第六十六話ー悪夢の始り


 パラパラと、窓から吹き込んだ風によって机に乗っていた書類が落ちていく。


「…ようやく全員送り出せた…」


 半地下にある研究室の室内を見渡して秋津川雪之丞はほっと胸を撫で下ろした。

 つい昨日までは自分の他にも人がいたが、今は自分以外はもう誰もいない。

 ほんの五か月前は若者達の声が絶えず、賑やかだったのだが、その彼等もここにはもういない。

 予定通り無事に全員を送り出せた事を確認して雪之丞は軋むデスクチェアに腰を下ろした。


(そろそろ僕も準備を進めないといけない。恐らく、事態に気付いた連中が僕に追及を始めるのも時間の問題だろう)


 対怪夷化歩兵への対抗策として新たな強化兵の研究をしていたのは、表向きだ。

 雪之丞は先代の既に故人である自分から引き継いだ研究は、聖剣を宿した鞘人を過去の時代へ送り出す事。


 未来の日ノ本へ飛ばされて五年。長いようで短いような時間だった。

 ちらりと雪之丞は自身の机の上に置かれた写真立てを手に取り、そこに映る在りし日の様子を見詰めた。

 そこに映っているのは、少し歳を取った自分とまだ少女のあどけなさを残した女性。


「大翔…やっと戻れるよ」


 この時代では既に故人である妻になるべき乙女の未来の姿を見つめ、雪之丞は背もたれに寄りかかって天井を仰いだ。


「絶対に止めてやる…僕が、真澄や静郎を助ける…」


 全ての事の始まりである事件が起こるのは、恐らくもうすぐ。

 それを止めなければ、未来は今自分がいる場所と同じになるだろう。

 正直、未来を変えるなど出来るかは分からないが、分岐点は探る事が出来た。

 後は本来の時代に戻って、それを阻止する事。それで少しは最悪の未来を防げるだろう。


(少なくとも、怪夷なんて異形はもうこの世界に蔓延らせちゃいけない。僕等の時代で決着を付ける)


 自分が何故、この時代に飛ばされたのか。きっと、それはこの時代を生きた自分が願ったからだと雪之丞は解釈していた。

 目を閉じ、胸元にこの写真を持っていた本来の持ち主の最期を雪之丞は瞼裏に思い浮かべた。



 遡る事五年前。


 南関東一帯を襲った大地震の当日。

 旧江戸城の中心に怪夷を封じた聖剣による結界は、巨大な穴となって崩れ落ちていた。

 あの日、母である秋津川雪那の予言によって雪之丞はあろうことか上野の博物館に保管されていた聖剣の写しを拝借し、その場に持ってきていた。


 ゴオオオオと音を立てて地下から吹き荒れる風は、怨念の籠った呻き声のようで、火災によって赤黒く変色した空を更に不気味に染め上げた。


 封印の要であった聖剣の本歌は既に抜け落ちようとしており、雪之丞は真澄と彼についてきていた数名の陸軍士官達に写しを使った再度の封印を提案した。

 だが、それを成す為に穴へと近づいた雪之丞の身体は、何かを欲するように吹き荒れた風に飛ばされ、そのまま穴の中へと吸い込まれた。


 五本の刀剣を背負ったまま、雪之丞の身体は波に飲まれた小舟のように二転三転転がされ、気付いた時には、瓦礫の上に仰向けに倒れていた。


「……痛て…」


 身体を起こそうとすると、全身に鈍い痛みが走った。恐らく強かにあちこちを打ったのだろう。

 背中を擦りながら雪之丞が起き上がると、辺りの景色は壊れた建物が瓦礫と化す荒涼とした景色が広がっていた。


「まさか、あの地震でこんなになったのか…」


 関節の痛みを堪えながら雪之丞は徐に立ち上がり、周囲の景色に目を凝らした。

 周囲の建物に黒く焦げた跡がある事から、恐らくこの辺り一帯が燃えたのは明白だった。

 だが、そんな場所に寝ていて何故自分は無事なのか。


(僕はあの穴に落ちてそれから…)


