第十七話ー暁の癒し人


 かつて、水戸藩の上屋敷があった場所は庭園となり、今や市民の憩いの場所となっている。

 遠くに今尚禍々しい怪夷を輩出する旧江戸城を見据えたその場所は、将軍が茶の湯の水を汲んだとして有名な場所。

 万世橋を超えて坂を上った先にある御茶ノ水。

 その一角に建つ白亜の建物の前で真澄は溜息をついた。


東雲総合病院しののめそうごうびょういん』と看板の掲げられたその建物のエントランスへ続く石造りの階段を真澄はゆっくりと上がっていく。

 朝のうちに予約は取ってあったので、受付で声を掛けると直ぐに診察室の方へと案内された。


 外に設置された長椅子に腰掛け、呼ばれるのを待つ。

 無意識に包帯の巻かれた左腕を擦ると、ここに来た発端を思い出した。





「怪夷に噛まれた?」


 昨日の南天とくろたまの一件を報告に訪れた大統領の執務室で、報告を聞いた柏木が珍しく素っ頓狂な声を上げた。


黒結病こっけつびょうの可能性は?」


「三好先生の見立てではないとは言い切れないそうだ。けど、今のところ肌の色が黒くなっただけで、特にこれと言って症状は出てない」


 左腕に巻かれた包帯を解き、柏木の前に真澄は自身の腕を差し出した。

 左肘の関節から手首にかけての皮膚が、黒く変色している。

 まじまじと親友の変色した腕を眺めて柏木は眉を顰めた。


 『黒結病』かつて、怪夷と共に人々を苦しめた病。現在は治療法の確立と怪夷の脅威がほぼなくなった事で罹患者はほぼいなくなった。

 だが、この病がかつて多くの人々の命を奪ったのは記憶に新しい。


「こんだけ広範囲が黒化してて、よくなんともないな。私も何度かこの病の末期の患者に会った事があるが、普通、これだと腕が動かなくなるとかするんじゃなかったか?」


「その筈なんだが、痛くも痒くもない。まあ、油断は出来ないんだろうがな」

 自分のことながら何処か他人事である真澄の様子に、柏木は珍しく溜息を吐いた。


「九頭竜君、午後は休暇を取って病院に行ってこい。今予約を入れてやる」

「は?」


 突然の提案に驚く真澄の横で、柏木は執務机に設置された固定電話のダイヤルを回し、何処かへ電話をかけ始めた。


「ああ、ご無沙汰しております。柏木です。先生もお元気そうで何よりです。ええ、実は早急で大変申し訳ありませんが、1人診て頂けませんか。…はい、宜しくお願い致します。それでは」


 がちゃんと、受話器を置き柏木はニヤリと真澄を見上げる。


「九頭竜君、俺のコネクションに感謝するんだな。大先生が診察してくれるぞ」


「お前…あそこに連絡したのか…」


「ふふん。黒結病の専門医と言えば東京にはあの人しかいまい。私の叔母も治してもらっていたしな。君は更によく知っているだろう?」

 不敵に笑う柏木の言葉に、真澄は肩を落とした。


「まあ、さっさと治療してもらえ。手遅れになってからじゃ遅いぞ」

「分かったよ」


 半ば投げやりに頷き真澄はがしがしと後頭部を掻いた。


「それと、九頭竜君、頼みがあるんだが」


 不意に、柏木の目から普段のギラギラした政治家としての光が消える。

 何処か憔悴したような、深刻な表情に真澄はそれまで緩んでいた頬を引き締めた。


「どうした?」


「ああ、実は特夷隊も人数が増えた事だし、少し我儘を言ってもいいか?」


「お前、普段から我儘言いたい放題だろ…」


「私の今までのは立派な業務だ。仕事を命令してこそ上官だろう。違う、ここから話すのは実に私的なお願いだ」


 いつになく疲れた様子で話す柏木に、真澄は眉を顰めた。いつもの人をからかう悪魔のような柏木から、今は覇気が成りを顰めていた。


「…七海の様子が可笑しいんだ。まるで夢遊病者のように夜中に出て行こうとする。昼間は普通なんだが…」


「七海ちゃんが?」


 柏木の心労の原因を知り、真澄も内心焦燥を感じた。

 軍人として立志した海静には厳しく厳格な父親であった柏木も、愛娘の七海に関しては調子を崩す。


 鉄皮面で政敵も軍人も蹴落としていくまさしく無敵の大統領にも、幾つか人間らしい弱点がある。それが愛妻と愛娘の存在だ。

 余り周りには知られていないが、奥方と喧嘩をした後のこの男の落ち込みっぷりを真澄はよく知っていた。

 同じく、愛娘である七海との関係もよく悩んでいる。


「私達が寝静まった後に、寝間着のまま何処かに行こうとする…決まってその時は『お兄ちゃんが呼んでる』というんだ…今は屋敷の女中や警備員達が止めてくれているが…発言が気になる…」

