまでは灰のようになって消えていた怪夷はそれすら残さず一瞬にして塵となって消滅していった。


 その情景を真澄は記憶の中で憶えていた。


 十年前。怪夷との最終決戦以前。聖剣を手にした自身の親の背中。彼女達が戦場で怪夷を屠る瞬間は、怪夷の全てが跡すら残さずに消えていった。

 あの光景と同じ事が今、目の前で起こっている事に真澄は内心驚きを隠せずにいた。


(これは、本当に聖剣と同等の…)


 ほんの少し刃を閃かせただけで、ランクDの雑魚怪夷が次々に消滅していく。そこには彼等の源である核すら残っていなかった。

 自分の中に湧き上がる高揚感とかつて憧れた人々と同等の力を手に入れたことへの自信が、真澄の剣捌きを更に向上させていく。


 南天が直接怪夷の胴体を攻めるのを援護するように、地表から蠢く節足を一本、また一本と切り落としていく。

 黒い体液が練兵場の地面を濡らし、怪夷の絶叫に似た悲鳴は徐々にその大きさを増していく。



「すげえな、あの二人。俺の結界いらなくない?」


「そんな事はないでしょう」


 結界を張りながら真澄と南天の戦闘を見守っていた朝月は隣で自分を護るように鞭を振るってランクDの怪夷を討伐している鬼灯に話を振った。


 朝月からの話題に鬼灯は流石に首を横に振った。怪夷討伐の基本において結界を張る事は最早常套句。これを行うか行わないかで怪夷戦ではかなりの負担が変わってくる。


「確かに、南天も九頭竜隊長も個人の戦闘能力は高いですし、契約を結んだ事でその強さも各段に上がっています。更に三好先生からの強化剤。これも今回はプラス要素になってはいますが…やはり何かあった時に為に怪夷専用の結界は必要ですよ。主様。結界の精度、初めて会った頃より随分上がりましたね」


「え?マジか?なんか、お前に褒められるの変な気分になるな」


 結界の強度を増すのに更に札を追加して扇に乗せて振り上げ、朝月は苦笑を滲ませた。


「ふふ」


 照れくささを隠すような朝月に鬼灯は淡くほくそ笑んだ。

 鮮やかに鞭を振りながら余裕で会話をして鬼灯は、朝月とのこれまでの事を思い出していた。

 初め、彼の前に姿を見せた時、何故自分が小さな子供の姿になっていたのか、実をいうと鬼灯自身分かっていなかった。

 だが、それでも自分を受け入れ招き入れてくれた朝月には感謝していた。

 陸軍の動向を最初に探り出した時も、自分達の秘密を最初に教えた時も。本当なら真澄に直ぐにでも相談したかった筈の所を、ぐっと己の胸の内に秘めてくれた。

 こうして彼と肩を並べて戦場に立てる事が、鬼灯にとっては誇りだった。未来では当に叶わない願いだったから。


 傍で見ている朝月はこの数カ月で確実に成長を見せていた。それは戦闘能力や霊力、今この場のように結界を貼る技術の他、精神面においても。


(これなら…希望はあるかもしれませんね…)


 未来の世での彼の事を鬼灯はよく知っている。鬼灯達が考えている最悪の未来に繋がる出来事が起こった後、彼がどうなるのかも。

 それでも、今の朝月ならもし最悪の未来になったとしても、苦難も上手く乗り越えられるような、そんな期待が浮かんでくる。


(まあ、そんな事、させませんけど)


