第五十三話―隠された月




 詰め所を出て、いつものように特夷隊は巡回へと出発した。


 秋分を越え、十月も二週目となると、日の入りは更に早くなり、夜の帳はより一層濃いモノになっている。


 今宵は新月。

 暗い夜道を優しく照らし、行く者を優しく包み込む月の恩恵の得られぬ晩。

 怪夷討伐において、もっとも警戒をしなくてはならない日。


 今宵の巡回は、海静、桜哉、鈴蘭、朝月、鬼灯の五名に新月だからと同行を申し出た真澄の6人。


「隊長はゆっくり休んでいて下さって良かったのに」


 潜入作戦の件で真澄から臨時の隊長職を命じられた海静は、気遣うように真澄に声を掛けた。


「別に、お前の実力を信頼してない訳じゃないさ。ただ、なんだか今夜は胸騒ぎがする…新月には怪夷の力も強化されるからな。勿論、指揮はお前に任せるよ、海静。俺は、いざという時の加勢要員さ」


 柏木との対話で、元の彼らしい冷静さを取り戻した真澄に海静は肩を竦めた。普段詰め所にいない海静は、話だけは聞いていたが、平静さを取り戻している真澄の言葉に素直に頷いた。


「気を引き締めて行けよ」

「はい」


 代理とは言え、仮にも元副隊長の地位にあっただけはある頼もしい海静の返事が返った直後、彼等の懐や腰に括り付けられた八卦盤がけたたましい警報を鳴らした。


「八卦盤に反応在り!」

「方角は、ここから南下した先か」

「佃島の方じゃないか?」


 小刻みに激しく針を震わせて方角を示す八卦盤を、桜哉、海静、朝月は覗き込んで冷静に発生場所を割り出した。


『こちら特夷隊詰め所。柏木隊長代理、聞こえますか?』


 海静だけが持たされている無線機から、詰め所で通信業務に従事している大翔から通信が入る。


「こちら柏木。怪夷発生の警報あり、正確な位置は?」


 無線機の向こうにいる大翔に海静は情報を求めた。清白が改良して八卦盤の性能はよくなったが、方位盤の方が正確な位置を割り出せるため、海静は出現場所を大翔に確認する。


『沿岸付近、佃島の辺りと推測します。方位盤の示すランクは…旧ランクA。反応は…』


 ずっと調整の為に毎晩通信班に従事していた清白から、調整が終ったという事で特夷隊は一人を必ず通信班として配置する措置を今月に入って取っていた。今夜の通信班の任務を請け負った大翔は、方位盤が示す怪夷のランクとその個体数を伝えようとして、一瞬言い澱む。


「大翔君?」


『発生個体数は三体!気を付けてくださいっ何か、何かおかしい』


 いつもは物静かで冷静な大翔の緊迫した様子に海静は、眉間に眉根を寄せて頷いた。


「全員、気を引き締めろ。これより怪夷討伐の任に入る。場所は、佃島…怪夷ランクは旧Aランク相当。その数は三体」


 隊長然とした海静の号令に、桜哉達は敬礼で応え、海静に続いて駆け出した。


(通信班の大翔が取り乱すような怪夷…もしかしたら、死闘になるかもしれないな)


