第四十八話ー嵐の酒宴
三好による脱走してきたと思しき囚人の解析結果は、警視庁からの要請で囚人失踪事件の調査に当たっている隼人と拓、陸軍の動きを探っている朝月と鬼灯にももたらされた。
脱走した囚人が生きたまま怪夷化しかけ、それを南天が討伐した翌日。
隼人は三好から受け取った最新情報を手に拓と朝月、鬼灯と共に喫茶アンダルシアを訪れていた。
二つある四人掛けのボックス席。そのうちの奥にある席で隼人と拓達特夷隊の面々はある人物達と待ち合わせていた。
1人は警視庁の捜査官で、隼人と拓の後輩であり、今回の件を持ち込んだ張本人である市村。
そして、もう一人は。
「紹介するよ。俺の同期で陸軍の中野学校出身の士官、純浦だ」
朝月に紹介され、二十代半ばの青年将校は軍人とは思えない紳士的な仕草で会釈をした。
「赤羽だ。今回は無理を言って悪かったな」
席を立ち、隼人は初対面である青年将校に握手を求めた。それに純浦も応じて握手を交わすと、ソファ席へ腰を下ろす。
「赤羽さんと月代さんについては東雲君からいつも伺っています。そちらの警視庁の方は…」
「市村と申します。まさか陸軍の諜報部の方と知り合えるとは思いませんでした」
向かいのソファ席に座る市村に純浦は隼人にしたように握手を求めた。互いに友好を確認し合い、司法部、軍部、大統領府と各省庁から集まった面々は、互いが持ち寄った資料をテーブルの上に広げた。
珈琲の豊潤な香りの漂う中、それぞれが持ち寄った資料に目を通す。
暫く誰もが無言であったが、やがて誰からともなくポツリ、ポツリと会話を始めた。
「生きた人間の怪夷化…ここに明記された内容が本当なら、死亡扱いにされている囚人達は全員その怪夷化実験の被検体にされているということですよね…」
三好の解剖結果、解析結果の記された資料に食い入るように見入った市村は、複雑な表情で唸り声を上げた。
それは、この場に初めて参加した純浦も同じであった。
市村も純浦も親世代が45年前の逢坂時代から欧羅巴戦線の時代に至るまで怪夷討伐に関わっている。親から伝え聞いている怪夷の成り立ちを思い出し、互いに顔を見合わせた。
「俺もその線で間違いないと思う…」
珈琲の注がれたカップに口を付けながら隼人は深く頷いた。
三好からこの資料を受け取り、拓、朝月と共に目を通した途端、三人ともあり得ないと声を上げたほどだ。この事実がなければ、今回の集まりはもう少し後になっていただろう。
それ程、怪夷と深く関わっている者にとって、今回の解析結果は信じがたい物だったのだ。
「陸軍が囚人を怪夷に変えている…そんな実験が行われている理由は恐らくひとつでしょう…」
「兵士を怪夷化させて、強化兵として戦争に使う…ってところか」
純浦の意見に続く形で朝月は自身の意見として、囚人の怪夷化実験の見解を口にした。
その際、ちらりと朝月の視線はボックス席の後ろにある二人掛けのテーブル席に腰掛けた鬼灯を見遣った。にこりと笑う鬼灯に内心安堵する。
朝月は先日、海静に取り憑いている紅紫檀から陸軍の企みについて少しだが情報を得ていた点で、自分の考えとは口が裂けてもこの場で公言出来なかった。
鬼灯も今回の囚人が怪夷化している事での確証を得る前からあらかた真相を知っていた事は朝月と紅紫檀、三好以外に話してはいなかった。
純粋に事件のあらましを知らず、自らの足と耳で情報を得て真相に辿り着こうとしている隼人や拓、市村達を導く事が自分の役目だと鬼灯は考えていた。
「陸軍が中国大陸への進出を目論んでいるのは、以前から噂になっていました。中国の内政も今はあまり安定していません。そこを付いて大陸に乗り込み、強化兵の実験場を拵えるという可能性もありますね」