 飛び掛かってきた怪夷を涼しい顔で叩き落としながら鬼灯は不敵な笑みを零した。


「そろそろ本体の討伐が終りそうですね」


 あらかた湧いていた雑魚怪夷を討伐し終え、鬼灯は冷静にムカデの怪夷と対峙している真澄と南天の戦況を見守った。

 恐らく、今回は自分が援護に回る必要はないだろう。それ程、今の真澄と南天は破竹の勢いだった。





 真澄の軍刀がムカデの尻尾へと斬り掛かる。毒針の付いた左右に振られる尾を、その動きに合わせて躱し、その都度軍刀を閃かせる。

 攻撃としては単調だが、確実に真澄の軍刀は怪夷の身体を傷付けていた。


 振り下ろされた尾を真澄は軍刀を横薙ぎにして、これまで傷つけていた関節の間部分へ一気に斬りつけた。直後、硬い肉を引き裂き、ムカデの尾は輪切りとなって胴体から切り離された。


 ギイイイイイイイ


 悲鳴に似た咆哮を迸らせ、頭部をぶんぶんと振り回しムカデの怪夷は憤りを露わにする。その怒りに狂い我を忘れたムカデの首の部分に南天は張り付くと、鍵爪を器用に引っ掻け、右腕一つで身体を放り投げた。


 遂に到達した怪夷の頭部。禍々しく光る赤い眼球と目が合う。その眼球の少し上、眉間の間に南天は軍用ナイフの切っ先を向けた。


 落下する重力と体重を利用し、ナイフの切っ先をムカデの眉間の中心目掛けて一気に突き刺す。

 深々と、ナイフの根元まで突き刺さると、肉を引き裂いた先に骨とは違う硬質の存在に行き当たった。

 それ程硬度のない核は南天のナイフの切っ先が突き刺さると、怪夷の体内で弾け飛んだ。


 最期の断末魔を上げ、ムカデの怪夷は真澄と南天に斬られて幾らか短くなった身体をゆっくりと地面に横たえ、黒い塊となって沈黙した。


「対象の沈黙を確認。戦闘終了です」


「よし、よくやったな、南天」


 地面に降り立った南天に駆け寄った真澄は軍刀を鞘に納めると、南天の背中を少し強めに叩いた。


「マスター?」


 いつもなら優しく頭を撫でるか肩を軽くポンと叩く真澄が、今日に限って軽快に背中をっ叩いた事に南天は困惑した。

 見上げた真澄は何処か上機嫌でニコニコしている。対象は沈黙したとはいえ、ここは陸軍の縄張りである練兵場である。常に冷静沈着で警戒を怠らない真澄が、今はどうしてか宴会の席で酒を飲んだ時の様だ。いや、それよりも幾分か上機嫌である。


