第十一話ー遠き日の幻影

 今でも思いだす。

 この手から零れていくものの存在を。

 あの日失った輝きの事を。



 一年前。


 提出用の書類を清書していた真澄のデスクに、ことりとマグカップが置かれる。


「お疲れ様です。隊長」


 立ち昇る湯気を追いかけて顔を上げると、お盆を手にした青年がこちらを見下ろしていた。


「ああ、海静か。ん、そうか今日は当直だったな。もうそんな時間か…」


 部屋の壁に掛けてある鳩時計に視線を移し、真澄は肩を竦めた。

 時刻は午後五時。

 当直の隊員が出勤してくる時間だ。


 真澄のデスクにコーヒーの入ったマグカップを置いた青年は、父親似の目元に柔和な笑みを浮かべて頷いた。こげ茶色の髪がはらりと揺れる。


「今日の巡回は新橋方面でよろしいですか?」

「ああ、方位盤の反応もそこが昨日から強いから、そろそろかとは思う」

「了解です。では、グリーフィングはそれで行きますね」

「頼む」


 にこりと微笑み、青年ー柏木海静かしわぎかいせいは敬礼して真澄のデスクから離れていく。

 四年前の入隊した時よりも背の伸びた青年は、すっかりこの特夷隊の副隊長らしく成長した。

 今では隊長である自分の補佐も抜け目なく行なってくれていて、却って申し訳なく思う時もある。


「海静の奴すっかり副隊長が板について来ましたね」


 海静同様に今晩の宿直である隼人は、真澄のデスク横に立ち、資料を纏めている若者の背中を誇らしげに見つめた。


「最初は十七歳の餓鬼が副隊長って思いましたけど、大統領の人選は間違ってなかったようですね」


「軍隊経験のない未成年、それも自分の息子を副隊長にって押した時はそれなりに周りの反感もあったが…まあ、今の成長ぶりを見ればあの人選は間違ってなかったと思えるよな」

 隼人と二人頷きあい真澄はデスクから腰を上げる。

「さて、巡回前のグリーフィングだ」


 日が落ちはじめ、朝から降ったり止んだりを繰り返す雨が、再び降りだしてくる中、真澄は執務室に隊員を集めた。


「それでは、これから夜間巡回のグリーフィングを始める。海静、司会進行を頼めるか?」


 資料を配っていた海静は、唐突に真澄から振られて手を止める。


「え、俺が?」

「仮にも副隊長だろ。俺もいつ急用で休む事になるか分からないしな。そろそろ独り立ちも兼ねて色々仕事を分担してもらいたい。いつまでも子供扱いはしないぞ」


 ニヤリと笑う真澄に海静は背筋を正す。その表情には期待と不安が混在している。


「ありがとうございます!全力で頑張ります」

「よし、では今日の部隊編成と現状の報告からだ。いつも俺や隼人がやっているようにやってみろ」

「はいっ」


 興奮気味に返事をした海静は資料を手に深呼吸をする。

 特夷隊が発足し、父親である柏木から隊の副隊長を命じられて早四年。

 これまでは未熟で副隊長とは言えど形ばかりだった。

 それが、ようやく認められた。その事実に海静はいつになくやる気を出した。


「それでは、皆さんグリーフィングを始めます。まずは今回の巡回の編成ですが、月代さんは先日ご結婚されたのでその休暇で応援は頼めません。それから…宮陣さんですが、本家のある祭事部から別件の仕事要請があったとの事で、今回は外れています。日勤は九頭竜隊長、宿直は自分と赤羽さん。東雲さんは大統領の護衛任務ですが、人数が足りない為終わり次第合流する事になっています」


 淡々としつつ簡潔に編成を伝え、海静は今度は背後にある黒板に貼りだした軍都・東京の地図を示す。


「今夜の編成は自分と赤羽さん、九頭竜隊長と東雲さんの四人。巡回地域は新橋地区。怪夷の発生の可能性は中。方位盤の示しでは陰の気は集まりつつありますが、発生するかどうかの域には達していないと出ています。今回は警戒レベルで出現に備えての巡回…という事でよろしいでしょうか」


「ああ、いい見立てだ。それで行こう」

 ちらりと、大丈夫かと視線で聞いてきた海静に真澄は苦笑しながら頷く。

 途端に、海静の表情が明るくなった。


「出発は一時間後の午後七時半。夏至の前で日没が遅いですが、目的地に着く頃には日も沈み切っています。雨が降っていますので、武器の扱いには気を付けて下さい。それでは、今宵も宜しくお願い致します」