 机に項垂れ珍しく弱弱しい姿をさらして、柏木は真澄に状況を伝えた。


「それは、いつから?」


「この間の法事の後からだ…七海は海静の遺体を見ていないからな。私達に心配を掛けまいと振舞っているが、内心納得がいっていないのだろう」


 柏木の話に真澄は深く頷いた。目の前で海静が怪夷に連れ去られたのを見ていた真澄ですら、本当に海静が殉職したのか判断を迷った程だ。

 もしかしたら何処かで生きているかもしれない。


 淡い期待を抱きたい気持ちは理解できる。だが、もし海静が生きていたとしても、それがかつての海静とは限らない。

 彼が、怪夷と化している可能性の方が高いからだ。


「海静が戻ってきている…もしそうなら、それはもう海静じゃない。九頭竜君、七海の夢遊病が精神的な問題からからくるものか、もしくは本当に海静の残骸によるものか判明するまで、特夷隊から護衛を出してくれないか?もちろん、私の護衛の一環としてくれて構わない。私の護衛は大統領府から募ればいい」


 淡々と、だがいつになく真剣な柏木の願いを真澄はすぐさま了承した。


「分かった。お前の我儘、快く引き受けるよ。七海ちゃんの事は俺も心配だからな」


「悪いな。君自身も色々大変な所で」


「お互い様だろ。たまには弱いとこ見せていいんだぞ」


「他の連中には絶対見せてやらないがな…君と秋津川君くらいだよ」


 椅子に深く腰掛けて、柏木は執務室に設けられた大きな窓の外に視線を向ける。

 夏の青い空が、ずっと続いている。

 同じ空を見上げたかつての日々の事を思い出し、真澄と柏木はしばらく蒼穹に想い馳せた。






「九頭竜真澄さん、一番診察室へどうぞ」


 名前を呼ばれ、真澄は指定された診察室の扉を開き中へと入った。

 白い布地のパーテンションの向こう側、二つの椅子が向かい合わせに置かれた机の前で、白衣を着た初老の男が待っていた。


「やあ、まさか君が患者でくるとは思わなかったよ」


 屈託のない、穏やかな声音。既に60近いというのに、少年のような目をしたその人物に真澄は深く頭を下げた。


「ご無沙汰しています。東雲先生」


「うん、久しぶり。元気そうだね」


 病気を診てもらいに来た患者に言うには、何処かずれた発言でこの病院の医院長たる男は、満面の笑みを浮かべた。

 東雲雨しののめしぐれ。この東雲総合病院の医院長であり、かつて真澄の両親と共に怪夷討伐の一翼を担った英雄。

 聖剣使いと呼ばれた者の1人であり、生まれた時から真澄を見てくれたうちの1人だ。


静郎せいろう君から連絡貰った時は驚いたよ。まあ、特夷隊は怪夷を相手にしている訳だし、こういう事は想定内だけどね」


「今までが奇跡という事ですか?」

 しぐれの前に腰を下ろし、さっそく真澄は左腕に巻いた包帯を取る。


「うわ、これはこれは…久しぶりに見たな」

 眼前に差し出された腕を見遣り、雨はまじまじと真澄の患部を観察する。


「何か症状は?腕が動かしずらいとか、指の感覚がないとか」


「いえ、今のところは…ああ、変わった事と言えば…怪夷に噛まれた後に、何かこう身体の奥から力が漲るような感覚があって、腕が鉱物みたいに固くなりました。刃物が当たっても弾き返すくらいの強度です」


 昨夜、くろたまに噛まれて直ぐの事を思い出し、真澄は雨に包み隠さず話した。柏木には昨夜の事はそこまで報告しなかったが、この黒結病の専門医であり、自身も黒結病を克服した医師には話しておくべきだと判断した。


「今は普通の腕と変わらない弾力だね」

「戦闘終了後には普通に戻っていました」


 真澄の腕を触り、触診をした雨は難しい顔で肩を竦めた。


「う~ん、見た目だけならほぼほぼ末期に近いんだけど…その場合、腕が動かせない筈なんだけどな…取り合えず、血液検査とレントゲン取っておこうか」


「お願いします。こんな見た目だと、部下達が心配するので」


「ふふ、朝月は頑張ってる?あの子は直ぐ調子に乗るから、でも兄弟の中では一番戦闘に向いてるからね。あの莉桜りおうさんやたけるさんから戦闘の基礎を叩きこまれているから、そこまで心配はしてないんだけどね」


