第四十七話ー波紋


 真澄達が詰め所へ戻ると、三好がストレッチャーと共に待っていた。


「赤羽さん、東雲君、その遺体をここに」


 的確に三好は二人が抱えて来た遺体をストレッチャーに載せるよう促した。三好の指示通りに二人はゆっくりと遺体をシーツの敷かれた台の上へと下ろした。


「今夜はこの遺体の解析をすればよろしいんですね?」


 眼鏡を直しながら三好は真澄へ問いかける。だが、当の真澄は心ここにあらずいった具合で無言のまま状況を見つめているだけだった。


「九頭竜隊長?」


「ん…ああ、すまない。そうだ、怪夷化の兆候が見られた為、解析を依頼する。死なずに怪夷化するなんて俺は初めて見たからな」


「死なずに怪夷化…なるほど。分かりました。一晩時間をください。明日の朝までには結果をご覧にいれましょう」


「ああ、頼んだ」


「鬼灯君、東雲君、これ運ぶの手伝って貰えますか?成人男性一人を運ぶのは中々骨が折れるので」


「ええ、協力しますよ」


 にこりと三好の要望を素直に引き受けた鬼灯は朝月の脇腹を笑顔で小突いた。


「ほら、行きますよ主様」

「はいはい」


 にこにことしている鬼灯に促され朝月は三好と共にストレッチャーを引いて詰め所の奥にある医務室へ向かった。


「隼人、さっきの状況を報告書に纏めておいてくれ。後で俺も確認する」


 三人の背中を見送ってから、真澄は隼人に事後の指示を出す。


「分かりました。隊長、少し休んだ方がいいじゃないですか?なんかあんまり顔色よくない気がしますよ」


「ああ…そうだな…少し疲れた」


 玄関を照らすランタンの明かりの下でも、真澄の顔は何処かやつれたような印象を受けた。それを気にして隼人は声を掛けたのだが、まさか本人から素直な返答があるとは思わなかった。


「ホントに大丈夫ですか?歳のせい?」


「お前な、失礼だぞ。これでもまだまだ現役だ。はあ、ただの気疲れだよ…」


 深い溜息と共に肩を解すように回して真澄はずっと静かに待機している南天の方を向いた。


「…南天、少しいいか?」


 真澄に呼ばれ、ようやく南天はそれまでの無表情で人形のような姿勢を解いて、真澄の傍へと歩み寄った。


「はい、マスター」


「南天、さっきのあれは何だったんだ?どうしてお前と鬼灯はあれが怪夷だと分かったんだ?」


 さっきはあの場を離れる事に手いっぱいで頓挫していたが、改めて真澄は心に沸いた疑問を南天へ問いかけた。

 あの時の行動は、まるで以前にも似たような対応をしたことがあると語っていた。南天も鬼灯もあの男が怪夷化するのが分かっていたから、素早く討伐という行動に移れたのだろう。


 それが、いつの事か真澄は知りたくてたまらなかった。さっき見た事象は、真澄が知らないものだったから。


「ボクや鬼灯は、もう何度も同じように怪夷に転化しかけた兵士を怪夷になる前に屠ってきました。清白が改良した八卦盤が感知するより先に、僕にはあの人の気配でそれを察しました。あのままにしておけば、あの人は完全に怪夷になっていた。その前に倒すのが定石でしたから」