 スッと背筋を伸ばした敬礼をする海静に真澄と隼人も敬礼を返す。

 いつになく自信に満ちた海静の表情が真澄は誇らしくて仕方がなかった。

 実の息子同然でずっと見守ってきた海静の成長を真澄は心から喜んでいた。


(最初は幼馴染の息子を預けられるのに心配もしたが…今の海静なら問題ないどろうな)


 隼人と地図を見ながらルートの確認をしている海静の後ろ姿は、今や立派な成人男子だった。

 父親に似た聡明さと決断力の良さは、日を追うごとに磨きがかかっていく。

 隊長である自分より、潔い決断の出来る彼の将来に真澄は期待もしていたのだ。


(隊長の座を譲る日も近いかもしれないな)


 口端を釣り上げ、1人肩を揺らして真澄は逞しく育つ青年の背中を見つめた。






 朝月が合流した頃。

 グリーフィングで提示した出発時間になった。

 大統領府のある原宿の詰め所を出た真澄達は、降りしきる雨の中、東側を目指す。


 新橋の付近は四年前の大震災の際、焦土と化し、今も復興の為の整備が行われている。

 夜ともなれば人はまばらで、初夏にも関わらずどこか寒々としていた。


 焼け出され、残された煉瓦の残骸に雨が当たり、ひんやりとした空気が街の中を包み込んでいる。

 隣接する汐留はかつて東海道の起点であったが、東京駅が建設されて以降は貨物列車専用の駅となり、旅行者が行き交う風景は今では見られなくなった。


「昔は割と賑わってたんだけどな…」


 雨除けの外套に着いたフードを持ち上げ、朝月は人気のない新橋地区を見渡して肩を竦める。


「あの大地震でこの辺りもだいぶやられたからな…」


 かつての様子を思い出しながら隼人は朝月の言葉に同意する。


「復興もなかなか進まないし…どうすんのかね」

「そこは、大統領に頑張ってもらわないとな。あれだけの被害だ、十年でやっとだろうな」

「そうですね…父もその辺は考えていると思いますよ」


 未だ瓦礫の残る街中を歩きながら四人は周囲の警戒に当たった。


「海静、八卦盤はっこばんの様子はどうだ?なんか反応あるか?」


 真澄から先頭を歩くよう言われた今宵のリーダーである海静は隼人に聞かれて、上着の内ポケットから掌サイズの八角形の道具を取り出した。

 陰陽の模様と東西南北が施された方位磁石に似たその道具は、怪夷の気配を感じ取る事の出来る呪具。

 中央で小刻みに動く針を見つめ、海静は眉を顰めた。


「特に反応はないですね…方位盤の見立てだと、この辺りなんですけど…」

「ホントだ。全然針動いてねえな」


 海静の手元を覗き込み朝月は八卦盤の針が動いていない事に小首を傾げた。


「方位盤は大まかな位置しか示さない時もあるからな…取り合えず二手に分かれて重点的に巡回してみるか。午後八時か…よし、二時間して反応がなければ一度帰還する」

「了解」


 懐中時計を確認して指示を出す真澄に三人は応じ、真澄と海静はに新橋地区の汐留側を、隼人と朝月は烏森の方面へと歩き出す。

 二手に分かれた四人は、八卦盤を手に周囲の巡回を開始した。

 時間が立つ毎に雨脚は強くなり、視界を白銀のカーテンが覆っていく。


「凄い雨だな...」


 雨脚の強さに視界を奪われた真澄と海静は近くの廃墟となった建物の軒先に身を寄せた。


「もう直ぐ梅雨も終りなのに...今年の織姫と彦星は会えないかな」


 日が沈み、厚い雲に覆われた空を軒先から仰ぎ見て、海静は溜息をつく。


「親父と違ってロマンチストだな」

「父と比べるのは勘弁してくださいよ...俺はあの人みたいに変人じゃないです」


 突然の真澄の指摘に海静は頬を膨らませた。今年で二十一になる青年だが、未だに子供っぽい所は残る。


「褒めたつもりなんだけどな。アイツは文学系は認めてはいても軟弱だとか言って読まないからな。読んでも、私ならこうするとか酷評ばかりだった」