「あ、聖剣っ」


 意識を失う前の自分の状況を思い出そうとした雪之丞は、共に飛ばされた聖剣が手元にない事に気付き、周囲を見渡した。


(ヤバい、あれがないと)


 慌てて自分が寝ていた場所の周辺を捜すと地面に突き刺さったり、瓦礫に埋もれるようにして、布に包まれた刀剣類が散乱していた。

 そのうちの四本を回収した所で、雪之丞は一本が見当たらない事に気付き頬を強張らせた。


「三日月がない…まさか、皆近くにあったのに…」


 つるぎ、短刀、打刀、そして鎌。鞘に収まり、布に巻かれていた五本のうち、四本までは近くに落ちていた。だが、太刀でありそれなりに長さのある最後の一本だけがどういう訳か見当たらない。


(どこに落ちたんだ…あれがないと、そもそも封印すらできなくなる…)


 血相を変え雪那は四本の刀剣を背負ったり抱えたりしたまま、周辺を捜して歩き出した。

 地面は瓦礫が散乱し、建物は倒壊して無残な姿をさらしている。瓦屋根が落ち、燃えた柱は炭になって地面に黒い残骸を転がしている。


 確かに地震があった時間帯は昼時で、大統領府からも黒煙が立ち上るのが見えた。

 東京の街に火の粉が散っている光景の中駆け抜けたのもまだ鮮明に覚えている。

 あれから相当な業火が東京の街を焼いたのは想像にしがたく、多くの犠牲が出た事も伺えた。


 暫く下を向きながら歩いてふと、雪之丞は自分がいる場所に違和感を覚えた。


(おかしい…なんで誰にも会わないんだ…?)


 ぴたりと歩みを止め、改めて雪之丞は周囲を見渡した。

 そこは、確かに見覚えがある建物の残骸や風景の残像がある。だが、被災した市民と誰ともすれ違ったりしないのは奇妙だった。


(ちょっと待て、今はいつだ?真澄達は…)


 異様な不安に駆られて雪之丞は周辺を見渡した。

 風に飲み込まれる前に見た幼馴染の悲痛な顔。

 あの風によって自分は何処まで飛ばされたのか。

 位置の把握をしようと辺りを見渡した雪之丞は、視界の向こうに黒い影が見えたのに気付いた。


(よかった、誰かいた…)


「おーい、そこの人」


 聖剣の内の一振りを振り棒代わりにして雪之丞は声を張り上げ、遠くに見えた黒い影に呼びかける。

 だが、呼びかけに黒い影はまったく答えない。

 声が小さいのかと更に大きな声で影に呼びかけた直後、背筋を悪寒が走り抜けた。


 ゆっくりと自分の呼びかけに振り返った黒い影。遠くからでも分かる禍禍しく光る赤い瞳。黒い体躯は姿こそヒトに近いが、ブヨブヨと水が詰まった革袋のように揺れ動いている。


「あ……」


 ざりっと、地面の砂利を踏み込み雪之丞は本能的に後ろへ後退る。脳は逃げろと警告を発しているのに恐怖に強張って身体が思うように動かない。

 真澄や静郎と違い、研究職で碌に身体を鍛えてこなかったのが仇になった。

 この時ばかりは、身体を鍛える事に余念がなかった父親の忠告を聞いておけばと後悔した。

 近づいてくる異様な気配を纏う黒い影。それを雪之丞は嫌という程知っていた。


(どうして怪夷が…!)


 いつしか一つ、二つと黒い影が増えていく。

 恐怖で強張った首を必死に回すと、自身を囲むように黒い影の異形がじわじわと近づいていた。

 徐々に距離を詰めてくる怪夷は雪之丞の周りを囲み、じわじわと歩み寄ってくる。今走り出せば逃げられるかもしれないのに、足が竦んで動かない。


(嘘でしょ…怪夷討伐の英雄の息子が怪夷に食べられる最期なんて…)


 上野の博物館から持ち出した刀剣を握り締め、その瞬間に備えて目を閉じた。

 ひゅんっと、空を切る音が雪之丞の鼓膜を震わせる。ひゅん、ひゅんっと、連続して響いた音に目を開けると、自身の目前に迫っていた黒い影は空気が抜けたようにどす黒い体液をまき散らしながら瓦礫の上に倒れていく。