 背筋を伸ばし、熟練の兵士の様相で南天は真澄の疑問に答えた。だが、何故か真澄は南天の答えを聞いて、ますます疑問を濃くした。


「南天…お前は、何を言っているんだ?」

「だから、あの人が怪夷になるまえに…」


 南天の説明に納得がいかず、真澄は眉間に皺を寄せた。


「怪夷は、死んだ人間が怪夷に取り込まれる事で怪夷になるんだぞ。怪夷に喰われたならまだしも、あの男はまだ生きていた。どうして怪夷になるんだ?」


「ボクに聞かれましても、お答えし兼ねます…怪夷への転化はそう言うものですから」


 キョトンと目を見張り南天は、不思議そうに真澄を見た。一方の真澄は理解が追い付かず混乱した。


「はあ…なんか、どっと疲れたな…少し仮眠室で休んくる」

「マスター、何処か具合が悪いのですか?何か温かい飲み物を」

「悪い、少し一人にさせてくれ…」


 額を押さえ、肩を落として吐息を零しながらエントランスから伸びる階段を登ろうと真澄は足を掛ける。


 その後ろを追って南天は真澄の傍に駆け寄ったが、南天の気遣いを真澄は静かに断った。

 階段の一段目に足を掛けたまま止まった南天を振り返る事もせず、真澄は無言で二階へと上がっていく。


「マスター…」


 廊下を曲がって仮眠室の方へ姿を消した真澄を茫然と見つめてから、南天は胸元をぎゅっと握って俯いた。


「あ~南天、隊長もたまには一人になりたいんだよ…お前も疲れただろ?執務室で休もうぜ」


 シュンと主人に叱られた忠犬のように肩を落としている南天に、隼人は精一杯に声を掛けて励ました。


「なあ、腹減ってないか?なんか作ってやるよ」

「…カプ麺がいいです…」


 シュンと項垂れたまま隼人の気遣いに応じた南天は、そのまま隼人と共に拓と清白がいる執務室へと戻った。




 朝月と鬼灯にストレッチャーを運ばせ、医務室へ戻った三好は、早速遺体の解剖を始めた。

 朝月を先に執務室へ返した鬼灯は、三好が行う解剖の様子を離れた場所で見守っていた。


「鬼灯君、先に結論から言うけど、この遺体は例の怪夷化歩兵の実験体だ。人工的に怪夷の細胞を受け付けられ、強化された強化歩兵の最初の個体。君が探していた事案の終着点だよ」


 男の身体にメスを入れ、皮膚と筋肉を引き開きながら三好は淡々と告げた。


「…やはり、そうでしたか…」


 胸の前で腕を組み、鬼灯は静かに相槌を打った。

 南天と共にこの地に召喚されたから今日まで、朝月と共にずっと探っていたある分岐点。その核心の一つが目の前に横たわる怪夷になりかけた遺体。


「君の話だと、陸軍が兵士の怪夷化、強化歩兵の実験成功はの事じゃなかったかな?」


 遺体の内臓に巧みにメスを入れながら、三好は鬼灯に問いかけた。その意味深な問いかけに鬼灯は脱力気味に頷いた。


「まさか、思いのほか実験が進んでいるとは思いませんでした。そうです。貴方の言う通り、怪夷化歩兵が実用化され、最初の事件を起こすのがです。それを止める為に動いていたというのに…こんなに早く実用化の手前まで進んでいたなんて…」


 片手で顔を覆い、鬼灯は彼にしては珍しく現状を嘆いた。


「これからどうする?もし実験が予想より早く進んでいるなら、例の連中に関してももっと警戒すべきだ」


「ご忠告どうも。しかし、まだ実験の段階というだけかもしれません。今回逃げ出した被検体がたまたま成功例に近いだけという可能性もあります。陸軍の実験が軌道に乗っている可能性の方が低いでしょう。それに件の連中が日ノ本に渡って来るのは、年明けです。まだ余裕ですよ」