 隊の最後尾に付いて走りながら真澄は海静と大翔のやり取りを反芻した。

 新月の日は何が起こるか分からない。

 腰に差した軍刀を握り締め、真澄は若者達の背中を追って目的地へと急行した。




 静かな潮騒の聞こえるかつて遠浅と干潟の広がった江戸湾の沿岸、漁業の街として栄えた佃島は、眠りの中に落ちていた。

 だが、安寧を脅かすように、三台の軍用トラックが整備されたばかりの道路を駆け抜けていく。


 小舟を浮かべ、海に出る為の水路の近くで、トラックは重低音を響かせながら停車した。


 数人の憲兵隊がトラックより下り、荷台の上に被せていた布と縄を外す。

 荷台に積まれた鉄製の箱の中からは、獣の如き呻き声が響いてくる。

 苦しげに、哀しげに鳴きながら、鉄の箱の中のモノはがりがりと内側を爪で引っ掻いた。

 ここから出してくれと訴えるように。


 トラックとは別の、海外製の高級車から降りて来たのは、異国の僧服を纏う牧師と、二人の若者と、この部隊の指揮を任されている陸軍の士官。


「それでは、始めてください。我々はあの建物から高みの見物と行きましょうか」


 トラックから降りたヘルメスは、士官に荷解きの号令を出した後、同行させてきた二人の若者、ソルとガイアに目配せをした。


 ヘルメスの促しに、ソルとガイアは頷き、互いに視線を交わすと、ヘルメスの脇を両側から抱えた。

 呼吸を合わせ、ヘルメスを抱えた二人はほぼ同時に飛び上がる。と、灯台の役割も持っている鐘楼塔へと飛び移った。


 ヘルメス達の退避を確認した士官は、部下達に右手を振り下ろして合図をする。

 すると、鉄の箱に貼られた呪符が一斉に剝がされた。


 直後、鉄の箱が内側から激しい音と共に打ち破られ、中から咆哮を迸らせて三体の黒い影が飛び出す。


 外界に解き放たれたソレは、黒い体躯を振り回し、禍々しく光る赤い瞳をぎらつかせ、周囲を緩慢に見渡した。


 ソレを運ぶ為に駆り出された憲兵達が、目の前の黒い影のあまりの禍々しさに後退る。ある者は腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。

 無理もない。彼等はこの異形が故郷の国から消滅した後に生まれた世代。

 目の前で蠢くソレを実際に見た者はいなかった。


「全員、撤退だ!急げっ」


 唯一、この部隊を指揮していた士官は、不運か幸運かかつての欧羅巴戦線に従事していた経験があり、目の前の異形に遭遇していた。

 だが、これ程目の前で、それもなんの用意もなく対峙したのは不運にも初めてだった。


 己も恐怖に抗いながら、若い部下達を退避させるべく、懸命に叫ぶ。それが、仇となったか、士官の目の前に、一体の黒い影が歩み寄った。

 黒く太い腕が伸ばされ、一瞬のうちに鋭い爪が士官の腹を抉る。

 鮮血と内臓が飛び散り、士官は苦悶と驚愕の表情を浮かべたまま、黒い影の腕に救い上げられた。

 僅かに意識が残っていたかもしれない士官の頭に黒い影は、救いを求めるように噛み付くと、鋭い牙で骨を砕き、肉を貪った。


 一体の怪夷がヒトを捕食した直後、残りの怪夷達も足元で狼狽えている憲兵達に腕を伸ばした。

 上官が食われた瞬間を目にした憲兵達は、驚愕に身を固めていた呪縛から放たれ、脇目も振らず、悲鳴を上げてその場から駈け出した。

 だが、時は既に遅く、その行く手を、彼等より二倍も体格のある異形が遮り、抵抗も虚しく、憲兵達は鋭い爪と牙の餌食となった。


「ふふふ、解き放たれた途端、エネルギーを得るために人間を捕食するとは、本能というべきでしょうか」


 鐘楼塔の上で、解き放たれた三体の怪夷を見守っていたヘルメスは、恍惚に頬を染めてほくそ笑んだ。


「彼等にとって、仲間を増やす事と食事は同じ事。いずれ今取り込んだ憲兵達が新たな怪夷となる。性能は申し分ないでしょう。後は、我々の手で制御をして、軍隊として造り上げましょう。もう少し泳がせたら、ソル、彼等の後始末をお願いします。流石に回収は無理ですからね」


 暗闇の中、獲物を貪る怪夷を見下ろしヘルメスはソルとガイアに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 名を呼ばれたソルは感情の分からない仮面の下で、頷いた。