「父らしいですね。俺は尾崎紅葉とか泉鏡花とか好きですけどね」

「個人的には小泉八雲をオススメしておくよ」

「怖い話はちょっと...」

「そうか」


 眉を垂らす海静の感想に真澄は苦笑する。

 任務中だが、このささいな会話は真澄にとっても海静にとっても大切な時間だった。


「それにしても、全然反応ありませんね...」


 八卦盤を見遣り海静は周囲の気配を探る。

 かれこれ二時間近く、巡回をしているがこれと言って動きはない。


「今夜は当てが外れたかもな。雨も強くなってきたし、一端詰め所に戻るか」

「そうですね。赤羽さん達の方からも連絡ないですし...」


 もし怪夷の発言があれば、互いが持っている通信機に連絡が入る手筈になっている。

 それすらないという事はあちらも空振りだろう。


「海静、二人を呼び戻してくれ。合流次第戻るぞ」

「はい」


 真澄からの指示に海静は外套の内側に入れていた通信機を取り出し、隼人達に連絡を取る。


「こちら柏木。一度帰還する。合流せよ。繰り返す...」

 赤羽が持つ通信機に通信を取っていたその時だった。


「隊長っ!」


 ズズっと、暗闇の中で何かが蠢く。

 丁度真澄の真後ろで鎌首を持ち上げたその存在に海静の身体は咄嗟に動いていた。


「海静っ」


 海静が抜いた軍刀が真澄に振り下ろされた錐のような鋭い角を受け止める。


「くっ」


 ギリギリと金切り音を立てて受け止める錐を海静は力任せに弾き返した。

 後方へ跳び、態勢を立て直す。


「海静、赤羽達が合流するまで無茶はするな」

「はい」


 同じく軍刀を抜いた真澄は、正眼の構えを取ったまま怪夷を牽制する。


 雨に打たれ、そこに佇むのは巨大なミミズのような長く太い身体に、額に錐のような角を生やした怪夷。顔全体を円い口が覆う異様な姿は、化け物と形容するに相応しい。怪夷特有の漆黒の身体に禍禍しく光る紅い双眸が、より一層不気味さを強調する。


 怪夷の研究が進んでも尚、怪夷の発生には未知数な部分があり、今回のように突如出現するパターンも珍しくはない。


 だが、当然であっても怪夷が発生する際には陰の気が強くなり、真澄達が携帯する八卦盤も強い反応を示す。

 それがない中現れた怪夷はまさしくイレギュラーと言っていい。


(既に発生していて、知らず知らずのうちに近付かれていたのか...)


 円い口に無数に生えた鋭い歯を向きだす怪夷を真澄は観察する。奴の出所は分からないが、怪夷が現れた以上倒すのが自分達の仕事だ。


「隊長!」


 背後から駆けつける軍靴の音と共に、銃声が迸る。

 怪夷を中心にした四方を囲むように、隼人は手にした二丁の拳銃の引き金を引く。

 離れた銃弾は怪夷の撃ち込まれる事無く、地面へと食い込んだ。直後、四つの銃弾が呼応するように光り出したかと思うと、四角形の結界を結んだ。


「赤羽、朝月」

「旦那っ海静っ無事か⁉」


 駆けつけるなり、隼人が張った結界に更に札を飛ばして、朝月は真澄と海静に駆け寄る。


「なんだよあの気持ち悪いのっいつ発生しなんだ?」

「すみません。八卦盤に反応はなかったんですが...」

「唐突な発生は例がない訳じゃない。朝月、海静、一気に叩くぞ。赤羽っ援護を頼む」

「了解」


 結界の外で二丁の拳銃を構えたまま結界に尽力する隼人へ真澄は指示を出す。

 二人の若者を交互に見遣り、真澄は軍刀の切っ先を怪夷に向けた。

 外套を脱ぎ捨て、三人は左右と正面から怪夷へと迫る。


「おらあ」


 水に濡れた地面を蹴り、大きく跳びあがった朝月の鉄扇が怪夷の太い胴体を打ち付ける。

 強烈な打撃に、怪夷の身体がぐにゃりと歪む。


「はあっ」


 朝月に続くように、怪夷の右側から斬りこんだ海静の一閃が、怪夷の太い身体を切り裂く。漆黒の液体が、雨の中に飛び散った。


 ギイイイイイイイイイイイイ!


