第七章

第六十二話―宮陣家の食卓




 夕暮れに染まる東京の街を大翔は二人の若者を引き連れて歩いていた。


「もう直ぐ着くよ」


 電灯が徐々に灯り、淡く輝く街並みを興味深げに眺めている兄妹を大翔は肩越しに振り返って声を掛けた。


 大翔が目指しているのは大統領府から北へ上った地区。

 真澄が趣味で経営している喫茶アンダルシアから見て北西に位置する千駄木付近。上野の山の西側に位置するエリアで元は寺町として栄えた場所の坂を幾つか上り下りした場所に、一軒の民家が建っている。


「ただいま」


 門を潜り、引き戸の玄関を開けて大翔は家の中に入ると、後ろから着いてきた桔梗と竜胆にも上がるように促した。


「散らかっているけど、どうぞ」


「お邪魔します」


 玄関先で行儀よく挨拶をして、二人は大翔に招かれるままに家の中に上がった。


 事の発端は数時間前。

 真澄と南天の契約が無事に済んだ後の事。


 病み上がりで聖剣の力を引き出した南天は、そのまま熱を出して再びベッドへ沈み込んだ。

 慌てる真澄をどうにか宥め、一先ず今日は巡回組を残して全員自宅へ帰る運びとなった。


 契約自体はまだしていないが、本人達の申し出で暫く共に暮らす事になった桔梗と竜胆を大翔は取り合えず自宅へと連れて来た。


 普段大翔は大統領府の寮にて暮らしているのだが、桔梗と竜胆が一緒では流石に部屋が手狭だった。

 桜哉と相部屋である故に、鈴蘭が一緒に生活している事もあって、大翔は真澄の許可をもらい姉が暮らす家へと久し振りに帰ってきた。


「適当に寛いでて。今お茶を入れるから。姉さんは今日もお店だから多分九時くらいには帰ってくると思う」


 桔梗と竜胆を一先ず居間へと通した大翔は、二人にそう告げると奥にある台所へ入って行った。


 居間に通された桔梗と竜胆は、きょろきょろと室内を興味深げに眺めながら畳の上に腰を下ろす。散らかっていると言っていたが、戸棚や茶箪笥にきちんと物は納められ、畳の上に置かれた卓袱台の上にも特に物は置いていなかった。