 自身の息子である朝月の事を思い出しながら、雨はカルテに真澄からの問診を書き込んでいく。


「朝月はよくやってくれていますよ。朝月と言えば、最近隊に入隊した隊員の指導を頑張っています」


「へえ、そうか。最初特夷隊に推薦された時はどうなるかなって思ったけど。良かった。あの子、同じ東京に住んでるのに、お正月しか顔ださないんだもん。真澄君、今度言っといて。たまには実家に顔出してって」


 採血用の注射器を用意しながら、何処か不貞腐れた子供のような顔をする雨に、真澄は苦笑しながら頷いた。


「帰ったら伝えておきます」


 こくりと頷く真澄に、雨は変色した腕を出すように促す。

 昨夜くろたまに噛まれ、変色した腕に針が刺され、血が抜かれていく。

 赤黒い自身の一部が抜けていくのを真澄はぼんやりと眺めた。


「よし、レントゲンの用意をしてくるから、少し待合室で待ってて」


「分かりました」


 雨の指示を受け、真澄は深く一礼して部屋を出ていく。

 真澄の背中を見送ってから、雨は試験管の中に保管された血液を眺めた。


天童てんどう君、これを検査してくれる?」


 助手として控えていた二十代半ばの青年に雨は声を掛ける。


「はい。先生、今の人の病って」


「うん、黒結病の疑いがある…というか、ほぼそれなんだけど。あ、念のため血液には触れないように。体内に入らない限り問題はないけど、仮にも怪夷からの疫病だからね」


「分かりました」


「それと天童君さ、君そろそろ研修明ける?」

 話を変えるように、雨は自分の息子と同年代の研修医を振り仰ぐ。


「はい、来週からはいよいよ本格的に外来勤務になります」


「ふふ、皐月さつきには僕から伝えておくからちょっと出向してくれない?実践で学ぶ方が君には合ってると思うから」


「……はい?」


 唐突な医院長の発言に、青年はキョトンと目を丸くした。





 大統領府内にある特夷隊の詰め所。

 西洋の洋館を模した尖塔を持つ建物の屋根に腰掛け、南天は旧江戸城の方角を見つめていた。

 傍らには黒い球体の身体に、三角形の耳を生やし、長い尻尾を揺らす猫のような生き物が寄り添っていた。


『み~』


 膝を抱えて遠くを眺めたままの南天の脚に、くろたまは頬を摺り寄せた。


「ここにいましたか」


 不意に声を掛けられてちらりと、南天は視線だけを声の方に向ける。

 天窓をよじ登り、屋根へと上がってきたのは鬼灯だった。


「落ち込んでも仕方ありませんよ」


「落ち込む?人形の僕にそんな感情は存在しません」


「はいはい。そうですね。ですが、心なしか背中が小さいですよ」


 きっぱりと言い切る南天の言葉に、鬼灯はやれやれと肩を竦めてから、南天の隣に立った。


「南天、隊長の事は専門医に任せましょう。彼が今診察を受けに行っているのは、あの黒結病の専門医。この時代で信用出来る人物です」


「随分肩を持つね」


 普段、鬼灯は他人をあまり高く評価しない。他人を観察対象としか見ていない彼が、珍しく好評価をするかの人物を南天はぼんやりと考えた。

 直接会った事はないが、どんな人物だったかはドクターから聞いている。


「さて、どうしてでしょうね。わたくしも直接会ったことはないのに…ただ、わたくしの中の彼が、あの人は大丈夫だと伝えてくるのです」

 自身の胸に手を添え、睫毛を伏せて鬼灯は言葉を紡ぐ。


「それに、主様の御父君ですからね。隊長にとっても見知ったお人ですし」


「…そうだね」


 ぽつりとそう呟いた南天の傍に、鬼灯はしゃがみ込む。声のトーンを落とし、内緒話をするように話を始めた。


「南天。そろそろもう一人こちらに呼ぶ準備をしようと思います」


 鬼灯から出た言葉に、南天はようやく鬼灯の顔を見た。


「召喚の当てが見つかったの?」


「いえ、それはこれから探します。上野はわたくし達を下ろすのに使ってしまいましたからもう使えませんが…この東京にはまだまだ霊脈の高い場所はあるでしょう」


 楽観的な発言に南天は再び鬼灯から視線を外した。


「特夷隊の仕事だってあるし。契約者見つけたんだからそれを優先しなくていいの?」


 先日、自分より先に朝月との契約を果たした鬼灯に、南天は複雑な思いを抱いていた。

 真澄をくろたまが噛んだ事で契約の話は暫く切り出せそうにない。