 鼓膜をつんざく方向に、顔を歪めながら朝月、海静の打撃と剣戟が交互に続く。二人をフォローするように、真澄の軍刀が痛みに暴れる怪夷の尻尾を抑え込んだ。


(図体の割りにどうにかなりそうだな)


 単調な動きで向かってくる怪夷を俯瞰し、海静は胸中で呟いた。

 隼人の援護射撃の銃弾が怪夷の身体に幾つも食い込み、朝月の打撃に海静と真澄の斬撃を受け、既にミミズの姿をした怪夷は全身から黒い体液を流して、満身創痍だった。


 真澄の軍刀が、怪夷の尻尾を切り落とす。天に轟く怪夷の咆哮と大量の体液が雨の中に混じる。


「よし、海静、核を狙え」

「はい」


 真澄の後押しに頷き海静は軍刀を握り直し、最後の締めである怪夷の心臓部“核”を破壊する為に海静は怪夷の懐に一気に踏み込んだ。


 今回の巡回は、自分にとって意味のあるモノだった。

 これで、ようやく名実ともに特夷隊の副隊長として胸を張れる。

 自分を指導し育ててくれた真澄に、自分を抜擢してくれた父親に、そして。



『お兄ちゃん、頑張ってね』



いつも励ましてくれた妹に誇らしい自分の姿を見せられる。


(俺は、もう一人前だ)


 口元に笑みを浮かべ跳びあがる寸前、海静は視界の隅で何かが動くのを見た。

 見てはいけなかったのかもしれない。それに気づいてしまった事に、一瞬だけ後悔した。

 だが、次の瞬間には標的を変更して叫んでいた。


「隊長!」



 ザシュ…

 肉の裂ける音が、降りしきる雨の中に残酷に響き渡る。


「…あ…」


自分を押しのけるように覆いかぶさった海静を見遣り、真澄は言葉を失った。

左腕の肩から先が引きちぎられ、制服が破れた場所が赤黒く変色している。


一瞬、何が起こったのか真澄は理解していなかった。

自身が切り落とした筈の尻尾の部分が別の個体となった鎌首を持ち上げたのには気づいていた。

切り落とされた箇所から本体と同様の錐に似た角が生え、迫って来たそれを軍刀で弾き返したが、水たまりに足を取られ、バランスを崩した。


視界が反転した途端、自分を呼ぶ叫び声が聞こえたと思った時には、真澄の身体は横に突き飛ばされていた。

今、眼前にあるのは苦痛に眉根を歪めながらもいつもと変わらぬ笑みを浮かべた部下の顔。


「隊長…良かった…」

「海静っお前っなんて無茶を!」

「すみません…勝手に体が動いてました…」


 乾いた笑い声を零し、大丈夫だという事を証明したくて、右手に握った軍刀を支えに立ち上がろうと海静は力を込める。


「隊長!海静!後ろ!」


援護射撃に後方から全体を見つめていた隼人の緊迫した叫びが2人の耳に届く。と同時に海静の背後から鋭い錐が突き刺さる。


「ぐはっ」

「海静!」


 風を纏って月突き出された錐が、海静の身体を深々と貫く。軽々と宙に浮きあがった海静の身体を追った先に映りこんだのは、海静の身体を串刺しにしたミミズ型の怪夷の本体。


「くそっ海静を放せ!」


 鉄扇を手に、朝月は怒りに任せ仲間を救うべく怪夷目掛けて駆けていく。


「朝月っ無茶だ」

即座に体制を立て直して真澄も朝月の後を追う。

 海静を救う為跳びあがろうとした朝月を真横から吹いた突風が弾き飛ばす。


「朝月!」


 弾き飛ばされた朝月は、辛うじて受け身を取り、地面を這うような姿勢で制止した。


「なんだよあれっ」


 真澄と隼人の前を横切ったのは、黒い狼のような姿をした新たな怪夷。


(二体目がいたのかっ)