 ぼんやりと天井を眺めながら正座をして座る竜胆。それとは対照的に桔梗は膝立ちで茶箪笥や和箪笥を興味深げに覗き込んだ。


「あ、見てみて竜胆、蓄音機がある。こんな階段箪笥写真でしか見た事ないよ」


 部屋に置かれた物の数々を桔梗は興奮気味に竜胆へ報告した。それを竜胆は微笑ましく思いながら眺めている。


「僕等がいた時代には、もう全部燃えてなくなっちゃたのにね。ここは博物館みたいだ」


 梁の剥き出しになった高い天井。畳に使われているイ草の匂い。配置された家具の古めかしさに桔梗は目を細めて関心を寄せた。


「桔梗、分かっていると思うが、あまり詳しい事を大翔さん達特夷隊の人以外に話してはいけないよ」


「分かってるよ。でも、竜胆だって、懐かしいでしょ?だって、竜胆は」


「お待たせ、お茶請けが少なくて申し訳ないんだけど、おせんべいと漬物でいいかな」


 桔梗が竜胆に話しかけた言葉を遮るようなタイミングで、がらりと引き戸が開く。廊下から居間に入って来たのは、お湯の沸いた薬缶と漬物の入った器を持った大翔だった。

 二人の視線がほぼ同時に注がれた事に大翔はキョトンと目を見張る。


「どうかした?」


「あ、いえ…なんでもありません」


 疑問符を浮かべている大翔に竜胆は言葉を濁しながらも応えた。

 室内に漂っているぎこちない空気にしばし戸惑ったものの、大翔は一先ず薬缶と器を卓袱台の上へ置き、後ろ手に引き戸を閉めた。


 茶箪笥から人数分の湯飲みと急須を取り出し、てきぱきと大翔はお茶の用意をしていく。

 いつの間にか桔梗も竜胆の横に正座をして座りながら大翔の様子を眺めていた。


 茶筒から茶葉を取り出し、茶葉を急須に入れる。そこへお湯を注ぐと茶葉から花やかな香りが立ち上った。

 丁寧にお茶を入れる大翔の所作を桔梗と竜胆は知らず知らずのうちに静かに見つめていた。


 三人分のお茶を淹れた所で、大翔は二人が自分の事をじっと見ている事に気づき頬を赤らめた。


「なんか、恥ずかしいな…そんなに見られると…」


「あ、ごめん、ごめん。こんなにお茶を丁寧に淹れてもらう機会なんてなくて、ついつい見惚れちゃったんだ」


 苦笑いを浮かべ桔梗は胸の前で手を合わせて首を横に傾けた。年相応の愛らしい表情に大翔もまた苦笑を滲ませた。


「君達も僕等と同じ小隊なら、色々戦場に出ていたんでしょう?真澄さんから何度か聞いた事があるけど、戦場だとゆっくりお茶も出来ないって」


 香りの立つ湯飲みを二人の前に差し出し、お茶漬けとせんべいを卓袱台の真ん中に置きながら大翔は自ら二人へと話題を振った。

 特夷隊の詰め所ではなかなか聞くことが出来なかった事も自宅なら聞けるだろうと大翔は思っていた。


「そうだねえ、確かにいつも緊張状態にあって息つく暇はないかもね」


 せんべいに手を伸ばし、バリンと一噛みしてから桔梗は畳の上に手をついて足を延ばした。


「私達がいた戦場は、大翔さん達が相手にしている怪夷に近い者達が跋扈しながら、規模も大きかったですから、確かにこんなにのんびりしているのも久し振りです」


「珈琲だって、豆はもう手に入らないから代用品だし、お茶の葉だって、その辺に生えた野草なんかを煮出したのを飲んでたし、物資はほんと少なくて」


「そうなんだ……」


 思いもよらない過酷な状況の話に大翔は目を見張る。と、そこで思わず疑問が浮かんだ。


(世界的に見て、この二人が話しているような戦場はない…まるで、真澄さんから聞いたかつての欧羅巴戦線の話みたいだ…)


 現在の世界は、政治や国同士の関りに少なからず溝が出来つつあるが、表面的には国連が開かれ、国交も滞りなく開かれている。

 世界大戦勃発の火種の噂は絶えないが、米国の好景気の煽りを受けて世界は安定している。

 日ノ本も先の軍都・東京での大震災から復興景気に沸いており、戦争の影は先進国では燻る程度だった。


 それが、桔梗と竜胆の話はまるでその逆である。

 お茶を飲み、せんべいや漬物などのお茶請けに手を伸ばしている二人を眺めながら大翔も湯飲みのお茶を啜った。


(二人だけじゃなく、南天君や鬼灯さん達が一体どこから来たのか…それが分かれば…)


 胸中で呟きながら、大翔の脳裏にある人物の姿が浮かぶ。五年前の夏の終わり、最後にあった日の姿に胸が締め付けられる。


「どうしたの?」


 きゅっと唇を引き結んだ大翔の顔を、桔梗は心配そうに覗き込んだ。


「え…あ…」


「どこか具合でも悪いんですか?昨夜は色々ありましたし、少し休まれては?」


 いつの間にか左右を囲むように竜胆も桔梗同様に自分の顔を覗き込んでいた。二人からの気遣いに大翔はぎこいない笑みを零した。


「ごめんね、ちょっと考え事…うん、少し寝ようかな。二人は好きに寛いでいてくれて構わないからね」


 二人の気遣いを受け入れ、大翔はゆっくりと立ち上がる。詰め所で少し仮眠は取ってはいるが、昨夜からずっと業務に当たっていたせいで疲労は溜まっている。


 桔梗と竜胆を居間に残して大翔は廊下へ出ると、奥にある自室へ引っ込んだ。

 雨戸を締め切り、カーテンの引かれた部屋は既に日が沈んだ事も相まって暗くなっていた。


 特夷隊の制服を脱ぎ、ワイシャツのボタンを外す。と、部屋の隅に置かれた姿見が目に留まった。普段は布をかけて鏡面を隠しているが、何かの拍子に布が外れたのか、半分鏡面が覗いていた。