 そんな状況で自由に動こうと画策する鬼灯を、南天は快くは思えなかった。


「わたくしが非戦闘員だという事は貴方が証明してくれたでしょう?心配しなくても、場所の特定は職務の合間に行います。問題は…」


「下ろすタイミング?」

 聞き返してくる南天に、鬼灯は頷く。


「ええ、それに関しては慎重に実施しなくてはなりません。これはこの先残りの三人を下ろす時の実験でもあるんですから」


 真剣な顔で話しながら、鬼灯もまた南天が眺めていた旧江戸城の方角を見据えた。


「…その実験の被験者はやっぱりあの人?」


「他にいないでしょう。まあ、彼女なら問題ないでしょう。わたくし同様に同調は早かったですからね」


 自信満々に語る鬼灯に南天は肩を竦めた。

 失敗するかもしれないある種危険な実験を前に、この自信はどこから来るのだろう。


「…場所が見つかったら教えて」


 ゆっくりと腰を上げ、南天はゆらりと立ち上がる。

 その肩にくろたまが身軽に飛び乗った。頬ずりをしてくるくろたまを撫でてから、南天は身軽に屋根の上から飛び降りた。


 地面に降り立つ南天を追うと、丁度大統領府の門を潜って真澄が戻ってくるのが見えた。


 なんだかんだ言いながらも真澄を慕う南天の姿に、鬼灯は苦笑を滲ませる。

 何故彼が繋がりのない真澄にそこまで執着するのか鬼灯には謎だった。


(拾ってもらった恩…?ですかね。それとも、わたくしが知らないだけで、南天もわたくし同様に契約者に選んだだけの理由があるのか…ただ単に内に宿すモノがそうさせるのか…)


 真澄の容態を心配しているのか、なにやら質問攻めにしている南天を遠くに眺め、鬼灯は胸中で憶測を呟いた。




 東雲総合病院への受診から二日が経ち、検査結果が三好を介して真澄の下に届けられた。

 だが、その日真澄に届けられたのは検査の結果だけではなかった。


「前々から必要だとは思っていたんだけど。進言のきっかけがなくてね。この間の九頭竜隊長の一件がいい機会だったから閣下にお願いしておいたんだ」


 珍しく医務室から出て来た三好は、集まった特夷隊の面々にそう説明した。


「それじゃ紹介するね。天童和磨てんどうかずま君。東雲総合病院でこの間まで研修医だったけど、研修が明けたからこちらに出向してもらった黒結病の専門医です」


 おもむろに紹介を受けたのは、ケーシーと呼ばれる詰襟タイプの白衣を纏う、二十代後半の青年。黒縁の眼鏡をかけて知的な印象がありながら、人の良さそうな柔和な面立ちの青年は、少し緊張した面持ちで深呼吸した。


「ご紹介に預かりました。天童和磨です。皆さんの任務中の治療及びサポート役としてこの度入隊致しました。まだまだ経験は浅いですが、宜しくお願い致します」


「彼には、軍医兼衛生要員として現場に出てもらいます。処置が早い方がいい時もあるからね。九頭竜隊長や閣下の了解は得ていますので」


 後ろに控えた真澄に視線を投げかけてから三好はにこりと微笑んだ。


「まあ、実際今まで負傷しなかったわけじゃないからな、俺の一件というより、今後の怪夷との戦いを見据えての人員だ。大翔の目の事もあったしな」


 ちらりと、真澄は左目に眼帯を付けた大翔を見遣る。隊長の視線に気づいた大翔は申し訳なさそうに頭を下げた。


「皆さんも私より歳の近い彼の方が話しやすい事もあるでしょうから、健康面の相談は遠慮なく。天童君も早く慣れてくださいね」


「俺からもよろしく頼む。うちは無茶ばかりする連中が多いからな。東雲先生の推薦なら心強い」


「はい。お役に立てるよう精進します」


 少し上ずった返事をする天童の傍に歩み寄り、真澄は右手を差し出した。

 その手を和磨は握り返し、頬を引き締めた。


「それじゃ、今後の方針についてだが…」


 大統領柏木からの七海護衛任務の要請や補佐隊員の増員。真澄の日常は目まぐるしく変化する。

 暑い夏は直ぐそこに迫っていた。









*******************



次回予告


刹那:次回の『凍京怪夷事変』は


弦月:特夷隊に舞い込んだ新たな任務に、真澄は隊を二つに訳て行動を起こす事に。その人選に部下達が納得する中、一人南天は不満を訴えて…


刹那:第十八話「新任務、はじめます。」よろしくな。

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