第四章

第三十話―柏木七海の自由研究


 七海嬢囮作戦が完了したと同時に、彼女と周りを悩ませていた夢遊病はまるで何事もなかったかのように、ぴたりと収まった。

 事件解決から一週間後。夏休みも半ばになった頃。七海は部活に参加する為、女学校へ通う日々を過ごしていた。


 まだ陽射しの弱い午前中。校内の剣道場からは、少女達の竹刀を打ち合う音と威勢のいい掛け声が木霊している。

 きらりと汗を光らせて、七海は向かってくる後輩達の剣を受けていた。


 ダンと、床を踏みしめる踏み込みの音と竹刀がぶつかり合う乾いた音を聞きながら、七海は不意に先日の夜の事を思い出した。

 あの晩、初めて目にした怪夷。それと命懸けで戦う特夷隊の面々の姿。


(小父様達はあんな大きなのと毎晩渡り合っているのか…)


 踏み込んでくる後輩の竹刀を横に払って逃れ、更に打ち込んでくるのを受け止めて鍔迫り合いに持ち込む。そのまま七海は後輩を大きく押し返し、素早く踏み込んで面を取る。


「一本!」と審判の声を遠くに聞きながら、稽古が終わった事に気づいた七海は、後輩と距離を取って一礼して下がった。


「柏木さん、大丈夫ですか?」


 道場の脇に下がり、面を外した七海に同級生が声を掛けてくる。


「え?何がですか?」

「心ここにあらずって様子でしたから…剣の腕はいつも通り冴えていらっしゃるのに…」

 心底心配している同級生に七海は苦笑いを浮かべて首を横に振った。


「ごめんなさい。ちょっと進路の事で考え事を」

「まあ、そうだったのですね。流石は柏木大統領のお嬢様ですわ」


(うーん、騙してごめんね)


 勝手に課題解釈をしている同級生を内心申し訳なく思いながら、七海は心の中で謝罪した。


(怪夷か…)


 時刻を告げる鐘が鳴り響き、師範で顧問の教師が今日の活動の終了を告げる。

 それを合図に全員が揃って礼をして、各々散っていく。

 その様を眺めて七海は胸中である決心をすると、他の部員同様に道場を後にした。




 部活を終えた七海は校内の図書館を訪れ、ある書棚の一角へとやって来た。

 そこは、ある一定の時期の歴史と、ある出来事についての本を中心に置かれた書棚。


(結構ある…)


 細長い書棚全てを使って納められた本の背表紙には、ある共通した文字が躍っている。


『怪夷』。


 60年前、この国を、世界を混沌と混乱に陥れた異形に纏わる研究や紹介文献、当時の状況を記した書物の並んだ書棚を見て回り、七海は数冊を手に取って開いた。


(よくよく考えれば、私怪夷についてあんまり知らないよね…)


 歴史の授業でも先の怪夷との戦いは重要事項として学校で教えられている。近代史において蒸気機関の発展と怪夷討伐は必ずテストに出るくらいだ。

 誰もが知っている史実であり、ほんの十年前までは実際に人類を脅かした異形。


(お父様や九頭竜の小父様は実際にこの怪夷と渡り合った世代なんだよね…)


 一冊の本に記された怪夷と紹介されたイラストを眺めて七海は自身の父とその親友の顔を思い出す。

 七海達が生まれた頃には日ノ本共和国から怪夷は既に討伐されており、その姿を間近で見たのは先日の晩が初めてだった。


 黒い身体に赤い目。物理攻撃が効かないその異形は、話に聞いていたよりも大きく荒々しかった。

 それこそ、あの真澄達怪夷討伐のエキスパートが苦戦するくらいである。


(怪夷って、今でこそ過去の事だけど…今も実際にいるんだよね…それに…)


 ふと、七海は先日の夜の事を思い出し、胸元を押さえた。

 真夏の夜の夢が覚めるような強烈な感情は、あの晩からずっと彼女の胸を掴んでいた。


 自分を助けるようにして立ちふさがった黒銀の狼。他の怪夷と同じ赤い瞳には何故か禍々しさがなく、まるで自分を慈しむような目をしていた。

 そこに、何故一年前怪夷討伐中に殉職した兄の姿が重なったのか、七海は疑問だった。


 思わず、「お兄ちゃん」と呼びそうになった自分にも不思議だったし、ここ二ヶ月程悩んでいいた夢遊病の事も結局原因が分からないまま今に至っている。

 父である柏木もあの晩の事を知っている真澄も何も教えてはくれない。


「……」


 文献に書かれた自分が良く知る人物の名前を見つめて、七海は唇をきゅと引き結んだ。


(無知なままじゃいられない…)