 月のない夜の闇の中、新たな獲物を探して動き出した怪夷達を見下ろしていたガイアは、不意に北の方角から走ってくる数人の人影を見つけてヘルメスに声を掛けた。


「ヘルメス様、来たようです」


「おや、間に合いましたか。ふふ、ではここで少々彼等の実力も見学していきましょうか」


 ヘルメスの指示に、ガイアは深く頷くと、自身が見つけた人影達を遠目から追った。




 暗闇の中から、咆哮と地響きは聞こえてくる。

 佃島の水路を抜け、八卦盤が指し示す目的地に辿り着いた真澄達特夷隊は、目の前の光景に息を飲んだ。


「怪夷が三体…」


「アイツ、前に吉原に出た猿と同じじゃねえか!」


 暗闇の中、ギラギラと光る六つの赤い目が、駆けつけた特夷隊を睨みつける。

 真澄達の目の前にいるのは、夏に遭遇した怪夷とほぼ同じ姿をした獣の個体だった。


「…まずいですわね、コイツら、既に人を捕食していますわ…」


 怪夷の口許や足元には、暗闇の中より黒い液体が飛び散っている。それを見た途端、鈴蘭は瞬時にそれが人の成れの果てだと理解した。


「人の味を覚えた怪夷は、更に多くの血肉を求めますわ。ましてや、擬態能力を獲得している旧ランクAなど、直ぐに討伐しませんと」


 背中に担いだ自身の身の丈程もある大剣を引き抜き、鈴蘭は冷やかに眼前の荒ぶる敵を見据えた。


「人の味を覚えた怪夷は、仲間と力を求める。…そうだよね、鈴蘭さん」


「ええ。怪夷に喰われたり噛まれたりしたものは怪夷になるか、助かっても呪いを受けます。桜哉ちゃん、いつものアレを飲んでおいてくださいね」


「分かった」


 鈴蘭に促され桜哉は制服の内ポケットに入れていた小瓶を取り出し、中身を飲み干した。

 相方の様子を眺めた後、鈴蘭は桜哉の手を取り、手の甲に唇を落した。


「さて、鬼退治と参りましょう」


 一連の儀式のようなやり取りを終えた鈴蘭は、大剣を構えて口端を釣り上げた。

 それに倣うように隣に並んだ桜哉も軍刀を引き抜く。二人の身体を冴え冴えとした清い気配が包み込んでいく。


「主様、貴方も」

「分かった」


 鈴蘭達のやり取りを見守っていた鬼灯もまた、袖の中から二つの小瓶を取り出して、一つを朝月へ手渡した。

 鬼灯から受け取った小瓶の中身を、朝月は鬼灯と同時に飲み干す。

 小瓶の中身が体内に取り込まれた瞬間、全身の血管を伝って朝月と鬼灯を強い流れが駆け巡っていく。

 漲る力を内側に感じながら朝月は鉄扇を引き抜き、パラりと扇を広げた。


「東雲少尉は結界を。六条少尉と鈴蘭さんは前方の一体を、九頭竜少佐は右を、私は左の怪夷を攻めます」


「了解した。鬼灯、俺を手伝ってくれ」


「承知しました」


 班の隊長である海静の指示を受け、それぞれが得物を抜き放ち、それぞれの敵へと標準を定める。


「絶対に奴等をこの場から逃がすな!」


 海静の腹の底から吐き出された号令に、全員が地面を蹴って駈け出した。

 離れた場所で扇を手にした朝月の詠唱が始まり、怪夷と真澄達を覆うように結界が形成されていく。


 薄い膜上の結界が包み込んだ瞬間、怪夷の動きが僅かに鈍くなる。

 その隙をついて真澄達はそれぞれの標的に斬り掛かった。




 月のない空の下、怪夷が放たれた瞬間を南天は少し離れた場所から素早く感じ取っていた。


(こんな新月の晩に…)


 上着のポケットに仕舞っていた八卦盤が警告音と共に赤い光を放っている。

 それを確認せずとも、怪夷が何処に出現したかを南天は本能で嗅ぎ取っていた。


(おかしい…さっきまで怪夷の小さな気配もしなかったのに…突然現れた?)


 現場への道を駆け抜けながら南天は疑問を浮かべていた。

 本来、怪夷の出現には僅かに歪みのような、気配のようなものが生じる筈である。

 それは、暗闇の中から奴等が這い出してくるような、一種の予兆的なもの。

 だが、今回はそれが一切なかった。気配と八卦盤の警鐘の鳴らし方から、恐らく出現したのは旧ランクB以上の大物である。

 本来、それらの出現の前には小さな怪夷が発生するのだが。


(まるで…この間助けた囚人の時みたいだ…)


