第六十四話-貴方の面影を追いかけて




『十八歳になったら迎えに来るよ』

 そう言って微笑んだ貴方の面影が今も鮮明に蘇る。



 人の心のありようなど、幾らでも変わる。

 そのきっかけは、その時になってみないと分からない。


 現に、生まれながらに男として育てられ、自身も自らを男と思い成長をしてきた者に、普通の恋愛など出来る筈はないと思っていた。


 姉である女性に縁談が持ち込まれた時、それはとてもいいことだなと思っていた。だが、自分に置き換えた時、果たして彼女と同じように受け入れられるのか。


 思春期が始まり、身体の成長が己の思っている方向と異なる方へ向かいだした当時、大翔の心は戸惑いと不安に苛まれていた。

 春のある日。桜が散る中で同席した見合いの席は、まさしくその転換点だった。

 この時はその席が運命の出逢いの場になるとは当時の大翔は思ってもいなかった。





 時は遡り大正35年。


 南関東一帯を未曾有の大震災が襲い、英雄達が命を懸けて旧江戸城に封じた怪夷の封印が解ける一年前。


 桜の花が綻び始めた頃。場所は日ノ本共和国首都。

 帝都と呼ばれるその都は、古よりこの国の最高司祭がまだ権力を握っていた頃より栄えた場所。


 盆地に碁盤の目で区画されたその都市は、これまで幾度となく戦乱と混乱を潜り抜け、今日においても国の首都としてその栄華を誇っている。

 政治の中心が東の地へ移ろうと、この国を想像した神の血を引く御子は、等しく国の行く末を想い、祈りを捧げていた。


 春の色に染まり始める帝都の一角。手入れの行き届いた日本庭園を望む料亭の一室で、着飾った男女を中心に二つの家が相まみえる事となった。


 片や国の英雄として怪夷討伐に貢献した名家であり、先々の斎王の子女である秋津川雪那が当主を務める秋津川家。

 片や祭事部の幹部の家柄にして、先代斎王を務めた秋津川雪那の従姉妹である人物が嫁いだ宮陣家。

 どちらも祭事部においては地位のある名家である。


 そんな両家の家族が介した理由は、他でもない互いの家を存続させる為の大事な交流。

 ようは、お見合いである。


 当時、34歳になろうとしていた秋津川家の跡継ぎで一人息子の雪之丞に浮ついた話はなく、本人は陸軍や軍都大の研究室で四年前の欧羅巴戦線で事実上殲滅した怪夷に関わる研究に明け暮れていた。


 そこに危機感を示したのは、秋津川家当主の雪那ゆきなというより、彼女の夫である入り婿の方だった。

 このままでは、英雄の血を途絶えさせかねないと危惧した秋津川猛あきつがわの意向で雪之丞に対してお見合いの話が持ち上がった。


 だが、お見合い相手の写真を持って行っても雪之丞は父親に対し、「仕事が忙しい」「興味ない」と空返事を返し、ついには「結婚なんてしない」と言い始めた。

 それに怒りを露にし、この縁談ばかりは絶対に纏めたいと意気込んだ猛の策略によって、雪之丞は実家に近い帝都へと呼び出され、お見合い相手が待つ料亭へと引きずり込まれた。


「絶対ヤダ!僕は研究室と既に結婚してんだから、ほっといてよ」


「何が嫌だだ、34にもなってふらふらと。遊び惚けていないだけまだましかと思ったが、仕事中毒も体外にしろ!お前は由緒ある秋津川の一人息子だぞっ」


 料亭の控室で雪之丞は紋付き袴に強制的に着替えながら、父親の小言に辟易していた。


「だいたいさ、今時家の存続の為に結婚なんて考え古くない?そんなに家を残したいなら、もう一人作れば良かったじゃん。それか、血縁から養子をもらうとか方法あるでしょ?あ、子供が欲しいなら僕どっかで適当に作ってくるけど」


「馬鹿な事を言うな。それに、お前を生むのに雪那さんがどれだけ苦労したか分かっていないだろう?自分の母たる女性に失礼だ」


「母さんの事に関しては謝罪します。そうだね、僕一人でも生んでくれたことに感謝してるよ。事情は聞いてるから、愚問だった」


「それに、名誉ある秋津川家の嫡男が外で素性も分からん女と子作りなど、世間に知られればお前の経歴に傷がつくぞ」


 父親からの忠告に雪之丞は溜息を零した。今更結婚など考えてもいなかった。


「…真澄は結婚してないじゃん…なんで僕だけ…」


「真澄君は立派に軍人として立志しているだろう。いずれ向こうも縁談が舞い込むだろうし。そもそも九頭竜の家は次男が既に家督を継いでいるから問題ないんだ」


(くそ…こういう時兄弟がいるのは便利だな…)