「え…」


「おいアンタ、死にたくないならこっちに来い!」


 目の前で倒れていく怪夷を凝視していた雪之丞の腕が、何者かによって掴まれ、そのまま引きずられるようにして駆け出した。


「え、えっ誰!?」


 強引に走らされながら雪之丞は自分の腕を掴んで誘導ている人物に目を見張った。

 赤い髪に迷彩柄の戦闘服を身に纏った人物は、迷う事なく瓦礫に埋もれた街を駆け抜け、やがて建物の隅に開いた穴の中へと駆け込んだ。

 崩れかけた階段を降り、薄暗い通路らしき場所に身を潜めると、掴まれていた腕が放された。


「ふう、良かった。馬鹿野郎、あんな怪夷のうじゃうじゃいる中で立ち尽くしやがって、死にたいのか?呪符は持ってないのかよ?」


 鼻から口元までを黒い布で覆った赤い髪の人物は呆れた様子で地面に座り込む雪之丞を見下ろした。

 体格は真澄と同じくらいだろう。長身で鍛え上げられた肉体は、逞しく迷彩柄の戦闘服の上からでも筋肉の質量が詰まっている事が想像できた。

 歳は二十代後半くらいだろう。まだ若い青年と呼べそうな男は溜息をついて肩を竦めた。


「あの…助けてくれてありがとうごいます…貴方は…?」


「あ?俺は」


「紅紫檀、さっきの人は無事ですか?」


 雪之丞の質問に答えようとした赤い髪の男は、薄暗い通路の向こうから聞こえて来た声に振り返った。


「おう竜胆、お陰で無事だぜ」


 暗闇の中から現れたのは、赤い髪の男より少し背の低い細身の青年。いや,同じく鼻の上から顔の半分を隠してはいるが、まだ少年といった雰囲気の人物だった。

 藍色の髪に琥珀色の瞳が何処か懐かしさを感じさせるその青年を雪之丞は食い入るように見つめた。


「よかった。こんな戦場のど真ん中に民間人がいるなんて、最初は驚いたけど、桔梗の勘も当たるものですね」


 赤い髪の男からの報告に青年はほっと息を吐く。肩にライフルと思しき小銃を担いでいる事から、さっき怪夷が倒れたのはこの青年が狙撃をしたからだと雪之丞は瞬時に把握した。


「君達は一体…」


「我々は帝都防衛軍対怪夷討伐部隊の者です。コードネームは竜胆。こちらは」


「同じく討伐部隊隊員の紅紫檀だ。おっさんは?」


「おっさんは失礼だなあ…まあ、君達よりは年上だけどさ。僕は…」


 雪之丞が名乗りを上げようとした瞬間、紅紫檀の胸元から電子音が鳴った事で緊迫した空気は一先ず破られた。


「やべ、定期連絡の時間だ。こちら紅紫檀。巡回地点において民間人を一名保護した。これより拠点へ一時帰還する。そうだ、ああ、なんか変なおっさん拾ったんだけど…分かった取り合えず連れて帰る」


 通信機の向こうにいる相手に紅紫檀は軽い調子で話をしている。恐らく味方で親しい相手なのは伺えた。

 だが、自分に対する報告が雑な事に雪之丞は複雑な気持ちになった。


(なんなんだ…一体…)


 紅紫檀が通信を終えるのを待っていると、竜胆がゆっくりと隣にしゃがみ込んできた。


「これから貴方を我々の拠点へ誘導します。ここはいつ敵に攻められるか分からないので。一緒に来てもらえますか?」


 視線を合わせて丁寧に説明してくる竜胆に雪之丞は警戒しながらも静かに頷いた。ここに一人でいるよりも戦闘能力のある彼等についていた方が、身の安全が保障される。

 呪術に精通しているとは言え、戦闘はからきし苦手な自分には情報の乏しい中で立ちまわるには限界があった。


(真澄もよく、情報は大事だって言ってたし…ここは彼等について行こう)