「そういうの、負け惜しみって言わない?まあ、まだまだ調べる余地はありそうだね。私の方もこの遺体から分かる事は全て報告するよ」


 眉根を寄せている鬼灯を一瞥し、三好はその先は無言で解剖に勤しんだ。

 暫く三好の手さばきを眺めていたが、やがて鬼灯もその場から去って行った。






「お帰り。怪夷が突然発生したみたいだったけど、大丈夫だった?」


 意気消沈の南天を連れて戻ってきた隼人に駆け寄り、拓は心配そうに相棒の顔を覗き込んだ。


 清白が血相を変えて通信機に呼びかけた時、ノイズの向こうから真澄や鬼灯達の緊迫した声と共に怪夷の咆哮が聞こえていた。

 拓達の手元にあった方位盤は激しく針を揺らし、室内に警告音が鳴り響いていた。

 そんな状況から、殆ど通信への応答もなかった事に、拓も清白も真澄達巡回組の身を案じていた。

 幸いにも、怪我もなく無事に戻ってきた事に、拓は胸を撫で下ろした。


「ああ、鬼灯と南天の状況判断が早くてさ。流石は怪夷討伐のエキスパートを自称するだけあるよ」


 自分の斜め後ろに大人しく立っていた南天の背中を、隼人はよく真澄が部下にするように軽く叩いた。

 隼人の行動に驚いて南天は少しだけ顔を上げる。


「そうか、清白君も南天君がいれば大丈夫って言っていたのは、本当だったんだね」


 隼人の後ろに隠れるようにしている南天の前に、拓は目線を合わせた。透き通った紅玉の瞳が不思議そうに自分を注視しているのに、拓は苦笑する。思えば、南天の事をじっくり見つめるのは今回が初めてだった。


「ありがとう、君達の判断がなかったら、もしかしたら隼人達は怪我をしていたかもしれない」


「いえ…任務ですから…」


 拓に礼を言われて南天は、戸惑ったのか視線を横に揺らす。その不安げな表情と瞳の奥で揺れた感情に、拓は一瞬眉を顰めた。


「南天君?君……」


 じっと、思わず拓は南天の顔を更に覗き込んだ。その先に隠された感情を読み取るように。すっと、手を伸ばし、和服のように広がった袖に隠された手を握る。

 突然の事に驚いて手を震わせた南天に、拓は目を細めて唇を引き結んだ。


「…なに…?」


「ああ、ごめんね。えっと、何か困ってる事ある?」


 唐突な拓からの質問に南天はキョトンと首を傾げた。


「あ、いやなんでもないよ。ごめんね。なんだか痛そうな顔をしていたから」


 南天の手をそっと放し拓は誤魔化すように笑みを浮かべた。


「拓、お湯沸いてるか?腹減ったからカップ麺でも食おうかと思ってさ」


「夜食?それならもっとちゃんとした物食べなよ…あれ携帯食でしょ。ちょっと待ってて、今何か用意するよ」


「俺も手伝う」


 会話を交わしながら隼人は拓と連れ立って執務室の中に備え付けてある簡易の台所へと向かう。

 その背中を見送ってから、清白が通信機の前から南天の方へ駆けてきた。


「南天」


 心配そうに駆け寄ってきた清白を、南天はいつになく茫然と見つめる。

 その虚ろな表情に清白は一瞬、僅かに後退った。


「南天…どうしたの?何か、あった…?」


 ゆっくりと一歩を踏みしめるように南天の傍に歩み寄った清白は、拓がしたように南天の両手を握った。直後、伝わってきた物に清白は怯えた瞳で南天を凝視した。

 波紋すら立たない湖面のような透き通った紅玉の瞳の奥に揺れるモノに、清白は一種の恐怖に似た感情を覚えた。


「南天……」

「大丈夫。問題はないよ」


 頬を強張らせている清白の手を握り返し、南天は無表情のまま首を傾げた。

 どう言葉を返したらいいか分からず、清白はそれほど身長の変わらない南天の肩を抱き寄せて、強く抱きしめた。

 当の南天は、されるがまま清白に身を任せ、ゆっくりを瞼を降ろした。




 南天と清白を残し簡易の台所へ入るなり隼人は拓に先刻の出来事を話しだした。


「ヒトが怪夷化する瞬間を初めて見た…ヒトが怪夷になるのは、死んでからって聞かされていたのに、目の前で生きた人間が怪夷化した」


 その時の事を思い出しながら隼人は思わず頬を強張らせた。

 父親の代から怪夷との付き合いは長い方だが、怪夷の成り立ちを目撃したのは生まれて初めてだった。

 隼人の話を拓は興味深げに耳を傾ける。


「真っ黒い靄が身体を包み込んで、異形に変えていく…今思い出してもゾッとする。それが生きたままの身に起きたらと思うと…」


 深い溜息をついて隼人は自分の両肩を抱き締めて身震いした。


 隼人の仕草や話し方から拓は、その時の情景を空想する。怪夷と対峙する時はいつも背筋にうすら寒いモノが伝う。それは人の怨念であったり、憎悪であったり、負の感情が満ちていて、精神操作系の異能者であり、他人の感情に共感する拓にとって、怪夷との相対は常に自身の精神との戦いでもあった。