 自身の幼馴染であり親友である男の事を思い出しながら雪之丞は不満をぶつける様に袴の帯を締めた。


「ちょっと、男子諸君、準備は出来たかね?花嫁候補のお嬢さんとその家族をいつまで待たせるつもり?」


 控室の襖戸が開くと共に室内に入って来たのは、黒い留めそでに身を包んだ妙齢の女。秋津川家の当主にして、かつて怪夷討伐の英雄として九頭竜莉桜と双璧を担った人物。秋津川雪那は夫と息子を交互に見遣って肩を竦めた。


「雪那さん」


「女の身支度が遅いのは分かるけど、野郎の身支度に時間が掛かるのは容認しないなあ…雪之丞君、君はそれでも紳士なのかな?」


 母の不敵な視線に射抜かれ雪之丞は僅かに視線を外した。別に雪之丞は母親が苦手ではないが、紳士という言葉には一定の誇りがあった。


「すみません母上。もう出来ました。普段着物を着ないので着方に迷っていました」


「ほうほう、それは仕方ない。が、きちんとお見合いの席には出る様に。先方には無理を言ってこの場を設けて貰っているからね。纏まる纏まらないは別にして、義理は果たすように」


 雪那の言葉に雪之丞は深く頷くと、羽織に袖を通した。


「さあ、行きましょう」


 それまで乗り気でなかった筈だが、雪之丞は母の言葉に促され控室を出た。

 長い廊下を進み、相手が待つ広間へと向かう途中、三人はお手洗いから出て来る一人の少年と出くわした。

 トンと、弾みでぶつかりよろめいた少年を雪之丞は咄嗟に抱き留めた。


「大丈夫?ごめんね、びっくりしたでしょう?」


 抱き留めた少年に雪之丞は優しく声を掛ける。突然出くわしてぶつかった相手に気遣われた少年は身を起こしながら深く頭を垂れた。


 紫水晶のような澄んだ瞳に紺色交じりの黒い髪を総髪に結い上げた少年は、少し驚いた表情で自分を起こしてくれた雪之丞を見つめる。

 若草色の羽織袴に身を包むその少年を雪之丞は思わず食い入るようぬ見つめてから、一種の違和感のようなものを覚えた。


(あれ…この子…)


 胸中に湧き上がった感情を表に出す事なく雪之丞は少年の前に腰を折ると、乱れた袴の裾を直してやりながらニコリと微笑みかけた。


「大丈夫?怪我してない?」


「はい。大丈夫です。申し訳ありませんでした。失礼します」


 深く頭を垂れ、一度だけ顔を上げた少年はじっと雪之丞の顔を見てから、慌てた様子で廊下を駆けて行く。

 その小さな背中を雪之丞はしばし見詰めたが、後ろから背中を猛に小突かれて、

「痛てっ」と声を零した。


「ほら、行くぞ」


「はあい……」


 両親に促され雪之丞は廊下を進んで行く。すると、曲がり角から見える部屋に先程の子供が入って行くのが見えた。


(あれ…あの部屋って…)


 廊下を曲がると、料亭の女中が秋津川一家の到着を待ち構えていた。

 女中に案内されるまま、雪那を先頭に三人は見合い相手の一家が待つ応接間へと足を踏み入れた。


 見合い場である応接間には漆塗りの長卓が中央に置かれ、その下座に四人の男女が座っていた。


 華やかな牡丹の花をあしらった振袖に身を包み、簪で髪を飾り付けた二十歳そこそこの女性は恐らく今回の見合い相手。

 その彼女を脇からはさむように母の雪那と変わらない歳の女性と、二十代半ばの青年が左右に座っている。


 前情報で聞いていたお見合い相手の家は、秋津川家同様に女性が当主を務めていた。彼女の夫君であったお見合い相手の父親は一昨年他界していた。

 共に席についている青年は次期当主である嫡男だろう。


 そして、現当主の隣に座っている小柄な人物を見つけて、雪之丞は内心息を飲んだ。

 兄と母親と共にこの大切な席に出席している十代前半の少年に、雪之丞は何故か興味を惹かれていた。


 席に遅れた事に謝罪している母の声が遠くに聞こえる程、雪之丞の意識は緊張からかちょこんと大人しく座っている少年に注がれていた。





「嫌です」


 満面の笑顔でそう言ったこの席の主役の一人である宮陣晴美の言葉に、その場の空気が一瞬、凍り付いた。


 会食を兼ねたお見合いが始まり、ある程度親同士の話が済んで食事も終わりに差しかかった頃、ようやく今回の主役である当人達へ話題が振られた。


 それまで手酌で酒を飲みながら両親が自分の話をする度に愛想笑いを浮かべていた雪之丞だったが、お見合い相手である晴美の強烈な一言に愛想笑いは別な意味の笑みへと変わっていた。