 座り込んでいた地面から腰を上げ、雪之丞は埃を払ってから地面に投げ出していた三本の刀剣を拾い上げ、背中に背負ったままの鎌を確かめた。


「分かった。よろしく頼むよ」


「少し歩きますが、頑張ってください」


 竜胆を先頭に雪之丞は後ろを紅紫檀に挟まれる隊列で薄暗い通路の中を歩き出した。

 何処へ向かって進んでいるのか分からない程に、通路の中は幾つもの道が入り乱れ、何度も曲がっては方角が分からなくなった。

 更に、壁には無数の呪符や注連縄が張り巡らされ、まるで結界の中を歩いているような気分になった。


「ここには先程のような下級の怪夷は侵入してきません。ただ、怪夷化歩兵までは防げないので、もし侵入された場合は戦闘になります」


「下級怪夷って、ランクは?それに、怪夷化歩兵って…?」


 竜胆が淡々と説明する聞き慣れない単語に雪之丞は疑問を浮かべる。


「なんだよおっさん、今時怪夷を旧ランクでなんか呼ばねえぞ。大体怪夷は自然発生した下級か旧陸軍が造り出した怪夷化歩兵だけだろ」


「え?そうなの…?」


 困惑する雪之丞の反応に、竜胆と紅紫檀は首を傾げた。まるで、おかしなことを言っているのは雪之丞の方だとでも言うような様子だ。


(怪夷に自然発生と旧陸軍が造り出した怪夷化歩兵って…何のことだ?この子達は何を言っているんだ…)


 胸中でこれまで出て来た単語を整理してみた雪之丞は、そこで微妙に聞きな慣れた単語に近い物や、まったく意味の異なる物がある事に気が付いた。


(自然発生と言っている怪夷が僕等が良く知っている怪夷だとして、怪夷化歩兵っていうのはなんだろう…話からして旧陸軍とやらが造ったとか言ってるし…それに、この子達が属している帝都防衛軍って、まるで逢坂時代より前の軍の呼び方みたいじゃないか…)


 かつて、日ノ本と世界が混乱と混沌に陥った暗黒の時代。怪夷と呼ばれた異形によって全てが蹂躙された頃、日ノ本が組織した帝を中心とした防衛軍と近い名前を関する組織。


(おかしい、僕は一体今、何処にいるんだ…)