 薄暗い中に映る自身の姿を見つめ、大翔は溜息を吐く。

 自身の胸元に手を添えて大翔は暫く姿見を見つめてから、それから目を逸らすようにして姿見の布をかけ直した。

 着替えを済ませ、敷いた布団に潜り込んだ大翔はそのまま直ぐに眠りに落ちた。




 時計の針が九時を示す頃。

 玄関の戸が開く音と聞き慣れた声に促され大翔は目を覚ました。

 布団から跳び起きると慌てて部屋を飛び出した。


「お帰りなさい、姉さん」


 廊下を駆け抜けて玄関へ辿り着くと、そこには玄関先で靴を脱いでいる女性の姿があった。

 小袖に袴姿の晴美は唐突に出迎えてくれた弟の姿に、訝しんで首を傾げた。


「ただいま。そういう大翔もお帰りなさい、何をそんなに慌ててるのよ?」


「あ、うん…ただいま。えっと、夕方から今まで寝ていた自分に吃驚して…」


 後ろ手に手を組み、視線を逸らす大翔に晴美はポカンと目を円くしてから、やれやれと肩を竦めた。


「店長から少しは話を聞いてたから、何となく分かってるけど、相当大変だったのねえ」


「うん…まあ」


 ブーツを脱ぎ、家に上がった晴美は大翔の両肩を掴むと、くるりと反転させた。


「詳しい事は居間で聞いてもいい?そういえば、大翔、夕飯は?もう食べた?」


「そうだ、ご飯、あの二人まだ何も食べてないっ」


 晴美の問いに、夕方仮眠を取ると部屋に引き下がってから今までほったらかしにしていた桔梗と竜胆の事を思い出した。


 慌てて居間に戻ろうとした所で、台所の方から香ばしい香りが漂って来た。

 その匂いに釣られる形で、大翔と晴美は恐る恐る台所へと近づいた。

 裏口に近い場所に設けた台所からは、楽しげな声と共に醬油や味噌の美味しそうな匂いが漂ってくる。


「ねえ竜胆、味付けこんな感じでいいかな?」


「うん、大丈夫だと思う。こっちももう直ぐ焼けるから」


 台所では、窯に火を起こし、その前で鍋を搔きまわす桔梗と、七輪で魚を焼いている竜胆の姿があった。

 見慣れない二人組の姿に驚く晴美といつの間にか調理を始めた二人の様子に驚く大翔は、互いに顔を見合わせた。


「あ、大翔さん起きたの?」


 台所を覗き見ていた大翔と晴美の存在に気づいた桔梗は、鍋を火から下ろしながら二人に笑いかけた。


「おはよう…えっと二人は何をしているの?」


「お夕飯をと思いまして。あ、貴方が晴美さんですね」


 大翔の隣に立つ晴美にも笑いかけ竜胆は大翔の問いかけに答えた。


「台所を勝手に使ってしまって申し訳ありません。九時頃にはお帰りになると聞いていたので、四人分の夕食を作っていました。もし良ければいかがですか?」


 未だ驚いたままの晴美に竜胆は柔らかに微笑んで軽く腰を折る。

 紳士的で丁寧な竜胆からの誘いに、晴美はきゅんとときめいて頬を染める。うっとりと両手で頬を隠して晴美はふふっと笑みを零した。


「この子達が誰なのか詳しく話も聞きたいし、お腹も空いたし、大翔ご飯にしましょうか」


「そうだね」


 晴美の意見に賛同し大翔は台所に入ると、棚から食器類を取り出した。元は姉と二人暮らしの家だが、この家の元の持ち主は他にいた為、食器の数はそれなりに揃っていた。

 四組ずつ整えられた食器達にご飯やみそ汁、焼き魚などの総菜を盛り付けて大翔は晴美や桔梗、竜胆と共に食事を居間へと運んだ。





 遅めの夕食を取りながら大翔は晴美にこれまでの特夷隊の一件と桔梗と竜胆を紹介した。


「つまり、その聖剣を宿した鞘人の桔梗ちゃんと竜胆君と使い手としての契約を結ぶ前に一緒に生活する事になったって訳ね」