「まあ、それに関してはまだそんなにスケールの大きな話ではないと思いますよ。ただ、ヒトが怪夷化するというのはいよいよきな臭くなってきましたね」
警視庁側から渡された資料にも目を通し、純浦は眉根を顰める。
「純浦、そろそろ俺は陸軍施設への潜入捜査を決行するべきだと思う。流石に外部から集められる証拠や情報はそろそろ限られてきている気がすんだけど」
資料を手に難しい顔をしている同期に朝月は、兼ねてから計画に上がっていた潜入捜査の件を切り出した。
「隼人さんや市村さんの協力もあれば、行けそうな気がするんだけど」
「東雲君、僕もそれは必要だと思っていました。しかし、実験の被検体と思われる囚人が脱走したばかりで、陸軍の動向が読めない今、市ヶ谷当たりの施設に潜入するのは少々危険だと思います。なにせ、黒幕の本丸に突っ込む事になりますから」
緩慢に首を振り純浦は朝月の意見を受け入れつつも、現状と内情を考慮して発言した。
「確かに、もし今回討伐した怪夷化しかけた囚人が脱走を企てていたのだとしたら、今頃陸軍内では捜索がされているかもしれない。真澄さん達がたまたま運よく捜索が行われる前に彼を市ヶ谷の陸軍の縄張りから連れ出せていたとしても、人体実験の被検体が行方知れずになっている時点で、捜索はされていると思う」
珈琲を一口飲み干し、拓はいつもの穏やかな彼からは想像もできない険しい顔で予測を口にした。
確かに、昨夜逃げて来た囚人を保護した際はまだ、彼の脱走が気づかれる前だったのか、捜索隊と思われる兵士や士官の姿は見かけなかった。だが、一夜明けた今ならその部隊が動いている可能性は充分にある。
「じゃあ、どうやって連中が実験を行っている裏を取るんだ?このままじゃ更に実験進んじまうぞ」
兼ねてよりの計画が一端頓挫した事に朝月は憮然と不満を口にした。諜報行動を始めて間もない朝月には、まだまだ我慢や忍耐が足りないようだ。
「その懸念は最もだね…さて、どうすればいいか…」
「せめて、将校のうち誰が今回の実験の主導をしているのかが分かればいいんだが…」
胸の前で腕を組み隼人は溜息を吐いて呻いた。このままでは暗礁に乗り上げてしまいそうだ。
男六人が顔を突き合わせている所へ、珈琲のお代りを注ぎにウエイトレス姿の晴美がやって来る。
「随分難しい顔してますね。根詰めてるといい仕事できませんよ」
「俺達も色々あるんだよ…密談場所に隊長の店使わせてもらっといてなんだけどさ」
空になったカップを差し出しながら隼人は肩を竦めて晴美を振り仰ぐ。
「ホント、珈琲だけで何時間居座るつもりなんですかねえ。それなら珈琲よりお酒でも飲みながらの方が、良案が浮かびそうな気がしますけどね」
皮肉交じりの晴美に、六人は苦笑を滲ませて視線を交わした。
真澄の経営する店で客の少ない時間を狙ってきているとは言え、やはり長居するのは多少申し訳ない。かといって、この人数が気兼ねなく意見を交わせる場所も他にないわけで。
「…晴美ちゃんに悪いし、何か軽食とか頼もうか?」
「でしたら、わたくしは甘い物がいいですね」
「あ、だったら俺もケーキ食べたいです」
「わあ、ありがとうございます」
晴美の圧力にいたたまれなくなった男達は、テーブルに備え付けられたメニュー表から各々軽食やデザートを注文する。
それをにこにこと伝票に書き付けた晴美は、キッチンで待機している海静の元へと持って行くため、小躍りしながらその場を去って行った。
晴美の後ろ姿を見送った後で、ふと隼人は彼女が口にした台詞からある事を思い出して話を始めた。
「酒でも飲みながらか…なら、吉原とか神楽坂とかの料亭の方が良かったか?そういや…夏頃に銀から受けた依頼も怪夷絡みの案件だったよな」
「そう言えば。あの時は吉原で怪夷が暴れていたんだっけ」