 数冊の本を手に、七海は図書館の調べもの用の机に座ると、真新しいノートを広げて何かを記し始めた。



「いらっしゃいませ~あら、七海ちゃん」

 カランと、ドアベルと共に入店してきた女子学生を晴美は温かく出迎えた。


「こんにちは」


 夕暮れが迫る中、七海がやって来たのは行きつけでもある喫茶店アンダルシア。真澄が趣味で経営を始めたが、特夷隊の業務が多忙なせいでその経営の殆どを晴美に任せている喫茶店である。


「今日は遅かったんだね。いつもならお昼には来るから気になってたところだったんだぁ」


 カウンターに座った七海に水とおしぼりを出しながら晴美は朗らかに声を掛けた。

 夏休みの間、部活が終わると七海はアンダルシアで昼食を摂ってから帰宅するのがルーティンになっていた。

 晴美も七海から事前に部活の日を聞いているので、大体来る時間を予想している。それが、今日は姿を見せないので心配していた所だった。


「ごめんなさい。ちょっと図書館で調べものを…」

「おお、流石は政治家のお嬢さん。勉強熱心~私なんて学生の時は勉強苦手だったから図書館なんて殆どいかなかったのに」


 自身の学生の頃を思い出して晴美は七海の様子に関心を寄せた。


「ちなみに、優等生さんは何を調べてたのかね?」

「あ、実は…怪夷について調べてて…」


 晴美の問いに答えながら七海は鞄から借りて来た本と一冊のノートを取り出し、晴美に見せた。


「ほほう、怪夷についてとな」


 七海が差し出してきたノートを受け取り、ぺらぺらと晴美はページを捲る。そこには文献から書き写した怪夷の特徴やこれまでの出来事を纏めた年表が記されていた。


「学校の授業でも当たり前のように習っていたのに、改めて考えてみるとあんまり知らないなって気付いて…ほんの40年くらい前まではこの国も怪夷に苦しめられていたのに…」


「ああ、まあ、実際目の当たりにしないと分かんないよね。黒い革袋を被ったみたいな異形が世界を蹂躙してたなんて」


 カウンター席に寄りかかり晴美は興味深げに七海が纏めたノートを眺めた。怪夷に関する一般的な知識がきちんと纏められたそれは、教材としても実に簡潔で分かりやすい。

 だが、それは学校や一般人が知る知識の範疇だ。

 本来なら、一般人であり怪夷を知らない世代である七海は学校の授業で教える程度の内容を知っていれば十分だ。だが、彼女は既に怪夷と関わってしまっている。


(大翔から聞いてたけど…これは、もう片足突っ込んでるのよねえ)


 ノートを七海に返し、彼女の注文を受けて晴美はカウンターの中に入る。カフェオレを入れてホットサンドを作りながら、胸中で思いを巡らせた。

 カウンター席では、図書館から借りて来た本を傍らにノートを纏める七海の姿がある。

 その熱心な視線に晴美は、内心決意を固めた。恐らく、真澄や柏木からは余計な事をと釘を刺されるだろうが、知りたい事を知れないのは酷だ。


「お待ちどうさま」


 七海の横にカフェオレとホットサンドを置き、晴美は徐に七海の顔を覗き込む。


「ねえ七海ちゃん。もしよかったら、私が怪夷について教えてあげようか?」

「え?」


 思わぬ申し出に七海はノートから顔を上げて大きく目を見開いた。


「ふふん、これでも祭事部の神職の家系にして、斎王を輩出した宮陣家の出身だからね。一般教養以上の事を知っているのだよ」


 堂々と張った胸に手を当ててふんぞり返りながら晴美は、自信満々に申し出た。

 どや顔で自分が何者かを告げる晴美に七海はぱあっと顔を明るくしてコクコクと首を縦に振る。


「晴美先生!是非ご享受ください!」

「いいとも、じゃあ、特別授業と参りましょうか」


 ニヤリと笑った七海は、さっそくとばかりに店の看板をオープンからクローズにひっくり返し、カーテンを閉める。

 店内には七海と晴美の二人だけとなった。

 七海の隣に腰を下ろし、晴美は七海が纏めたノートを広げながら早速講義を始めた。


「そもそも怪夷がなんなのか…それは知ってる?」

「60年前に世界同時に行った呪術の実験が失敗して発生した異形…というのは習いました。基本は黒い革袋を被ったような姿の異形で、斬ったり叩いたり、銃弾とかの物理攻撃は効かないんですよね?それで、発生当時は討伐方法が分からずに成す術もなかったって」