 ご飯を食べながら晴美はこの状況に至った事柄を整理する。


「そうなんだ。だがら、暫く三人でここにてもいいかな?」


 大翔の申し出に晴美はずずっと味噌汁を啜ってから頷く。


「別にここはあんたの家でもあるから、別に私は構わないわよ。店長…真澄さんからも話は聞いてるし。ようは、南天君や鬼灯君達の仲間なんでしょ?」


 卓袱台を挟んで向かい側に座る桔梗と竜胆を見遣り、晴美は改めて訊ねた。


「はい。私達は鬼灯達と同じ部隊の仲間ですから」


「なら、構わないわよ。それに、私達も聖剣に関しては無関係ではないしね」


「ありがとう!晴美さんは優しいね」


 卓袱台から飛びあがるようにして身を乗り出した桔梗を、竜胆は肩を掴んで宥める。と、二人揃って深く頭を下げた。


「不束者ですがよろしくお願いします」


「こちらこそ、手のかかる弟だけどよろしくお願いね」


 大翔の肩を叩き晴美は口元に手を添えて微笑んでから、再び食事に箸を付けた。


「それはそうと、その契約の儀式の時は私も同席させて」


 唐突な申し出に大翔だけでなく桔梗と竜胆も驚いて晴美を凝視する。

 三人の視線を受けて晴美は首を横に振ってから自身の考えを口にした。


「あ、別に何かあるとかじゃないのよ。なんていうか、これでも宮陣家は祭事部の幹部クラスの家だし、こう見えて私も巫女としての教育を受けて来た身だしね。単純にどんな儀式を行うのか見たいのよ。聖剣についても少しは聞き及んでいるし」


 訝しむ桔梗と竜胆に晴美は自分の考えを伝える。そこには、姉として大翔の身を案じる意図もあった。


「…構いません。晴美さんにも契約の際には是非同席をお願いします」


「うん、僕も晴美さんならいてくれてもいいよ。それに、これ以上関係のある人に不信感は抱かせたくないし」


 晴美の申し出を桔梗と竜胆は快く受け入れた。大翔の身内であり、実姉ある晴美に隠し事をするのも変な話だった。

 家に暫く置いてもらう事なども考慮して二人は晴美の同席に応じる事にした。


「それはそうと、まずは南天君の回復が先なんでしょ?明日お見舞いにでも行ってこうようかな」


 南天の事も気にかけている晴美は、桔梗と竜胆が来た時の経緯の中、南天怪我を負った事や現在の様子を知って胸を痛めていた。

 この所真澄と喧嘩をして詰め所を飛び出したとも聞いていたので、晴美は南天の事をとても心配していた。無事に帰ってきたと聞いた時は安堵もしたくらいである。


「でも、南天君が無事に戻ってきてよかった。店長のあの悲壮感たっぷりの顔は当分見たくないなあ」


 時々店に顔を出しては特夷隊の状況を話していく真澄の疲労に満ちた顔を思い出し、晴美は肩を竦めた。その憂いが拭い去られた事は晴美にとっても吉報だった。


「ねえ、二人は南天君の仲間なんでしょ?やっぱり穴に落ちてこっちに来たの?怪夷との戦いにも慣れているんだよね?二人はどんな事が出来るの?」


 食事をある程度終えた所で、今度は晴美が身を乗り出して桔梗と竜胆に根掘り葉掘り質問を始めた。


「あ、えっと…」


「僕は南天達の部隊の隊長だよ。鬼灯は僕の副官で部下」


「あのいつも余裕たっぷりの鬼灯君より偉いとか凄くない?大翔と同い年っぽいのに桔梗君は優秀なんだね」


「そうだよ、これでも一部隊を纏めてるんだから」


「ちょ、姉さんっ」


 唐突に始まった晴美の好奇心と当の質問をされた方の片割れが奇しくも姉と同じテンションな事に大翔は困惑した。それは、どうやら竜胆も同じだったらしく、身を乗り出ししたり胸を張ったりしている桔梗の横で額を押さえていた。