 その時お見合いを姉の付き添いで来ていた宮陣大翔は、食事に手を付けながら少し不安を持って見つめていた。そして、その不安が今、目の前で現実のモノになっていた。


「晴美、貴方面と向かって...」


「だって、こんな歳の離れた冴えないおじさんと夫婦になるなんてごめんだもん。いくら英雄の御家柄でも、タイプじゃありません」


 キッパリとそう言った晴美は、いっそ清々しい程にはっきりとしていた。

 それに顔を蒼くしたのは意外にも宮陣家当主だけだったが。


「も、申し訳ありませんっ」


 娘の歯に衣着せぬ物言いに宮陣家当主は額が卓に擦れそうな程に頭を下げた。

 その横で付き添いである子供達は平静を保っていた。


 姉ならこうするだろうなと事前に兄である春樹と予想していた大翔は驚きはしなかったが、こうもはっきり言うのかと内心困惑はしていた。


 ひと昔前なら、嫁ぐ家の娘がこんな無体な事をすれば一家全員首を切られても可笑しくない状況だったが、意外にも相手の家の反応は寛容だった。


「あはは、別に気にしてませんよ。晴子はるこ様、頭を上げてください。コイツがさっさと結婚しないのが悪い訳だし。良い縁談だったんですけどね」


 内心は肩を震わせゲラゲラと笑いながら雪那は顔面蒼白で頭を下げている宮陣家当主へ頭を上げてくれと促した。


 それに応じはしつつ、自家より格上である秋津川家に娘が犯した失態に震えて宮陣家当主は頬を強張らせたまま、秋津川家の面々を見つめた。


 当主である雪那は楽しそうにしているし、その夫君である猛は溜息をついている。そして、お見合いの主役である嫡男の雪之丞は…。


「で、雪之丞君、君どうする訳?」


 ニヤニヤと笑う母親に顔を覗かれ、雪之丞は間延びした声を上げながら杯の酒を飲み干した。


 自分の事だというのに何処か他人事な雪之丞を大翔は興味深そうに見つめていた。

 さっき、厠から出た所でぶつかったにも関わらず、優しく起こしてくれた人物が実は姉のお見合い相手だったとは、と彼等が部屋に入ってくるまで気づきもしなかったが。

 そんな人物は姉に真正面からフラれたというのに、全然気にした様子はなく、むしろ何処か安堵している様だった。


(不思議な人だな…)


 今年二十歳になる晴美の下に秋津川家から縁談の話が持ち込まれた時、大翔は姉のお見合い相手となる人物がどんな人かを事前に調べていた。

 四年前、欧羅巴の戦線まで怪夷討伐に尽力した英雄の子息。陸軍の幼年学校を経て軍大の科学科へ進学し、怪夷討伐に研究者として尽力した人物で、そこそこ新聞でも取り上げられている。


 容姿端麗でそれなりにファンも多いと聞くが、当の本人は根っからの研究者であるのか、浮ついた話は一切ない。本人も研究は恋人と言い張る程、色恋沙汰に縁のない人物として一部では有名だった。


 晴美との今回のお見合いも恐らく破談になるだろうというのが、春樹との見解だった。


 だが、先程厠の前で偶然にも接触した時、大翔は自分を見つめて来る雪之丞の目線に何故か釘付けになった。

 自分を本心から気遣う琥珀色の瞳。大きく抱き留められた腕は、まだ幼さの残る大翔には印象深いものになっていた。


(…なんだろう…さっきから胸がざわざわする…)


 姉とこの人がもしかしたら夫婦になるかもしれないと、そう思った時、お見合いが始まる前とは異なり何故か大翔の胸中は今まで感じた事のない焦燥感に見舞われていた。


 自分は男なのに、と胸の内で自らを律ししていると、不意に視線を感じて大翔は顔を上げた。

 斜め向こうに座る雪之丞がじっと何故か大翔を見詰めてくる。大翔と視線が交わった途端、雪之丞はニコリと微笑んだ。


「そうですね…はっきと物怖じせずに発言する女性は大変好ましいですが、当人に好みじゃないと言われては、僕が彼女を気に入っても夫婦生活は直ぐに破綻するでしょう。残念です」