 授業や書物から得た基礎知識を七海は晴美の前で反芻する。

 それを聞きながら晴美はうんうんと頷いた。


「そうそう、怪夷の倒し方が分からなかったのが、江戸を中心に関東、東海に怪夷が広がった要因だね。そこはほぼ教科書通りでいいかな」

「でも、当時の帝が防衛軍を立ち上げて怪夷を防いだんですよね?」


「そう、教科書ではそう教えてるけど、本来防衛軍を指揮したのは当時の斎王だった帝の姉君。彼女が怪夷には物理攻撃は効かないとお告げを受けた事で、当時の防衛軍の人達は呪術が使える人と武士の混成部隊だったんだよ。うちの家系からも何人も参加してたらしいし」


 晴美が話す内容を七海は自身のノートの書き加えていく。


「それから十年くらいかけて、怪夷を今の名古屋辺りで防いで、大阪を「逢坂」ってして帝都の防衛都市にした。それから、逢坂では都市内で発生する怪夷を討伐する民間の自警団みたいな職業、執行人が興った。これは店長…真澄さん達の親世代の話だね」


「英雄と呼ばれる九頭竜莉桜さんや秋津川雪那さん達が元々生業にしていた職業ですね」


「そうそう。そして、怪夷だけど…基本の形態はさっき言った革袋を被ったみたいなやつだけど、当時はその大きさや形態によってランク付けされていたんだよ。ランクCからランクAまでは大物と呼ばれて執行人達も討伐に苦労してたみたい。そして…怪夷の最上位と言われ、逢坂炎上事件や江戸奪還作戦の時に英雄達が渡り合ったのが、意志を持ち、自ら行動できるヒト型の怪夷ランクSと怪夷を生み出したとされる科学者、メルクリウス。彼等の事までは怪夷討伐に関わった人でも極一部しか知らない案件だよ。まあ、特夷隊の人達は全員知ってるのかな…」


「意思を持った怪夷…?」

 晴美が簡潔に話す内容の中に興味深い言葉を見つけて、七海は思わず反芻した。


「晴美さん、怪夷には意思疎通ができるモノがいるんですか?」


 ノートを取っていた手を止めて七海は身を乗り出して晴美に迫る。

 余りの食いつきに気圧されつつ晴美は「落ち着いて」と一先ず七海を押し戻した。


「生き物に擬態した姿のランクAの怪夷とかなら意思疎通は出来たみたいだよ。ヒト型怪夷とは普通に会話も出来たって話だし…なんせ、ヒト型の怪夷は人が怪夷を取り込んで生じたものだったみたいだし…」


 自身も実際に見た事はないがと付け加えて晴美は七海の問いに答えた。

 晴美の知識量に感心しながら、自身の中で浮かんだある仮説を七海は思い切って晴美に問いかけた。


「あの…ヒトが怪夷を取り込んで怪夷になるなら、ヒト型以外に擬態する可能性はあるんでしょうか?」

「うん?それはランクS当たりのが生き物に擬態する姿を取るって事?」

「そんな感じで…」

「どうだろ?いまだに怪夷の研究って細々と行われてるけど。欧羅巴戦線終結しちゃった今じゃ怪夷がどんな存在だったのか判断出来てないらしいし…ただ、これはあの怪夷研究の第一人者であるさる学者先生から聞いた話だけど…」


 七海の耳元に唇を寄せ、秘め事を囁くように晴美はある事を七海に告げた。


「怪夷は、死者の怨念が集まって形になった異形だって話だよ。だから、ある意味人にとても近いのかもしれないね」

「人の怨念が…」


 晴美が教えてくれた内容を七海は自身の胸に浮かんだ思いと照らし合わせる。意思疎通ができる怪夷は存在する。だが、それは人が怪夷を取り込んだヒト型と呼ばれる存在であり、獣の姿を擬態した怪夷では定かではない。では、自分が感じたあの晩の既視感はなんだったのか。