 自分が知る常識と傍にいる若者の常識がずれている。考えられる事柄は雪之丞が飛ばされた場所が元いた東京とは違うという事。

 では、一体どこに自分は飛ばされた。

 疑問が脳内をグルグルと渦巻く中、気が付くと雪之丞は半日近く歩かされ、通路を出る頃には西の空が赤く染まっていた。


「お疲れ様です。無事に着きましたよ」


 通路を抜けた先にあったのは、コンクリートで造られた堅牢で無機質な筒状の建物だった。

 その入り口にも結界を構築する呪符や注連縄が施され、見張りと思しき兵士が数人いた。


「巡回ご苦労。中でドクター達がお待ちです」


 竜胆と紅紫檀の帰還を敬礼をして兵士達が出迎える。


「了解した。警備を続けてください」


 兵士達に敬礼をして竜胆は颯爽と建物の中に入っていく。雪之丞も紅紫檀に促されるまま建物の中へと入った。

 コンクリートが打ちっぱなしになった廊下は、軍靴の足音が響き、空寒さを感じさせた。


「ここ、ほんとに拠点?」


「はい、実際の居住スペース等は半地下にあります」


 廊下をしばらく進みと、突然柱が現れた。

 行き止まりに連れてこられた事に雪之丞が困惑していると、突然竜胆は壁に向かって手を押し当てた。

 すると、壁に一部が押し込まれ、壁と床の間が音を立てて動き出し、横にずれた床板の下に階段が現れた。


「何これ、絡繰り?」


「隠し扉です。どうぞ」


 促されるまま雪之丞は竜胆と紅紫檀について階段を下りてく。すると、その先が突如昼間のように明るくなった。

 煌々と炊かれた照明に目が眩み、雪之丞は思わず目を細めてその場に立ち尽くす。ようやく目が光に慣れた所で、目を開けるとそこには天井まで届く一本の樹が生えていた。


 建物の中に生えた樹を茫然と見つめていると、樹の後ろ側から二つの人影が現れた。

 1人は白衣を羽織った白髪交じりの頭をした初老の男。もう一人は桜色の髪を伸ばし、竜胆達と同じように戦闘服を身に着けた十代前半の少女。

 その少女に雪之丞は帝都に残してきた許嫁の面影を見つけて思わず息を飲んだ。


「はる」


「ようこそ、我々の拠点へ」


 思わずここにいない少女の名前を呟きかけた雪之丞の意識を引き戻すように、初老の男が両手を広げながら雪之丞の下に歩み寄ってきた。


「僕はここの管理を任されている秋津川雪之丞といいます。ここでは皆からドクターと呼ばれています」


(え…)


 唐突に現れて名乗ってきた初老の男の名前に、雪之丞は内心で驚愕した。

 秋津川雪之丞。聞き間違えでなければ間違いなく自分と同じ名前である。

 秋津川という名字だけでも珍しのに、この上名前まで同じとは。俄かには信じられない事実に困惑しながらも、雪之丞は敵意のない初老の男にぎこちなく応じた。


「はあ、どうも…」


 差し出された右手を雪之丞は流されるままに握り返す。しばらくは相手の出方をみようと決めて雪之丞はドクターの話に耳を傾けた。


「貴方の安全は、我々が保証します。来週には帝都と逢坂へ退避する為の避難列車が来ますから、もう少しの辛抱です」


「あの、ここは何処ですか?僕はどうやら記憶が曖昧らしくて…」


 相手の素性や状況を引き出そうと雪之丞は敢えて記憶喪失のふりを決め込んだ。


「ここは、かつての軍都・東京の近郊。貴方は何故戦場の最前線に?」


「すみません…自分でもよく分からなくて…」


 額を押さえ雪之丞は自分が目を覚ます前の情景を思い出すが、信じてもらえるか分からない為、これ以上の説明を放棄した。


「そうですか。何か理由があったのかもしれませんね…ここは今のところ安全ですから、ゆっくり休んでください」


「ありがとうごいます」


 ドクターに頭を下げ雪之丞は礼を口にする。

 それにほっと胸を撫で下ろしたのか、ドクターは安堵の笑みを零した。


「桔梗、この方を居室に案内してあげて」


「分かった」


 ドクターの傍についていた桜色の髪の少女は、こくりと頷くと雪之丞の傍へと寄って来た。


「おじさん、僕がお部屋に案内してあげるね」


「おじさんはちょっとな…僕は…魚住雪っていうんだよ」


 無邪気ながら見知らぬ子供におじさんと言われるのがどうも落ち着かず、雪之丞は咄嗟に偽名を名乗る事にした。


(本名名乗って何か勘繰られても嫌だしな…)


 不本意ながら父親の旧姓を拝借し、雪之丞は内心溜息を零した。


「じゃあ雪おじさん、こっちだよ」


 ぐいっと桔梗と呼ばれた少女は雪之丞の腕を引いて半地下になっているスペースの奥へと歩いていく。


「ねえ、桔梗ちゃん?今日は何月何日?」


 桔梗に手を引かれて薄暗い廊下を進みながら雪之丞は世間話をするように声を掛けた。

 まずは、現在の状況を知るよりほかにない。せめて今自分がいる年月日だけでも知りたくて雪之丞は新聞か何かないかを訪ねた。もし自分の仮説があっているなら、日付があればはっきりする。


「新聞なら、お部屋に持っていってあげるね。ここが雪おじさんのお部屋だよ」


 案内されたのは、先程のホールのようなフロアから十メートルは進んだかと思う場所にある一室だった。横開きの扉が自動で開き、中にはベッドと簡易の机、クローゼットが設置されている。