先の夏。丁度七海の夢遊病が始まり、まだその時は海静と分からなかったが黒銀の狼が自分達の前に姿を見せ始めた頃。
吉原で遊女や客などを惨殺し、内臓を食い荒らしていた猿型の怪夷も三好の解析結果から、生者の成分が出ていたという報告を、拓は瞬時に思い出した。
「ちょっと待て、ならあの猿型の怪夷はもしかして…」
「今回の事件に関係があったんじゃないかな…」
「陸軍の動向を調べるようになったのもあの辺りからだし…もしかして」
それまで頭の片隅に追いやっていた出来事を隼人と拓、朝月は思い返す。
もし、今回の一件が全て繋がっていたとしたら。そう考えると何故か様々な事が腑に落ちて来た。
「…あの時、九頭竜隊長が遭遇した陸軍将校と件の怪夷を目撃し捜査に協力してくれた芸者が聞いたという会話の主は同一人物達の物…」
「その将校が今回の件の首謀者って可能性は大いにあるな」
「東雲君と僕が探っている将校は宗像中佐と鮫島少佐、それからその上にいる武内中将…彼等はドイツ帝国と内々に通じている節があります」
朝月からの協力で動向を探っている将校に繋がった所で純浦は隼人達に情報をもたらした。
「もし彼等が首謀者なら、何かしら外部との繋がりを持つはずです。怪夷化歩兵を創り出すにしても、怪夷の制御には術式を扱える者が必要な筈、そうなると祭事部と繋がりを持つのが手っ取り早いかと思います」
祭事部と純浦が口にした途端、拓はある事を思い出して、思わず自身の腕を強く掴んだ。
相方の表情の変化に隼人は眉を顰めた後、アッと自分の中にも浮かんだ人物に眉根を寄せた。
「祭事部…なるほど、だからアイツか…」
「赤羽先輩、もしかしてアイツの事言ってます?」
「ああ、五年前の連続婦女誘拐惨殺事件…その首謀者で今回の囚人失踪事件の名簿にもその名前が記されていた祭事部に関わる奴を、俺は一人しか知らない」
濁しぎみに会話を交わす警視庁組に、陸軍関係者である朝月と純浦は首を傾げた。
「隼人兄さん、誰か心当たりがあるすか?」
「俺と拓が特夷隊に来るきっかけになった事件の主犯が、もしかしたら関わっているかもしれない。アイツが関わっている可能性があったから俺達は今回の囚人失踪事件の捜査に協力したんだ」
「うん、まさか、こんな形で繋がっていたとはね…でも、言われてみれば彼は術式に深く精通していたし、取り調べの段階であの事件は頼まれたからやったとも供述していた…」
隼人と拓の深刻な面持ちに朝月は純浦と顔を見合わせると、二言、三言言葉を交わした。
「純浦、鮫島少佐と宗像中佐辺りが出入りしてそうな料亭とか探れないか?」
「幾つか候補はある。直近だと神楽坂で会食を予定していた筈だが…」
三つ揃えのスーツの内ポケットから取り出した手帳を広げ、純浦はあらゆる情報の中から情報を精査する。
書きなぐられ、一件意味のない単語の羅列の中から純浦は必要な情報を探り当てた。
「明日の夜に神楽坂の料亭で鮫島少佐がドイツから来た牧師と祭事部の重役の数名と共に会食を行うみたいです。そこに潜入してみてはどうでしょうか?」
純浦から聞かされた会食の面子に隼人と拓、市村は首を傾げた。陸軍の将校がドイツから来た牧師と祭事部の重役と会食をするとは、なんとも奇妙な取り合わせである。
だが、その取り合わせだからこそ、異様なきな臭さが抜けなかった。
「神楽坂のなんて料亭だ?上手く行けば俺達の席を用意してもらえる伝手があるぞ」
意気揚々と名乗りを上げた朝月に、その場の誰もが困惑した。潜入捜査を一端反故にされたことを挽回したいという魂胆が見え見えだったが、朝月のこの自信が何処から来るのか、隼人達は不思議だった。
「しらぎくという料亭だ。東雲君、一体どんな伝手が…」