 それが本心かは不明だが、紳士的な雪之丞の物言いは晴美をと相手の家を傷付けないという配慮に満ちていた。

 あくまで縁談の破断の原因は自分だと、自ら矢面に立ったのだ。


「また、ご縁がありましたらその時はどうぞよろしくお願いいたします。本日はお忙しい中ご足労頂きまして誠にありがとうございました」


 縁談を持ち込んだ両親の意見をなど聞かず、雪之丞は一方的にこの場を閉めると、深くお辞儀をして席を立った。


「おい、雪之丞、お前何を勝手にっ」


 一人退室していく息子を父親である猛が慌てて追いかける。

 襖戸が開かれ、部屋を出る間際雪之丞はもう一度大翔を振り返り、口元に指を押し当てて微笑んだ。


「いやあ、すみませんね、うちの放蕩息子が、ご気分を害したなら謝罪します」


 パタンと締められた襖戸を茫然と見詰める大翔の耳に、雑音のように雪那の謝罪の声や母の悲鳴交じりの謝罪の声が聴こえる。

 ついには姉の溜息まで聞こえてきたが、大翔はその場の音が気にならない程に襖戸の向こうへ消えた御仁に心を奪われていた。



 見合いの席を一方的に退室し雪之丞は控室へ戻っていた。

 一緒に付いてきた猛が小言をまくし立ててはいるが、そのどれもが耳に入って来ない。

 同じ事を繰り返し聞かされて辟易していると、待ち人が漸く戻ってきた。


「あのお嬢さんなかなか面白かったなあ。莉桜の若い頃を思い出すくらい僕は好印象だったんだけどね」


「雪那さん、何呑気な事を、この縁談の場を設けるのにどれだけ苦労したか…」


 縁談相手に奔走した猛が雪那の発言にげんなり肩を落とす。

 秋津川家の未来の為にと奔走した入り婿の頑張りは、今や水泡に帰そうとしていた。


 だが、雪那の帰りを待っていた雪之丞は、それまで父親の小言を聞き流していた姿勢を改めて母の前に進み出た。


「母上、僕から一つお願いがあるのですが」


「おや、息子直々のお願いとはなんだね?」


 母親似である雪之丞は自分と性格も様子も良く似た妙齢の女性に、いつにない真剣な表情である事を願い出た。


「宮陣家の独特の風習は僕も存じています。だからこそのお願いを」


 自ら見合いを破談させた家の名前が出た事に雪那は何故か驚かなかった。

 むしろ楽しげな様子で息子の願い事に耳を傾けた。

 母子の間で交わされた言葉に雪那は満面の笑みを零してから、やれやれと肩を竦めた。


「君も随分変わった趣味をしているよ。ほんと、僕の息子らしいね」


「ご配慮、よろしくお願い申し上げます」


 背筋を伸ばし、真剣な面持ちで雪之丞は深々と頭を垂れた。




 見合いの席の翌日。帝都にある宮陣家に一通の手紙がもたらされた。

 女中が届けてきた手紙を開封し、そこに記されていた内容に宮陣家当主である大翔達の母は慌てた様子で大翔を探し回った。


「大翔さん、大翔さんは何処に」


「お母様、僕ならここに」


 庭先で呪術の修行に励んでいた大翔は、血相を変えて庭先に現れた母に仰天して目を見張った。


「今、秋津川家から手紙があって…もう一度席を設けたいと」


「それは、僕じゃなくて姉上に言うべきでは…」


 息を切らしている母に大翔は困惑した。お見合いをしたのは姉の晴美である。

 だが、母は大翔の両肩を掴み、切羽詰まった表情で顔を覗き込んだ。

 次に彼女の口から出た言葉に、大翔は珍しく大声を挙げて驚いた。


 秋津川家から送られた手紙は、先日の席への謝罪と、もう一度見合いの席を設けて欲しいという申し出だった。

 その見合い相手は、晴美ではなく末っ子の宮陣大翔だった。




 それから数日して、再び見合いの席が設けられた。


 今度は最初の見合い相手の晴美ではなく、彼女の公的には弟とされている少女との。


 宮陣大翔は、宮陣家の特異な風習により、普段は男として生活をしていた。

 本来なら、初潮があり、子供を産める12、3歳でその風習も解かれる筈だったのだが、当の本人は生まれながらに自身を男と思い過ごしていた。

 これまで宮陣家にはそう言った者も多く、生涯反対の性で過ごした者も少なくなく、大翔に関しても両親や兄達は気にする事もなく過ごしていた。