 まるで、士官学校の寄宿舎に似た造りに雪之丞は懐かしさを感じながら、桔梗に促されて入室した。


「今新聞取って来るね」


「うん、出来れば古いのもお願い出来るかな?」


「古いの?分かった」


 雪之丞の要求に子供らしくキョトンと目を丸くしてから桔梗はパタパタと廊下を駆けて行った。


「ふう…」


 溜息を吐き、雪之丞は一先ず抱えていた荷物を降ろすと、ベッドの上に腰を下ろした。しばらく使われていないのか、埃が舞って少し煙たかった。


(帝都防衛軍…さて、僕は今一体どこにいるのやら…)


 白衣の内ポケットからシガレットとライターを取り出し、雪之丞はシガレットに火を点けてそれを口に咥えた。一息ついた所で己の仮説を脳内で整理し始めた。


 かつて、旧江戸城は怪夷を霊脈から生み出す一種の装置だった。それが何千年と積もり積もった怨念の蓄積を具現化したモノなら、ある程度時の流れと関連があるのではというのが雪之丞の通説だった。


(あの穴がもし僕の仮説通りになんらかの時空に通じているなら、聖剣の力で僕は何処に飛ばされたに違いない。もしそうなら、日付が分かれば少しははっきりする)


 ふーと、紫煙を吐き出して一服していると、再び扉が開き、小柄な少女が腕いっぱいに古い新聞を抱えて戻ってきた。

 ベッドから腰を上げて雪之丞は戻ってきた桔梗を出迎える。


「はい、どうぞ」


「ありがとう」


 手渡された新聞を受け取り、雪之丞は無意識に桔梗の頭を撫でて。それに嬉しそうに笑う少女の笑みは、自分の許嫁によく似ている。


「桔梗ちゃんは、どうしてここにいるの?ご両親は?」


「僕のお父さんは、さっきドクターってみんなが呼んでいる人。お母さんは、僕が小さい時に死んじゃった」


 平然と話をする桔梗の内容に雪之丞はまずい事を聞いたなと内心舌打ちした。


「でも、お兄ちゃんがいるから寂しくないよ。僕には竜胆お兄ちゃんの他にも紅紫檀や鬼灯がいるもん」


 雪之丞の表情を読み取ったのか、桔梗は何でもないというように微笑んだ。

 その繕われた笑みに雪之丞は胸を締め付けられながら、ふとさっき自分を助けてくれた竜胆がこの少女と兄弟であるという情報を入手して眉を顰めた。


「僕は戻るね。もうすぐしたらご飯だからまた呼びに来る」


「うん、ありがとう」


 新聞を届けた桔梗は再び元気に部屋を飛び出していく。

 小さな背中を見送ってから雪之丞は徐に新聞に視線を落とす。発行された日付を見て、心臓が飛び出しそうになり、咄嗟に口元を押さえた。


「…1950年…これは、今年か…?」


 俄かには信じられないと雪之丞は更に他の新聞へ目を通した。最初に見たのは今日の日付らしく、その先は過去の物だった。


「なんだこれ……」


 雪之丞の手の中で捲られる紙面で踊っていた文字は、どれも衝撃の内容だった。

『旧陸軍、ドイツ帝国と共にフランスへ進撃。西部戦線にて英国連合軍を撃破』『軍都・東京征圧』『新帝、帝都、逢坂を拠点に防衛軍を組織』


(日ノ本が戦場になっているなんてありえない…それに敵が元陸軍なんて…真澄と静郎は何をして…)


 親友達の顔を思い浮かべながら更に新聞の過去の記事を遡ると、雪之丞はある日付の見出しを前に、言葉を失った。


「あ……ああ…」


 がくりと、膝から崩れ落ちる、と同時に信じがたい見出しがその瞳に焼き付いた。


「嘘だ…そんな…」


 ガタガタと震え出した雪之丞が握った新聞の見出しに踊っていたのは『大統領柏木静郎、日ノ本陸軍大佐九頭竜真澄暗殺!陸軍青年将校達の凶弾に斃れる』の文字。

 その日付は1929年2月27日と記されていた。








************************




朔月:次回の『凍京怪夷事変』は…


三日月:未来へと飛ばされた雪之丞。過去を変える為、彼の孤独な闘いが始まる…


朔月:第六十七話「悪夢のその先へ」次回もよろしく頼むよ。

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