 突然の上位ランクの出現。先日の市ヶ谷で保護したが目の前で怪夷と化した囚人の事を思い出し、南天は眉を顰めた。

 次第に目的地へ近づいていく中、南天は不意にこめかみに走った痛みに、立ち止まった。


「はあ、はあ…な、に…?」


 電気が神経を駆け抜けたような、鈍い痛みにくらりと眩暈を覚える。

 止まってしまった足を再び踏み出そうとして、また、鈍い痛みが後頭部から走り抜けていく。

 突然の不調に訳が分からず南天は地団太を踏んだ。

 夏の終わりから、時々襲ってきたこの頭の痛みは、南天にとって誰にも話せていない悩みだった。


(こんな所で…立ち止まっていられないのに…)


 理由の分からない痛みに歯を食いしばり、額に滲んだ脂汗を拭い、深呼吸をして痛みを抑え込みながら、南天はポケットの中から一本の小瓶を取り出した。

 それは、三好に頼み込んで用意してもらったもの。中には凝固阻止の処理を施した真澄の血が入っている。


『いいですか、一回の戦闘に付き、これの服用は一瓶まで。必ず護ってください』


 小瓶を受け取る時に三好から言われた忠告が脳裏を過る。

 本当なら、これを使わずに怪夷を討伐したい所だが、今はそんな事を言っている余裕はなかった。


「マスター…ボクに力を…」


 祈るように小瓶を握り締めて呟いた後、南天はコルク栓を引き抜いて、中身を一気に煽った。

 口許を拭い、自らを全身から湧きだした力と共に鼓舞して南天は目的地に向かって一気に駆け抜けた。




 剣戟の音が、暗闇の中に閃光とともに響いている。

 南天が目的地に駆けつけると、先に到着していた真澄達特夷隊が既に三体の怪夷と対峙していた。


『海静、俺に波長を合わせろ。力を貸してやる』


 自身の内にいる紅紫檀の声に応じて海静は、自身の中に渦巻く霊力の波長を内側からくる紅紫檀の波長に合わせる。

 すると、それは海静の全身を巡り、彼が握る太刀へ流れ込んだ。


『しょせん俺には疑似的な事しか出来ないが、一刻くらいは役に立つ』


「十分だ」


 淡く銀色の光を帯びた太刀を振り翳し、海静は強く地面を蹴って飛躍すると、猿型の一体の怪夷の背中に飛び上がった。

 己の背に乗った海静を振り下ろそうと猿型の怪夷が藻掻く。だが、海静はその背中と首の間、脊髄に沿って、太刀を深々と突き刺した後、懐から短刀を引き抜いた。

 怪夷脊髄に突き刺した柄を蹴って海静は怪夷の頭部に駆け上がると、額目掛けて新たに懐から取り出した短刀を振り下ろした。


 ギャイアアアアアアアアアアアアアアアア


 耳をつんざく怪夷の咆哮が迸る。海静が突き刺した短刀は、額の奥にある核を砕き、一体の怪夷が灰と僅かな残骸となって倒れた。


「一体討伐完了」


 地面に着地し、自ら倒した怪夷の残骸を見下ろした海静は、真澄と援護に回っている鬼灯のペアと桜哉と鈴蘭のペアに視線を向け、更に一人で結界を張っている朝月に目を向けた。