「竜胆さん、一緒に布団敷くの手伝ってくれる?この二人は置いといて」


「そうですね、もう遅いですし。休むための支度をしましょう」


 晴美と桔梗をその場に残し、大翔と竜胆は食べ終わった食器を手分けして持ちながら今からそっと身を引いた。


「ごめんね、うちの姉が」


「いえ、受け入れてもらえただけでも良かったです」


 台所で食器を洗いながら大翔は深い溜息を吐いた。それに竜胆は首を横に振って気にしていないと伝える。


「姉さんはかなりのミーハーだし、好奇心旺盛で時々周りを見ない事があるから、気分を害したらごめんね」


「そんな事はありません。桔梗も落ち着きがないのでご迷惑を掛けないか心配でしたから」


 互いに実の姉と実の妹の事を話題に出して大翔と竜胆は洗い物などの食事の後片付けを手分けして行った。


「あの、どうして同じ食器が四組ずつあるんですか?」


 洗った食器を拭いて戸棚に戻しながら、ふと竜胆は疑問を投げかけた。

 食事を作っていた時から、台所内にある食器は大翔と晴美の姉弟二人だけの暮らしには少々多い気がしていた。

 少し大きめの男性物の茶碗もある事から、他にも人が暮らしている事を示す空気感に竜胆は多少興味が湧いていた。


「ああ、この家、元は僕達の兄の家で、一年前までは姉さんと兄さんが暮らしていたんだけど、仕事の最中に兄さんが行方不明になって、僕がその後釜で入隊する形で東京に来たから」


「その話だと、別に無理に食器を増やす必要もなかったのでは?大翔さんは東京に度々来ていたとかですか?」


 大翔の答えを聞いて竜胆は更に疑問が浮かんだ。それなら、三人分の食器があればいい筈である。それが、どうして四人分の食器があり、その中に男女別の茶碗やお椀が二組あるのか。


「それもあるかな…」


 竜胆の質問に答えながら大翔は不意に目を伏せて食器棚に仕舞われた皿や器を見つめる。


「……許嫁がいたんだ。本当なら、今年式を上げる筈だった」


 台所の換気と明り取りを兼ねた窓の外を見つめ、大翔は遠い目をしながら、ぽつりと呟いた。

 夜空に耀く冬の星座を見上げる大翔の横顔と紡がれた言葉に、竜胆は息を飲んだ。

 寂しげで思いつめた大翔の様子に、余計な事を聞いてしまったかなと竜胆は後悔する。


 だが、当の大翔は話題を変えるように小さく首を横に振り、濡れた手を手拭いで拭った。


「ごめん、布団敷くの手伝ってくれる?干してなくて申し訳ないけど」


「…はい…」


 大翔の寂しげな横顔に魅入っていた竜胆は唐突な振りに一瞬反応が遅れつつも頷くと、大翔の後ろをついて行った。


 桔梗と竜胆の大翔との共同生活は、こうして静かに幕を開けた。





 作戦から数日が経ち、医務室で療養していた南天はようやく熱も下がり起き上がれるようになった。

 その間、真澄は業務の一切を部下達に任せて甲斐甲斐しく南天の看病に勤しんでいた。


「南天、三好先生の許可が出たから今日はおじやを作ってきたぞ」


 特夷隊の詰め所には料理上手の真澄の料理を食べたいがために柏木が無理矢理増築した最新式の台所がある。ホテルの厨房や大統領府の職員食堂内の厨房にも引けを取らないそこで真澄が南天の為に作って来たのは、出汁を効かせた玉子おじやだった。鰹節の香りと共に土鍋の中から湯気が立ち上っている。


 器におじやをよそい、真澄はレンゲに一口分を掬うと、自身の息でフーフーと覚ましてから南天の口元に近づけた。


「…マスターあの…自分で食べられます…」


「そういうなよ。ほら」


 困惑する南天をよそに真澄はずいっとレンゲを南天の口元に近づける。それに戸惑いながらも南天は、大人しく口を開けて真澄の厚意を受け入れた。

 一口、二口とおじやが真澄の手によって南天の口に運ばれる。

 南天は恥ずかしさに押しつぶされそうになりつつも、真澄の厚意を無下にするわけにもいかず、差し出させるがままにおじやを咀嚼した。


「熱くないか?」


「大丈夫です…美味しいです」


 熱が引き、昨日までとは違って味を感じる事が出来るようになって南天は、真澄が作ってくれたおじやをゆっくりと飲み干した。醤油と隠し味で味噌が入ったおじやは、卵のまろやかさと鰹節の風味が碌に食事のとれなかった身に染みていく。