「隊長」


 結界を解き、真澄達の下に朝月と鬼灯も合流する。

 そんな彼等にも真澄は手を挙げて応じた。


「お疲れ様です」


「ああ、朝月、鬼灯、お疲れさん。援護ご苦労だったな」


 満面の笑みの真澄の様子に流石の朝月も違和感に気づいた様子で、困惑顔で真澄の横に立つ南天をチラッと見た。

 何か言いたげな南天に朝月は再び真澄を見る。


「隊長、大丈夫ですか?なんか、やけに気分良さそうですけど…」


「ん?そうか?俺はいつも通りだが」


 顎先に手を添え、首を傾げている真澄に朝月はそれ以上の追及を辞めた。


「一先ず、この怪夷の残骸を持ち帰りましょう。三好先生に早速強化剤の感想を伝えないとだし」


「そうだな。朝月の意見は最もだ。もう少し巡回を続けてもいいが、一先ず戻るとしようか」


 朝月の提案を受け入れた真澄は、それに応じて地面に散らばった怪夷の残骸の回収を始める。

 それに続きながら朝月と鬼灯は揃って南天の傍に寄った。


「なあ南天、旦那のテンション可笑しくない?」


「…朝月さんもそう思う?」


 頬を引き攣らせ南天は朝月の問いかけに同意した。


「いつもの九頭竜隊長ならもう少し戦闘終了後でも緊張していますが、今日はなんだかこのまま宴会芸でも始めそうな勢いですね」


 三人で残骸を回収しつつ鬼灯もまた真澄の様子に注視した。


「戻ったら三好先生に報告する…」


 珍しく三好に相談をしようと決めた南天の決意に、朝月と鬼灯は尋常でない空気を感じ取った。




 ムカデの怪夷の回収を終え、詰め所へ戻った真澄達は、三好の下を訪れた。


「早速使ってみていかがでしたか?」


 残骸の入った袋を受け取りながら三好は真澄達へ先刻渡した薬剤の感想を求めた。

 真っ先に答えたのは、詰め所へ帰ってくるまでの間ずっと高揚の抜けない真澄だった。


「ああ、あれは凄いないつもより力が出せたよ」


「そうですか。体調に違和感などは?」


「俺は特に感じていないが、南天達がどうか確認してくれ」


「分かりました。これから少し聞き取りを行いますので、お答えください」


 そう言って三好はバインダーに挟んだ紙を取り出し、四人へ質問を始めた。

 問診に応じる間も真澄は終始テンションが高く、南天を初め朝月と鬼灯も異様な光景に困惑し続けた。

 三好の問診を終えた四人は医務室を後にした。


「隊長、俺と鬼灯でさっきの怪夷についての報告書作成するんで、隊長と南天は先に休憩してください」


 医務室を出て執務室へ向かう廊下を歩く道すがら、朝月は今後の事を真澄に提案した。


「いいのか?お前達は今日は当直じゃないだろ?」


「いいんです。戦闘は隊長と南天が主体だったし。俺は結界張ってただけなんで。それに、若いから体力は有り余ってます。シャワーでも浴びて少し寝てください」


 半ば強引にまくし立てながら朝月は南天に視線を送った。

 朝月の意図に気づいた南天は、真澄の制服の袖を引っ張り自分の方へ意識を向けさせた。


「マスター、朝月さんの厚意に甘えましょう。あの…ボク、少し疲れました…久し振りの怪夷との戦闘はやっぱり応えました」


 真澄の袖をぐいぐいと引っ張り、仮眠室へ続く階段へ促して南天は朝月の提案に援護をする。自分を言い訳にすれば真澄は応じてくれると気づいたからだ。


「南天、やっぱり無茶したのか?全くお前は…」


「九頭竜隊長、すみませんがこのまま南天と一緒に休憩に入って頂けますか?貴方に言われたら南天も素直に休むと思うので」


 朝月の意図を汲みとり鬼灯も援護に加わる。三人がかりでどうにか真澄を休ませる方向へもっていく。その効果は思いの外直ぐに現れた。


「確かに、このまま次の巡回に出て何かあっても困るな。了解した、俺が責任をもって南天を休ませよう」


 いつの間にか真澄の中では自分が休みではなく、南天を休ませると趣旨は変化していたが、この際三人にはどうでもよかった。


 南天の肩を軽く叩き、真澄は二階にある仮眠室の方へ南天と共に上がっていく。

 階段を上がりながら南天は朝月と鬼灯を振り返り、親指を立てた。

 それに応えて二人も親指を立てて返事をすると、執務室の方へ入って行った。




 シャワーを浴びてシャワー室から出た南天は、パイプベッドに腰かけた。ぼんやりと天井を見ながら交代でシャワーを浴びている真澄の事を考えた。

 朝月と鬼灯が先に休憩を提案してくれたのは、真澄の異様に高いテンションを鎮めるためだ。


(マスターどうしちゃったんだろう…)


 タオルで濡れた髪を拭きながら南天は溜息をついた。

 どんな時も真澄は冷静沈着で例え勝利をした後も、その勝利に歓喜する事は殆どない。いつも無事に終わった事に安堵しつつ、完全には緊張を解かないのが常の彼だった。


 宴会の席でも楽しんではいるが何処か冷静さを欠かないように自分を律している節がある。

 それは、仲間内でもかなり顕著で、柏木大統領達と飲むときも変わらなかった。


 そんな真澄が、今日はどうしてあのよに高揚感が続いているのか。不思議でならない。三好に言わせれば一種の興奮作用が働いているのだという。

 それなら、少し寝れば落ち着くかと朝月が機転を効かされてくれた。


 シャワー室からは鼻歌交じりの水音が聞こえてくる。やはり、シャワーを浴びたくらいではあの興奮作用は収まらないらしい。


(…あんなに陽気なマスター初めてみた…)