 自分が取るべき行動を定め、海静は真澄の下に走る。


「鬼灯君、東雲少尉の護衛を頼む。ここは私が変わる」


「おや、それでは、選手交代で。九頭竜隊長、行きますよ」


 自身の業物である鞭で怪夷の足を抑え込んでいた鬼灯は、怪夷の周りを跳ぶ真澄に声を張りあげた。


「柏木大尉、わたくしが強く鞭を引きますので、そしたら飛び出してください。貴方が飛び出した瞬間に、わたくしは鞭を放します」


「了解した」


 互いに視線を交わし、鬼灯は一気に鞭を強く引っ張った。

 脚に巻き付いた鞭の方向に怪夷の身体が僅かに傾く。

 その瞬間、海静は真澄に加勢するべく駆け出し、海静の動きに合わせて鬼灯は、怪夷の縛を自ら解き放った。


 強く引かれた後にいきなり縛が解けた事により、その反動で怪夷の身体が引っ張られたいた方向とは反対の方向へ大きくよろめく。

 思わぬ好機を逃すまいと、真澄は倒れかった怪夷の倒れる側の足を深々と斬りつけた。

 黒い液体が地面に飛び散り、痛みの咆哮を上げて怪夷が地面へと横向きに倒れる。


「隊長!」


 駆けつけた海静が地面に縫い付けるように倒れた怪夷の腹部に太刀を突き刺すと、合図の如く真澄に向かって声を張りあげた。

 海静の声に後押しされ、真澄は怪夷の顔面へ回ると、自身の頭の高さにまで落ちて来た怪夷の額に、軍刀を突き刺した。

 核が砕かれ、二体目の怪夷が灰へと変わっていく。


 残すは後一体。

 桜哉と鈴蘭が対峙する怪夷を真澄と海静は振り返る。

 彼女達が対峙しているのは、他の二体より少し体躯の大きいものだった。


「柏木班長、加勢するぞ」


「はい、いきま…っ」


 二人に加勢する為、三度得物を構えた海静は、残る一体の怪夷が地面から何かを搔っ攫ったのを見て息を飲んだ。


「六条さん!鈴蘭さんっ気を付けてっ」


 突如響き渡った班長の悲鳴に、桜哉と鈴蘭はもとより真澄も息を飲んだ。

 仲間を殺され一体となった怪夷が地面から拾ったのは、最初に海静が倒した怪夷の残骸だった。


「しまったっ桜哉ちゃんっ!離れて!」


 怪夷の攻撃を回避して離れていた鈴蘭は、怪夷が仲間の残骸を口に入れた瞬間を目撃して咄嗟に叫んだ。

 怪夷後ろ側、近距離にいた桜哉は、鈴蘭の思いもよらない緊迫した声に驚愕して鈴蘭の方を振り返った。


「え…」


 驚きに立ち止まっている桜哉の後ろで、背中を向けていた筈の怪夷の毛が逆立ち、ゆらりと揺れた尻尾が桜哉の華奢な身体を吹き飛ばした。


「桜哉ちゃんっ」

「六条さんっ」

「桜哉!」


 その場の全員の声が桜哉の名を叫ぶ。

 咄嗟に駆けつけようとするが、仲間を食って強化された怪夷のスピードには追い付けない。

 地面に打ち付けられ、衝撃にその身を固くした桜哉は、それでも必死に仲間の呼び声に従うように身体を起こす。だが、荒れ狂う波の如き怪夷は止まらずに桜哉に迫っていた。


 軍刀を握り、必死の思いで桜哉は怪夷と向かい合う。

 地面を揺るがして迫ってくる怪夷に一太刀浴びせて果てようと覚悟をした桜哉の眼前に、禍々しい赤い目が迫る。


 唇を噛み締め、軍刀を向けようとした刹那、桜哉の身体を強い力が引き寄せた。

 視界が反転すると同時に、銀灰色が目の前を覆う。


 強い力に抱き締められているのを自覚した時、肉を抉る鈍い音が耳の傍で響いた。

 ぴちゃりと、生暖かい液体が頬に掛かる。

 それが、誰かの血だと分かるまでに時間は掛からなかった。


「く…桜哉さん…大丈夫…?」


 頭上から聞こえてきた聞き慣れた声に桜哉は驚く程緩慢に首を持ちあげた。

 直後、瞳孔を収縮させる程に目を見開き、震える口許を押さえた。


 目の前にいたのは、女性と見まがうばかりに中性的な美貌を歪ませ、額に脂汗を滲ませた仲間の姿。

 嵐の晩、逃げ出すように駈け出して行方知れずになっていたその人物が目の前にいる事に桜哉よりも驚いたのは、真澄だった。


「南天!」


 桜哉を救うべく駆け出していた真澄達より早く、怪夷と桜哉の間に滑り込むようにして現れた銀灰色の影は、間違える筈もなく、南天その人だった。


 真澄の叫ぶ声を聞きながら、南天は桜哉をしっかりと抱き締めたまま逆手に握った軍用ナイフで自身の背中に食い込んだ怪夷の手を、手首から切り落とした。


 手首を切り落とされた痛みに怯んだ怪夷が、僅かに南天と桜哉から離れる。

 その隙を見て、南天は桜哉へその場から退避するように彼女を強く押し出した。