 ところが、晴美の為にと開かれた席で事態は思わぬ方向へ進んでしまった。

 初め、宮陣家側は秋津川家の改めての申し出を何かの冗談かと思い、断ろうとした。

 だが、当人である雪之丞直々に宮陣家を訪ね、大翔との縁談を希望した事で物事はあれよあれよという間に進んだ。

 大翔の事情を考慮しての申し出を宮陣家は謹んで受ける事にした。


 それというのも、縁談を申し込まれた本人が了承したからである。

 末子の初めての願いを無下にするほど、母や兄達は薄情ではなかった。





「雪之丞さまは東京でお仕事をされているのですよね?もう直ぐお戻りに?」


 正式に縁談が纏まり、婚約者になった日。役所へ婚約の書類を提出に行った帰り道、大翔は何げなくそんな事を問いかけた。

 この見合いの為に仕事を休み帝都へ上ってきていた雪之丞には、帰還の日が迫っていたのである。


「うん、明日にはね」


 雪之丞の答えに大翔は自身の胸をぎゅっと握り締めた。

 正式に婚約を結んだ今、大翔にとって目の前の御仁はかけがえのない存在だった。


「あの、僕手紙書きます。帰省の際は会いに行きますから」


「うん。僕も書こう。また合間をみつけた会いにくるから」


 まだ幼い小さな頭を雪之丞は優しく撫でてくれた。

 その手の温もりを大翔は今でも忘れられない。

 その時はまだ、明るい未来が待っている事を大翔は信じて疑わなかった。

 それは、大翔自身がまだ恋を知ったばかりの幼子だったからかもしれない。


 その日を境に、幾度となく雪之丞は上洛の折には大翔との時間を作り、共に過ごした。

 そして、最後に上洛したのは八月の下旬の事だった。




 横浜、東京を中心に襲った大地震の一報は、数日して西の帝都にも届けられた。

 大翔が住む宮陣の屋敷にもその一報はある驚きの便りと共に届けられた。


 兄・春樹に呼ばれて居間に来た大翔は、東京から届いた便りの内容に言葉を失った。


「……雪之丞さんが…」


「まだ行方が知れないという話だけだよ。死んだ訳ではない」


「でもっ関東は…東京はかなり被害があったと新聞でも報道が」


 思わず腰を浮かしたまま、大翔は兄の顔を見詰めた。その時の大翔の顔は蒼白に色を失っていた。


「…少し落ち着きなさい。雪之丞殿の件は私の方でも探ってみよう。お前は、今まで通り修行に励みなさい」


 戸惑い困惑する大翔に春樹は眼鏡の奥から思慮深い視線を向け、淡々と声を掛けた。

 自分では落ち着いているつもりだったが、そうでもなかったようで大翔は一先ず深呼吸をした。


 脱力して落ちた大翔の肩を、兄が優しく撫でる。

 そう言った兄は、まるで自身の発言を肯定するかのように、数日後軍都・東京へ旅だって行った。


 けれど、その兄も四年後、任務の最中に行方不明となった。

 跡継ぎであった兄を失った宮陣家は、次は姉である晴美に当主の座が回って来たのだが。


「私は当主になんてならないから」


 と言い残し、東京へと出奔して行った。

 跡継ぎとなるべき者達が次々にいなくなった中、大翔は母にある条件を出した。

『兄と同じ特夷隊に推薦してくれるなら、当主の座を引き継ぐ』と 


 それは、秋津川家へ嫁ぐ事が決まっていた縁談を実質破棄にするに等しい決断だった。

 そんな大翔には思惑があった。その為にはどうにかして軍都・東京に、行く理由が必要だったのだ。


 たとえそれが、危険な事に足を突っ込む結果であっても。

 雪之を、愛するあの人の面影を追いかけるにはそれしか思いつかなった。


 祭事部の推薦状を手に、僕は汽車へと飛び乗った。

 止まったままのこの患いを癒す為に。


 貴方の面影を見つける為に。







**************************


弦月:次回の『凍京怪夷事変』は…!


暁月:それぞれの思惑が動き出す中、真澄の中で止まっていた時間が動き出す…


弦月:第六十四話「賽は投げられた」次回も乞うご期待!



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