「まあまあ、ここは俺に任せてくださいよ。花街や花柳界には少し顔が利くんで」
「朝月君…いつの間に女遊びを覚えたの?お兄さんちょっと心配…」
「朝月、お前仕事の合間になにやってんだ…」
心底心配している拓と呆れる隼人に、朝月はにっこりと笑みを浮かべて胸を張った。
「大丈夫、俺は一途なんで」
意味不明な自信を披露した朝月は、鬼灯の方を向いてウィンクした。
自信たっぷりな朝月に鬼灯はやれやれと肩を竦める。だが、何処か嬉しそうに鬼灯は口元を着物の袖で隠しながらほくそ笑んだ。
「取り合えず、段取り付けるんで明日の昼まで時間ください。大丈夫、上手くやりますって」
「たく、どんな自信か知らねえが、へますんなよ」
隼人からの忠告に朝月は素直に頷き、丁度海静は運んで来たサンドイッチを手に取って頬張った。
「お任せあれ」
サンドイッチをもぐもぐと咀嚼しながら朝月はニヤリと笑った。
その後、隼人達は新たに注文した軽食やデザートを食べて段取りを決めた後、喫茶アンダルシアでの会談は幕を下ろした。
翌日の夕方。朝月達は昨日と同様、料亭への潜入作戦を決行する為、市村と純浦との待ち合わせとして喫茶アンダルシアへやってきていた。
外は、今年最後の台風が近づいているのか、夕暮れに浮かぶ雲の流れは早く、風が騒がしく木々を揺らしている。極めつけは、あたかも波乱が待ち受けている事を揶揄するかのように、西の空は黒く染まり、夕焼けを不気味に飲み込んでいた。
「いらっしゃいませ。東雲さん、お待ち合わせの方、もう来てますよ」
アンダルシアの店内に入って来た朝月に、学校帰りのアルバイトである七海が奥の席を示した。
「ありがとう、七海ちゃん」
「待ち合わせ?市村と純浦君とはまだ三十分くらいあるぞ」
後ろから入って来た隼人を朝月は照れ臭そうに振り返る。と、口元に人差し指を当てて意味深な仕草をした。
「なんだよ…気色悪いな…」
「まあ、まあ」
眉根を寄せて僅かに後ろに引いた隼人を促して、朝月は七海に案内されるまま、奥の席へ歩み寄った。
「お待たせしてすみません」
背筋を伸ばし、いつになく紳士的な朝月の様子に訝しんでいると、奥の席で座っていた女性が、ゆっくりとこちらを向いた。
おしろいを施し、赤い紅を引いて、目元にも同じく赤い化粧を施したその人は、まだ少しあどけなさを残している。結い上げた髪には鼈甲の簪を差し、黒地に錦に染まる川が表現された控えめだが華やかな着物を身に纏っている。
「いえ、私もさっきこちらについたばかりですから」
朗らかに微笑み、女性はゆっくりと腰を上げて朝月と隼人、鬼灯に会釈をした。
「朝月…この子って」
「はい、この間の吉原での一件で色々証言してくれた明里さんです。実は、あれから妙に気が合いまして、お付き合いさせてもらってるんですよ」
後頭部を掻きながら照れ臭そうにしている朝月に、隼人はポカンとだらしなく口を開けかけて、咄嗟に口を手で覆い隠した。
「特夷隊の皆様にはその節は大変お世話になりました。改めてお礼を申し上げます」
「あ、いや。あれは職務の範疇ですから…それより、どうして、貴方がここに?」
丁寧に頭を下げて来る明里につられて隼人も頭を垂れた後、浮かんでいた疑問を口にした。自分達を待っていたのは、先程の七海と朝月の会話からも推測は出来たが、具体的な理由までは分からなかった。
「実は、今日呼ばれているお座敷が神楽坂のしらぎくさんなんです。それで、朝月様から一部屋用意してもらえないかとお願いされまして」
「伝手があるってそう言う事だったのか…」
「はい、明里さんには少し無理を言ってしまったんですけど…」
じろりと鋭い視線を隼人に向けられ朝月は思わず視線を逸らした。罪悪感は多少あるようだ。