 彼の過去にもしかしたらそう言った一面があったのかもしれないが、南天からしてみたら今の異様にテンションの高い真澄は異質な光景だった。

 シャワー室から聞こえてくる水音に耳を傾けていると、不意に鼻歌は止んだ。


「ん…」


 さっきまであれほど上機嫌だったのが、急にピタリと止まった鼻歌に南天は違和感を覚えた。


(落ち着いた…?)


 タオルを頭にかけて顔を隠しながら南天はチラッとシャワー室の方へ視線を向ける。まだ水音は響いているので、出て来るまでにはもう少しかかるようだ。


 シャワーの熱に少し落ち着いたのかと解釈した南天は、わしゃわしゃと髪に付いた水滴を拭うと、畳んで置いていた丸襟のシャツに手を伸ばした。

 あちこち古傷を抱えた白い素肌にシャツを着ると、水音が止んだ。暫くしてしズボンだけを穿いた真澄が出て来る。


 休憩中なので南天はそのまま気にしないそぶりで真澄に背を向けたままベッドに腰掛ていた。

 背中越しに伝わる真澄の様子は、先程までと打って変わって落ちついている。

 その様子に南天は内心ほっとした。


(よかった…少し戻ったみたい)


 安堵に胸を撫で下ろしていると、背後に真澄が近づいてきた。横に座るのかと自然と南天はパイプベッドのサイドから少しズレて場所を空ける。


 だが、真澄予想外の行動に出た。


 パイプベッドの南天が座る方とは反対側に回った真澄は、ベッドに上がった。そのまま横になるのかと南天が振り返ろうとした刹那、真澄の長い腕が南天の肩に覆い被さる形で伸びた。


「ッ!?」


 突然背後から抱き寄せられ南天は驚き目を見張る。


(抱き枕にされる…!?)


 かつて酔っ払いの雪之丞に抱き枕にされた事のあった南天は、真澄も同じかと身構えたが事態は思わぬ方向へと進んだ。

 南天を引き寄せた真澄は南天の細い肩に顔を埋めると、そのまま勢いよく首筋に咬み付いた。


「いッ」


 獅子が獲物に食らいつくような容赦の無いそれがもたらす衝撃と激痛に南天は悲鳴を上げかけて咄嗟に口を塞いだ。もしここで悲鳴を上げていたら、一階にいる仲間達が何事かと駆けつけて来るに違いない。


「う…く…マスター…」


 背後から抱き締められ、肩に顔を埋めている真澄の顔を見る事は出来ないが、肩で息をする様子はあたかも飢えた獣のように荒々しい。


(このままじゃまずい…)


 ぐっと、自分の胸の方に回っている真澄の腕を掴んだ南天はベッドに座っていた身体をベッドサイドから落とし、その反動で真澄の拘束を強引に解いた。


 身体が沈み込んだ事でバランスを崩した真澄の腕を更に捻り上げ、南天はてこの原理で反転させ、真澄の背中を床に叩きつける。脇腹に蹴りを繰り出し、止めとばかりに手刀を彼の首筋に落とした。

 そこまでしてようやく真澄は昏倒し、それまでの動きがぴたりと止まって沈黙した。


「はあ、はあ、はあ、はあ…なに…」


 真澄に噛み付かれた首筋を押さえながら南天は、床で昏倒している真澄を凝視した。


(マスターに一体なにが起きてるの…?)