「まるで親鳥と雛鳥ですね」


 静養室で食事の介助をしている真澄とされるがままになっている南天の様子を目撃した三好は、思わず感想を口にした。


「もうそこまで過保護にしなくても南天君は大丈夫ですよ。体力を戻す意味も込めてベッドから出て頂いて問題ありません。既に背中の傷も治りましたからね」


 肩を竦めて真澄と南天の傍に歩み寄り、三好は食後に飲む為の薬を手渡した。


「今日でここでの治療は終わりです。それを食べたらもう退室してもらって結構ですよ」


 思わぬところで三好から告げられた退院許可に真澄は、一瞬戸惑った。


「本当に大丈夫なのか?昨日まで熱あったし」


「問題ありません。そもそも、貴方と契約した途端に、南天君の傷は直ぐに治りました。高熱の理由は恐らく疲労から来たものでしょう。これ以上の床煩いは返ってよくありませんよ。あと、ここのベッドは二つしかないので、さっさと空けてください。怪我人はともかく九頭竜隊長にまで使われていてはいざという時に困ります」


 最後は嫌味を込めた小言を零し三好は笑顔を張り付けたまま真澄に進言した。眼鏡の下の目が笑っていない事に気づいた真澄は、気まずげに頬を強張らせるとぎこちなく頷いた。


「分かった。世話になったな。三好先生」


「貴方達にはこれからやる事があるでしょう。しっかり頑張ってくださいね。契約を結んだ後の身体的な不調などの相談はいつでも遠慮なく」


 ニコリと笑みを張り付けたまま三好は二人の前から白衣を翻して去っていく。

 その白い背中を見つめてから、真澄は深い溜息を零した。


「そういや南天、一つ聞きたい事があるんだが、いいか」


 おじやを食べ終え、薬を飲み終えた南天に真澄は突然改まった口調で話題を振った。

 南天が高熱で寝込んでいる間、聞きたくても聞けなかった内容を真澄はようやく切り出した。


「お前を連れ去ったソルに本当に心当たりはないのか?連れ去られた理由とか、何か言っていなかったか?」


 いずれは来ると思っていた話題に南天は改まった表情で真澄を捉えた。


「分かりません。ソルはボクを自分の対だと言っていましたが、それが何を意味するのか見当もつきません」


「そうか…何かオルデンの手掛かりになればと思ったが…」


 胸の前で腕を組み真澄は難しい顔で考え込む。その様子を見ながら南天もまた、囚われていた間の出来事を思い起こした。


「…ソルは、ボクの事をルーナと呼んでいました。それが何か関係あるんでしょうか?」


「ソルにルーナ。どっちも俺の生まれ故郷のスペイン語で太陽と月を表す単語だな。なるほど、太陽の対だから月か…他にも何か意味があるんだろうか…」


 ソルが南天を別の名前で呼んだ理由は定かではないが、何かしら意味はあるのだろう。


「…マスターあの…ボクには記憶がないと話をしましたよね。憶測ですけど、もしかしたらボクは記憶を失うまでにソルに会っているのかもしれません。仮面で隠れていて顔が分からないから思い出せないだけで…」


「その可能性はあるな。もう少し色々探ってみよう。オルデンに関する事もそこから分かるかも知れないからな」


 真澄の提案に南天は同意した。

 ソルの正体を南天自身知りたいと思っていたから、尚更だった。


「一先ず、執務室に戻るか。もうここにいたら疫病神になりかねないからな」


 真澄の皮肉に南天は小さく笑うと、返事をしてベッドからゆっくりとその身を下ろした。




***************************



三日月:さて次回の『凍京怪夷事変』は…?


刹那:桔梗達から聞かされる鞘人の目的…それは、真澄達の想像を超える驚くべき事実で…


三日月:第六十三話「陰陽アンバランス」次回もよろしくお願いします。




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