「すみません。恋人とは言え、この馬鹿の要求を呑んでもらって。上司として謝罪します」
「あ、いえ、良いんです…吉原での恩を何かの形で返したかったですし、しらぎくさんは置屋の女将さんと料亭の女将さんが仲が良くて、よく私達も出入りさせてもらっているお得意さんですから。それに、軍人さんのお仕事なら協力するのは民の役目でしょう」
胸の前で両手を合わせ明里は言外に朝月への擁護を忍ばせて、軽く小首を傾げた。
まだあどけなさの残る女性に上目遣いに見詰められ、隼人は額を押さえて朝月を見遣った後、その頭を軽く小突いた。
「いった」
「お前な、一般人をあんまり巻き込むな。今回は場所が場所だけに致し方ないが…大事な人なんだろ」
「すいません。けど、これしかもう方法ないでしょ…料亭に直接行って座敷に上がれても、標的が使う座敷の隣に上がれるとは限らないんですから」
朝月の抗議に、もっともだと内心納得しつつも隼人は「これきりだ」と強く念を押した。
朝月も隼人が何故ここまできつく叱るのか、理解して分強く頷いた。
それから、隼人達は市村と純浦の到着を待った。
2人と合流し、作戦の確認した後、隼人達は神楽坂の料亭へ向かった。
明里の計らいで料亭しらぎくの座敷に上がる頃。外の雨脚は激しくなっていた。
木々が風に揺れ、街灯を揺らす風も強さを増していく。
嵐に障子戸が震える中、隼人達は隣の座敷の様子に耳を傾けた。
「こんな台風の日に会談を決行するとは本当に大事な集まりらしいな」
天候の悪化もあり、料亭にいるのは隼人達の一行と、標的である陸軍将校達の他は数組だった。
料亭の中は普段より賑わいにかけて静かだったが、雨風の激しさのお陰か密会をするには持って来いの好条件だった。
「役者が揃ったみたいですね…この部屋からでも充分話は聞けますが…もう少し詳しく聞きたいな」
「そう思って、少し策を打っておいた。鬼灯、頼むぞ」
壁に耳を付けながら呟く市村に、自信満で朝月は宣言すると、自分の後ろにいる鬼灯を振り返った。
「やれやれ…今回だけですからね」
「朝月、鬼灯、お前達何をする気だ?」
いつもならそれなりに口数の多い鬼灯が今日に限って珍しく静かな事が引っ掛かっていた隼人は、朝月の策とやらにますます訝しんだ。
「まあ、見ていてください」
口許を袖口で隠し嫣然と微笑んだ鬼灯は、手に持っていた風呂敷包みと共に隼人達がいる座敷を出て行った。
神楽坂の料亭しらぎく。陸軍の将校が贔屓にしている料亭の一つ。その奥の座敷では二人の将校と一人の牧師、着流しを身に纏った壮年の男が二人、系五人の人物が集まっていた。
座敷には酒と料理が運ばれ、酒宴が始まる。彼等をもてなす為に呼ばれた芸者がお酌をしたり三味線を奏でて長唄や舞を披露していた。
その中で明里と共に座敷に上がった鬼灯は明里が舞い踊る動きに合わせて三味線の弦を爪弾いた。
「驚いたな…アイツ、実は芸事が出来たのか」
隣の座敷から様子を伺っていた隼人は、驚きに瞠目した。
今回の作戦は隣室から将校達の会話を聞くものだが、それだけでは正確な情報は得られない。
それを補う為に誰かが座敷に潜入する必要を考えた。この作戦を考えたのは他でもない座敷にて今三味線を奏でている鬼灯本人だ。
「男芸者も珍しくないし、アイツ元々歌舞伎の若旦那みたいな色気があるから、怪しまれないだろ」
「本人も似たような事言ってました。座敷はいわば夢を見せる空間。その中なら化けるのは簡単だって」
聞こえてくる三味線の音色と場を和ませる為の雑談が続く中、隼人達は標的達が本題に入るのを待った。
その瞬間は唐突に訪れる。
「それにしても、いよいよですか」
芸者が注いだ酒を一口煽り、口を開いたのは着流し姿の壮年の男。そのうちの一人だった。