 血の滲んだ首筋の痛みと真澄の異様な行動に困惑しながらも南天は一先ず真澄をベッドに押し上げて寝かせると、意を決して一階の医務室へと向かった。




 巡回を終えて医務室を訪れてから一時間程しか経たないうちに戻ってきた南天の様子に三好は眉を顰めた。


「その首の怪我は…」


 先程戻って来た時は確か誰も負傷はしていなかった筈である。だが、突然現れた南天の首筋には血の滲んだ傷が出来ていた。

 今日は天童が休みのため、こういった初歩的治療も自分がこなさなくてはならない。


「色々話したいと言った様子ですが、まずはその首の手当てをしましょう。貴方、そのままだと色々言われますよ」


 南天を診察用の丸椅子に座らせ、三好は話をしながら治療ようの道具や薬剤を取り出して広げた。

 三好の治療を受けながら南天は今しがた起こった出来事を包み隠さず話した。


「つまり、その咬み傷は九頭竜隊長に襲われて出来たものだと?」


「うん。いきなり後ろから咬まれた」


 淡々と語る南天の言葉が返って生々しさを強調するが三好は眉一つ動かさず南天の話を聞く。


 シャワーを浴びている最中まではただ戦闘の後の高揚感に浮かされただけだったのが、シャワーを浴びて戻ってくるなり、南天の首筋に咬みついた。仮に真澄と南天が人には言えない秘密の関係であった場合なら、別に南天も自分へ報告などこないだろう。

 ここにその話を持ってきたという事は、真澄の様子が心配だからだ。


「あの薬剤はボク等の血を使って作ったやつだって言ったよね…?」


「ええ、貴方ならよくご存じだと思いますが、貴方が前に九頭竜隊長の血を摂取して力の安定を図っていたのと同じです。今回は少し強化の側面を大きくしていますが。鞘人側の血を使い手側が使っただけの事です」


「それが原因?」


「そこまではまだ分かりません。なにせ、鞘人と使い手の関係性は未知数ですからね。傷の手当てが終ったら、九頭竜隊長の様子を見に行っても構いませんか?」


 南天の傷口を消毒し、化膿止めの軟膏を塗ってガーゼで保護した後、三好は南天と共に仮眠室へと上がった。


 仮眠室ではパイベッドに真澄は大人しく寝かされていた。どうやら起きる様子もないようだ。

 三好は横たわる真澄の傍に腰を折ると、その身体を見た。

 そこで不意に彼はある事に気づいて眉を顰めた。


「そういえば、九頭竜隊長はだいぶ前に怪夷に咬まれた左腕が黒化していましたね。東雲病院からは経過観察と通知を受けていたのですが…」


 脈を取る為に取った左腕を見降ろして三好は眉根を寄せる。


「あの時は確か、肘から先のみの黒化だった筈…それが、今は肩の方まで広がっている…これはこれは」


「マスターが怪夷化するの?」


 三好の話を聞き南天は途端に不安に駆られた。自身が飼っていたくろたまが原因で起こった事件だ。忘れる筈がない。最近は特に痛みや症状もなくすっかり忘れていたが、ここに来て黒化が進んでいる事に南天は息を飲んだ。


「一先ず血液検査をしてみましょう。大丈夫、何かあれば我々がどうにかします。南天君、暫くこの事は他言無用ですよ。ドクターや柏木大統領にのみ私の方から話ておきます」


「…分かった」


「貴方は暫く彼の様子を観察してください。普段通りで、過度な心配は返って怪しまれますからね」


 三好の忠告を南天は素直に受け入れる。

 不安を捨てきれない様子で南天はベッドに横たわる真澄を見降ろした。






***************************



刹那:次回の『凍京怪夷事変』は…


三日月:春樹の行方を捜す為、真澄の下を訪ねる雪之丞。そこで彼は昨晩の真澄と南天の間に起きた出来事を知り…


刹那:第七十三話「危惧」次回も宜しく頼む。

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