「行ってっ早く!」


 得物であるナイフを構えたまま、南天は彼にしては珍しく叫んだ。

 死の恐怖から解放され、僅かに放心状態であった桜哉は、南天の稀有な叫び声に金縛りを解かれて頷いた。

 南天の促しに桜哉は言われるままにその場から後退る。


 自分を庇った南天の白い背中には、爪で抉られた痕が深く刻まれ、裂けた皮膚からは血が滴り落ちていた。

 死の淵に立っていた恐怖で本能のままにその場から逃げようとしていた桜哉だが、南天の背中の傷を見た直後、本来の自分を取り戻した。


「逃げるなんて出来る訳ないでしょうっ」


 己を奮い立たせるように再び軍刀を握り締めた桜哉は、南天に加勢する為、地面を蹴る。

 だが、その目前にひらりと黒い影が降り立った。


「…っ!」


 南天に加勢するべく、真澄を含めその場の誰が地面を蹴った直後、上空から舞い降りた黒い人影に目を奪われた。




 鐘楼塔で怪夷と特夷隊の討伐劇を見守っていたヘルメス達は、二体の怪夷が倒された所で不敵な笑みを浮かべていた。


「やはり強いですね。あちらは、どうやら例の力を手に入れた様子。行方知れずになっていたのに、どうやって探し出したのか…まあ、お陰で張り合いが出来て良かった。ガイア残りもいずれ駆逐される様ですから、そろそろ我々も撤退しましょう。車を回してください」


「承知しました。ソル、ヘルメス様をお願いしますよ」


「ああ、承知した…」


 ガイアの要請に頷いた直後、ソルは仮面越しに覗く瞳を大きく見開いた。

 何かに弾かれたように鐘楼塔の眼下に視線を向ける。

 その下では、仲間の残骸を捕食して強化した最後の一体が、特夷隊の少女に襲い掛かる瞬間だった。


「あれは…」


 仮面の下からも分かる驚きに、ヘルメスとガイアも同時に眼下へ視線を戻した。

 怪夷と特夷隊の少女の間に割って入るように滑り込んだ銀灰色の影。地上から離れた場所でも小柄だと分かる背中を怪夷の鋭い爪が抉る瞬間を彼等は目撃する。


「新手のようですね」


 ガイアが呟いた横で、身を乗り出すように眼下を凝視していたソルは、声を震わせて唇を動かした。


「…見つけた…」


「ソル!?待ちなさい!」


 呟きと同時にソルは、何の迷いもなく鐘楼塔の上から飛び降りると、ガイアの制止も聞かずに怪夷と対峙する銀灰色の影の下に降り立った。



 南天の目の前に、黒い外套を翻した影が降り立つ。

 影は、いつの間にか手にしていた漆黒の刀身を持つ太刀を引き抜き、南天の目の前にせまっていた怪夷を横薙ぎに一閃した。


 真澄達の目の前で、新たに現れた黒い外套に仮面を被った人物の手によって、怪夷が霧散していく。

 雪のように降り注ぐ塵を浴びながら、仮面の人物は南天を見下ろして呟いた。


「やっと見つけた。我がつい…」


 優しく、歓喜に震える声音を聞いた直後、南天の身体は仮面の人物に抱き寄せられ、そのまま抵抗する間も無く抱え上げられた。


「南天!」


 真澄が叫ぶ目の前で、理由も分からずに南天は突如現れた仮面の人物によってその場から連れ去られていく。

 追いかけようにも、相手の足の方が速く真澄達は早々に仮面の人物と南天を見失った。


「くそっ、一体なんだんだ」


 ようやく南天を見つけたにも関わらず、見ず知らずの人物に攫われ真澄は、拳を握り締めた歯噛みした。


 悔しがる特夷隊の傍で、唯一鬼灯だけ、別な視点から南天を連れ去った人物を捉えていた。

 外套から覗いた腕に付けられていた腕章。そこに刻まれた紋章を思い出し、鬼灯は愕然として、思わず呟いた。


「…過去が…変化している…」


 月のない夜。潮騒の音を聞きながら特夷隊の面々の胸には疑問と驚愕が去来していた。




******************


弦月:さあて、次回の『凍京怪夷事変』は…!


朔月:謎の人物の連れ去られた南天。真澄達はその居場所を探そうとする中、囚人失踪事件の真相を掴む為、潜入作戦を実行を模索し…


弦月:第五十四話「月と太陽の邂逅」次回も乞うご期待!






~お報せ~

『凍京怪夷事変』2022年の本編更新は本日までとなります。

2023年の本編再開は1月7日土曜日です。

次回は年末番外編をお送り致します。




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