「五年前の儀式は、辰宮がしくじったせいで失敗に終わりましたが、今度は大丈夫でしょうな?ヘルメス殿、宗像殿」
名指しされ、お猪口に口を付けていた詰め襟のカッソクを纏う牧師は、ゆっくりと顔を上げた。左目に付けたモノクルの鏡面がきらりと怪しげに光る。
「勿論。その為に今回は私の精鋭部隊も連れて参りました。彼の国は出仕に関して出し惜しみはしないと約束してくださいましたし…宗像中佐や鮫島少佐などの陸軍の兵力強化も万全です」
「左様。横浜での実験ももう直ぐ最終段階だ。それが済めば本格的に市ヶ谷で製造を始める。志願者も健康な若者が集まっているしな。炉の準備はいかがか?中原殿」
「どうにかそちらもなりそうだ。問題は、例の鍵をどうするかだが…」
話を振られた着流しの壮年の男は唸るようにして顔を伏せた。
「それに関しても、こちらに考えがあります。中佐も中原殿もどうぞこのまま準備を
進めてください」
宗像と中原の間を取り待つようにヘルメスと呼ばれた牧師は穏やかな笑みを浮かべて胸元に手を添えた。
「五年前のような失敗は許されませんぞ。大統領の犬達の行動も気になる処だからな」
「はい。それについては私も気を付けます。なにせ、九頭竜少佐はあの欧羅巴戦線の功労者ですからね」
含みのある言い方に会話を聞いていた純浦が眉を寄せた。
「あの言い方…まるで九頭竜隊長を知っているような口ぶりですね」
「陸軍や海軍、軍属に属する者なら、九頭竜隊長の話は身近なものじゃないんですか?」
「確かにそうなんですけど…あの人、牧師ですよね…」
市村の疑問に答えながら純浦は更に眉を顰めた。
「少なくとも、横浜で何かの実験が行われているのは証言が取れましたね」
「そうだな。よし、これなら奴等の実験場所の特定も出来そうだ」
会合の中で交わされた会話から、陸軍が横浜で兵力強化に関わる実験を行っている情報は取れた。
それだけでも、今回の作戦は成功であった。
「それにしても…五年前とか儀式とか、なんか変な話もしているな」
「あの中原という祭事部の幹部の話に出ていた辰宮という人物についても調べてみましょうか。今回の件が今よりずっと前から計画が進んでいたのなら、その人物の周辺を調べる価値もあるかと」
「純浦、頼む。俺も祭事部の方をもう少し探りを入れてみるから」
純浦と朝月は互いに頷き合い、今後の調査の算段を立てた。
「じゃあ、自分は横浜周辺の聞き込みをしてきます。何か不審な情報がないかとか、横浜の署に知り合いがいるんで」
「俺も横浜関係で色々当たってみるかな。それにしても、アイツ等は何を始めるつもりなんだろうな…」
職務も所属もバラバラな人物達の集まりに、隼人はますます疑念を深くした。
まるで、今宵の嵐のように、何か大きな出来事が今後待ち受けているような、悪夢のような一夜に、隼人だけでなく、朝月もまた胸騒ぎを覚えた。
標的達の会話を、三味線を弾きながら間近で聞いていた鬼灯もまた、隼人達同様に内心訝しんだ。
(…ここでの会話が真実なら、もう少し計画を早めに進めるべきですね…わたくしが思っていたより、物事が早く進んでいる…)
弦を弾く指が、曲の高まりと共に強く始まれる。それは、まるで鬼灯の心中を表すような音色だった。
それぞれの不安や思惑、疑念や焦燥感を掻きたてるように、軍都・東京を嵐が駆け抜けていた。
**********************
弦月:さあて、さて、次回の『凍京怪夷事変』は!
刹那:嵐が吹き抜ける軍都・東京が映し出すものは、果たして…
弦月:第四十九話「ラスティネイルを傍らに」乞うご期待!!
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