 特夷隊として、初めて怪夷と対峙した頃の事を思い出しながら、拓はその時以上の悪寒を感じて、隼人同様身を震わせた。


「けど、今回の件でなんか分かった気がする…」


 ガス台の五徳に薬缶を掛けながら不意に切り出した隼人の話に、再び拓は耳を傾けた。


「市村が持ってきた案件、囚人達が陸軍に連れ出された理由は、人が怪夷に変化するのと関係があるのかもしれねえ。もしかしたら、とんでもない事を陸軍は行っているような気がする…」


「…人の怪夷化…黒結病のように身体の一部が黒化した遺体が見つかった件…無関係ではなさそうだね。これは、本当にきな臭いよ」


「そうだな」


 意見の一致した拓に頷いて隼人は、眉間に皺を寄せた。

 市村が持ってきた案件が、もし想像通りなら、陸軍が行っているのは日ノ本だけでなく世界にすら激震を齎す。

 それは、なんとしても食い止めねばならない事だった。


「隼人、例の事件の事はもちろん大事なんだけど、ちょっと気にして欲しい事があるんだ」


「どうした?唐突に?」


 突然話を切り替えるように切り出した拓に、隼人は首を傾げた。その視線の先で拓は心配そうな顔をしていた。


「真澄さんの事なんだけど…少し気を付けてくれる?」


「真澄兄さんがどうしたんだ?」


 思いもよらない人物の話題に隼人は眉を顰めた。確かにこの所真澄は少し疲れた様子だが、元々気苦労の絶えない兄貴分だったせいか、隼人はあまり気にしていなかった。

 それを、思いもよらぬ形で指摘されて困惑を深めた。


「これは、確証がある訳じゃないんだけど…南天君との関りについてなんだけど…鈴蘭さんが桜哉ちゃんと、清白君が僕と契約を結んでから、二人の間に溝を感じる。真澄さんは、元々彼等をそこまで信用はしていない。けど、最近は割と受け入れていたし、特に南天君に関してはまるで長年一緒にいるみたいに大事にしていた」


「言われてみれば、兄さん割と南天の事気に入ってたよな。重宝していたっていうか」


「南天君も理由は分からないけど真澄さんの事を慕っているし、身体を張ってまで護っている所を見ると、二人ともお互いを気にかけているのは誰が見ても明らかだった」


 拓に指摘された隼人は南天が特夷隊い来てからの日々を思い出す。まだ半年も経っていないのに、あの二人の戦闘中の息はまさしく阿吽の呼吸で、付かず離れず傍にいるというのがもはや見慣れた光景になっていた。