「あの、晴美さん怪夷って」

 更なる質問をしようとした時、閉めた筈の店の扉が静かに開いた。


「なんだ、もう閉めちゃったのか?営業時間まだ終わってないだろ…」

「あ、店長、南天君お帰りなさ~い」


 鍵を閉めた筈の店に入って来たのは、この店の本来の経営者である真澄。その後ろには南天がいた。


「今日はお客さん少なかったのと、七海ちゃんがお勉強したいって事で付き合ってました」

「七海ちゃん、来てたのか」


 カウンター席から立ち上がり緩い敬礼をする晴美の後ろにいる七海に気付き、真澄は足早にカウンター席に座る七海の前に歩み寄った。


「お邪魔してます」

「いらっしゃい。常連だって話は聞いてたけど…晴美ちゃんに勉強教わってたの?か」

 半信半疑な表情で訊ねてきた真澄に七海は深く頷く。


「逆に教わる方じゃないのか?」

「人聞き悪いですよ~私それなりに優秀だったんですから」

 ぶうっと頬を膨らませて抗議する晴美を半分無視して真澄は七海と向かい合う。


「先日はありがとうございました」

「いやいや。その後体調はどう?」

「お陰様であれから何もないです。でも、小父様達がいないのはちょっと寂しいです」

「それくらいでいいんだよ。また何かあったら遠慮なく言うんだよ」

 ポンと七海の肩を叩いて真澄は彼女を励ました。


「店を利用してくれるのは嬉しいけど、そろそろ帰った方がいいだろう。今日はもうお父さんは帰っているからさ」

「もしかして、小父様達、今日は護衛任務でしたか?」


 七海の問いかけに真澄は頷く。日勤帯の職務である護衛任務は今日は議会も早く終わった事でいつもより早く上がれたのだ。七海の護衛任務や囮作戦で休暇を取れなかった特夷隊の面々は通常業務に戻りつつ、交代で休暇を取っていた。

 真澄と南天も何もなければ今夜はこれで業務は終了である。


 ちらりと腕時計に目をやり真澄は七海に時刻を告げた。

 晴美との話に夢中になり、既に時刻が六時を回っている事に七海はそこでようやく気付いたのだった。


「日も暮れてきたし、送って行こうか?」

「大丈夫です。まだ明るいし。今日はこれで失礼します」


 カウンター席に広げた本やノートを回収し七海はそれを鞄にしまうと、真澄と晴美に頭を下げた。


「晴美さん、今日はありがとうございました。また色々教えてくださいね」

「勿論。いつでもどうぞ」


 胸を張って自信満々で応じる晴美に再度頭を下げ、七海は鞄を手に店を出ていく。

 カランとドアベルが乾いた音を立てて閉じられ、七海の姿が見えなくなった頃、真澄は自身の横に立つ南天を振り返った。


「南天、すまないが無事に家路に着けるように付いて行ってくれないか?」

「了解しました」


 こくりと頷き、南天は店の裏口から外に出ると、通りを歩いていく七海を追いかけた。

 南天が出て行ってシンと静まり返った店の中、真澄は肩を竦めた。


「晴美ちゃん…七海ちゃんに余計な事教えたでしょ…」

「ええ?なんのことですか?」


 キョトンと目を丸くして晴美は小首を傾げた。

 彼女が七海に何を教えていたのか、真澄はカウンターテーブルに広げられていた書物からおおよその予想は付けていた。

 先日の戦闘を実際に見ている七海だ。当然知りたくもなるだろう。


「…柏木に怒られるの俺なんだけど…」

「それは知りませんが、知りたい事を教えてもらえないって、やっぱりよくないとおもうんですよ。相手の事を想って隠していても…本人からしたら、どうしてって不安になるんです。店長だって、経験あるでしょ?」


 晴美の意外な返しに真澄は頭を抱えた。

 事実、現在進行形で同じ状況に陥っている。


「相手を想うなら、やっぱりきちんと話さなきゃ、じゃないと後悔しちゃいますよ」

 にこりと笑う晴美の言葉が、妙に突き刺さるのに真澄は溜息を吐いた。


「…そうだな」


 相槌を打った真澄の脳裏には七海の帰宅を見届けるように言って外へ出した南天の顔が浮かんでいた。




 夕暮れの東京の街を歩き、トラムに乗って七海は真っ直ぐに自宅へと帰宅した。

 既に邸の明かりはともされ、門をくぐるなり先に帰宅していた父親直々に出迎えられた。

 父と娘のやり取りを遠目に眺め、南天は二人が玄関の中に入ったのを見届けると、踵を返して来た道を戻り始めた。




***************************


朔月:さて、次回の『凍京怪夷事変』は…


弦月:七海嬢の一件がひと段落した矢先、真澄は柏木と共にある人物に会う為横浜へと赴いて…


朔月:第三十一話「男達の山の手会議」次回もよろしく。

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