 そんな二人に他者の感情に敏感な拓から溝が出来ていると言われれば、何故か納得してしまった。


「真澄さんは、聖剣に関しては誰よりもシビアな人だから。今怪夷が東京に現れているのだって、雪之丞さんが写しとはいえ聖剣を持ち出したのが要因の一つだし…」


「つまり、あの二人の様子に注視しとけってことか?」


「うん。嫌な予感じゃないけど…あの二人を離してはいけない気がする…それに、南天君の様子も気になるし」


「お前の勘、案外当たるからな。理由は定かじゃないが気には留めとくよ」


 五徳に掛けた薬缶がお湯を沸いたのを告げる笛が鳴る中、隼人は長い付き合いの相棒の忠告を素直に受け入れた。

 立ち昇る湯気に曇る台所の中で、隼人と拓は自分達の今後の行動について言葉を交わした。





 清白の予想通り、その日の晩は市ヶ谷で保護した作業服の男の怪夷化以外、怪夷の出現はなかった。


 仮眠室で夜を明かした真澄は、起き抜けに三好から昨夜の男の解剖結果と検査結果の報告書を受け取った。

 それを執務室の自身の机で読んでいると、隼人が昨夜の巡回の報告書と共に今調査の協力をしている囚人失踪事件についての経過報告書を上げてきたので、それにも目を通した。


 遅く上り出した朝日の中、真澄は額を抑えて溜息を吐いた。

 しっかり睡眠は取った筈だが、思いのほか疲れが残っている。


 肩を回したり目頭を揉んだりして気を紛らわせていると、湯気の上る愛用のマグカップが置かれた。

 不意に視線を向けると、そこには無言で立つ南天がいた。


「珈琲を淹れました」

「ああ、ありがとう。お前、ちゃんと休んだか?」


 南天が淹れてくれた珈琲に口を付けながら真澄は、何気なく相手に尋ねた。


「ボクは人形ですから。疲れてはいません。本来なら休息も必要はありません」


 背筋を教本のお手本のようにピンと伸ばして立つ南天の整った感情の乏しい美貌を見据え、真澄は珈琲を飲みながら溜息を深くした。


「……そうか」


 少しの間を置き、相槌を打つ。いつもなら小言の一つや二つ返すのだが、今の真澄にはそんな余裕はなかった。


 珈琲を飲み干し、カップを置きながらふと壁に掛けた時計を仰ぐ。

 時刻は八時近くを指していた。そろそろ大統領府に柏木が出勤してくる時間である。


「少し席を外す。朝礼までには戻ると他の連中に俺の事を聞かれたら伝えてくれ」

「分かりました」


 南天に伝言役を任せ、上がってきたばかりの報告書を手に、真澄は椅子から立ち上がった。

 そのまま、無言で南天の傍を通り抜けると、真澄は執務室を出て行った。





 公務が開始するのは九時からだ。

 様々な報告を受ける為、一時間近く早めに出勤している柏木の執務室を真澄は、いつものように尋ねる。

 柏木も、この早朝の僅かな時間の真澄の来訪は特に約束もなく受けていた。


「おはよう。なんだ、随分疲れた顔しているな」


 朝の紅茶を飲みながら柏木は自分を尋ねてきた真澄を出迎えた。

 昨日からずっと、周りに同じことを言われて真澄は辟易していた。


「煩い…苦労が多いのはお互い様だろうが…」


「ふふん。私は疲れなどとは無縁だからな」


「嘘つけ、この間の七海ちゃんや海静に疲労してた奴がよく言うな」


「あれはあれ、これはこれだ。さて、特夷隊隊長、九頭竜少佐の今朝の来訪の要件を聞こうか」


 紅茶を飲み干し、いつものように執務机に腰を下ろした柏木は、頬杖をついて真澄を挑戦的に見上げた。


「昨夜、遭遇したある怪夷についての報告書だ。これは、三好先生からの検査報告。こっちは部下の赤羽隼人中尉からの巡回報告書だ」


 柏木が座る執務机の上に真澄は今朝上がってきたばかりの報告書を置く。

 二通の紙の束を手に取り、柏木は興味深げにそれぞれに目を通した。

 始めは興味深くそれらを読んでいたが、いつしかその表情が険しいモノへ変わっていく。


 読み終わる頃、柏木の顔はいつもの人を小馬鹿にしたような自信家のものから、真剣で冷徹なこの国の最高指導者の顔に変わっていた。


「…九頭竜君、この報告は本当なのかね?」

「どちらも、真実です。閣下」


 柏木の空気の変化に真澄も公人としての顔で頷く。

 二人の間に、しばし重い空気が漂った後、柏木は胸の前の指を組んで頬を引き締めた。


「…陸軍の不穏な動き、突如怪夷化した失踪扱いの囚人。…なるほど」


「確証はまだないが、陸軍が怪夷の技術を囚人相手に試しているという仮説は立てられる。人間が生きたまま怪夷化した事例は、なかったわけじゃない」


 真澄は、かつて英雄である母から聞いた話を思い出していた。

 まだ東京は江戸と呼ばれ、世界に怪夷が跋扈していた時代。首都である帝都の防衛都市たる逢坂において起こった幾つかの重大な事件。


 その中に、死ぬことなく怪夷となった人物の話があった。

 その人は、真澄の母親の同業者で先輩であった恩ある人物だったという。

 復讐と怨念に飲み込まれ、ある人物の口車に乗ってしまった哀れなその人の話を真澄は今まで忘れていた。


「…旧ランクS級の怪夷か…」


「ヒト型の怪夷は俺も欧羅巴戦線での作戦時に対峙した事がある。今回遭遇した人物が本当にそれと同等だったかは不明だが、俺が見たのはそれになる瞬間だったのかもしれない…」


 横に下ろした拳を握り締め真澄は、昨夜の情景を思い出す。苦しみ藻掻きながら黒い靄に包まれていく男の姿。その気配はまさしく己がよく知る怪夷そのものだった。


 南天が咄嗟に首を掻き切っていなければ、きっと大事に至っていただろう。

 真澄の口頭での報告と紙面に起こされた報告書を頭に入れた柏木は、小さく息を吐いた。

 ゆっくりと顔を上げて目の前に立つ部下であり親友でたる男を見据えた。


「九頭竜君。君に少し確認したい事がある」

「なんですか?唐突に…」


 思わぬ問いかけに真澄は眉を顰めて柏木を見据えた。だが、目の前の柏木の表情がいつになく冷ややかな事に息を飲む。


「君は、先の欧羅巴戦線の折り、ある作戦を総指揮官である母君から言い遣っていたな」


 感情を排した声音で問われ、真澄は静かに頷く。


「そうです。先の欧羅巴戦線の最終局面。最後の魔術炉のあるプロイセンの首都攻略戦の際、俺は指揮官から別動隊での任務を与えられていました」


「それは確か、ルーマニアに潜伏していた水銀の錬金術師、メルクリウスの残党とその研究所の制圧及び破壊作戦であっているか?」


「相違ありません」


 淡々と質問に答えながら真澄は、何故今更と内心疑問を抱いた。

 真澄にとって、先の欧羅巴戦線の最終局面における特別任務は正直胸の奥深くにしまっておきたい案件だった。

 トラウマと片付けられない程、その胸に深く深く突き刺さった、真澄が背負う十字架だったからだ。


「その作戦で研究所は破壊され、残党も一掃されたと聞いたが」


「当たり前だ!あれは、俺だけじゃない、俺の部下達が命懸けで成し遂げた作戦だ!あの作戦がどれ程熾烈を極めたか、お前だって話くらい知ってるだろっ」


 古傷を掘り返され真澄は、彼にしては珍しく声を荒らげて柏木に抗議した。本来なら一介の軍人が感情をぶつける事となど許されない人物である。それでも柏木は真澄のこの抗議を静かに受け止めた。


「まあ落ち着け…あの作戦で君が失ったモノが多いのは私も理解している。だが、古傷を抉るようで申し訳ないが、さる情報筋からある情報が耳に入った」


 淡々といつもの柏木のまま、彼は執務机の引き出しから一通の手紙を取り出した。それは、先日横浜で桜哉の父親である海軍少将・六条直哉が柏木に手渡していたもの。


「…あの作戦で君が処分したと思っていた怪夷の製造や理論の記された研究ノート。水銀の錬金術師の名を冠したメルクリウスノートがまだ存在している可能性がある」


「…は…?」


 爽やかな朝日の中、柏木の口から飛び出した穏やかでない話に、真澄は驚愕して言葉を失った。


 心の内に押し込んでいたぐちゃぐちゃの負の感情が、硬く閉ざされた扉をこじ開けるようにして溢れ出してくる感覚が、胸の中に渦巻く。

 数多の犠牲。血と屍と嘆きの上に成功させた作戦。

 それが、今頃になって失敗だったかも知れない。


 突き付けられた事実に真澄は、思わず数歩後ろに後退り、唇を噛み締めた。


「あくまで、これはまだ噂の段階だが…今回の陸軍の不穏な動きと怪夷化した人間の報告。無関係とは言えない。君にとってはかなり辛い案件だが、今後調査を命じる。何か分かり次第私に報告してくれ」


 公人として部下へ命令を告げてから、柏木は動揺を隠しきれていない親友のギリギリ平静を保っている姿を、静かに見つめた。


「…もう戻るといい。私もこれから国会に出ないとならない。そちらは任せるよ」


 哀れみを含む柏木の気遣いを上の空で受けながら、真澄は取り繕った敬礼をして、ふらふらと大統領執務室を出て行った。







**********************




暁月:さーて、次回の『凍京怪夷事変』は?


弦月:点と点が線で繋がり、真実が浮かび上がる中、隠していた古傷が真澄と南天の中に浮かび、やがてそれは大きな亀裂となり…!


暁月:第四十八は「嵐の酒宴」次回もよろしくね!



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る