「赤羽っ」

「分かってるっ」


 新たな敵の出現に隼人は二丁拳銃の銃口を狼型の怪夷にスライドさせる。

 撃ち出された銃弾を素早く交わした狼の怪夷は一直線に大地を蹴って跳びあがる。

貫かれた海静の身体をミミズの怪夷から奪い去るように、その身体に食い込んだ錐をかみ砕き、器用に咥え込んだ。


「アイツ、海静を連れてくつもりか」

「このっ」


 海静の身体を咥えたまま、身軽に地面に降り立った狼の怪夷はそのまま現れた時同様に、風を纏って走り出す。

 雨の中を駆け抜ける狼の怪夷に隼人は銃弾を撃ち込む。だが、身体を銃弾が掠めようとも狼の怪夷はお構いなしに海静を咥えたまま夜の闇の中へと消えて行った。


「くそっ待ちやがれ」

「赤羽!深い追いするな」

「けど!」

「今はもう一体の討伐が先だ」


 突如現れた怪夷によって錐状の牙を噛み砕かれ、その激痛にのた打ち回っていたミミズの怪夷は、怒りに任せて真澄達への攻撃を再開する。

 真澄に制止され、隼人は己の気持ちをぐっと押さえて銃口を再び標的に向けた。


「朝月!お前がやれ」


 立ち上がった朝月に真澄は指示を飛ばす。

 それに答える形で朝月はぬかるんだ地面を一気に駆け抜けた。

 真澄と隼人の援護を受け、朝月の鉄扇が怪夷の額、錐のような角の上に埋め込まれた赤黒い石を砕いた。


 断末魔の咆哮を張り上げて、怪夷の身体が黒い灰へと変わっていく。

 雨に混じるように落ちて来た灰を、三人は漠然と見つめた。




「…そうか…ご苦労だったな…」

「何が、ご苦労だっただよ…」


 ミミズ型の怪夷討伐の後、真澄達は海静を連れ去った狼型の怪夷の捜索を行った。だが、結局行方は分からず、海静の行方も分からなかった。

 唯一残された最初の怪夷によって千切られて残った海静の左腕だけを持って、真澄は報告と共に柏木の下を訪れた。


「お前、仮にも自分の息子の生死が分からない状態で…その状況を作ってしまった俺に恨み言の一つもなしかよ!」


 ここに来るまで真澄は親友たるこの男に殴られる覚悟はしてきていた。

 大事な息子を護れなかった自分に怒りや憎悪を向けてくるものと予想していた。

 だが、話が終わった後に帰って来たのは、なんとも素っ気無い業務報告を受けた時と同じ、労いの言葉。


「九頭竜隊長、君も知っての通り怪夷討伐は命懸けだ。幕末の大災厄から今日まで一体どれ程の人間が怪夷に殺されてきた?それは、英雄の子息であるお前の方が知っている筈だ。欧羅巴での戦線も、多くの血と涙が流され数多の犠牲を払った。今更一人や二人、殉職しても大した事はない…」

「お前、それでも父親かよ!」


 あまりに淡々とした柏木の物言いに、真澄は拳を握り締めた。今にも殴ってやりたい衝動に駆られ、それを必死に抑えこむ。


「海静の事は私も悲しいさ。だが、自らあの子を特夷隊の副隊長に任命している以上、親子の情は当に捨てた。いずれこうなるかもしれないというのは、覚悟していたしな…」

「柏木…」

「九頭竜隊長、直ぐに新たな副隊長と欠如した人員の補充を検討してくれたまえ。柏木海静副隊長は殉職で処理する」


 父親ではなく、大統領としての顔で真澄に告げた柏木は、ゆっくりと椅子から立ち上がる。


「…すまなかったな。アイツの為に泣いてくれるお前には感謝している…私は、海静には厳しいからな…」


 真澄から顔を逸らし、柏木は微かに震わせた声で呟いた。

 それが、この男の本心だと気付くのに時間はかからなかった。

 何か言葉を紡ぐより先に、柏木は真澄の横をすり抜けて執務室を出ていく。

 乾いた音を立てて閉まった扉を振り返り、真澄は唇を噛みしめた。








 降りしきる雨粒が、激しく窓を叩く。

 とうに就寝時間を向かえ、部屋の主は床に就いていた。

 梅雨明けも迫ったこの時期に振る雨は、まるでこれから訪れる厳しい季節を乗り越える為の祝福のように、大地に染み込んでいく。

 打ち付ける雨音が、いつしか規則正しく打ち付けて、眠っていた部屋の主は突如目を開けた。


 まだ女学校に通う学生である少女は、ゆっくりと身体を起こすと、虚ろな視線を窓辺へと向けた。

 薄暗い部屋の中、彼女は誰もいない窓辺に向かって微笑み掛けた。


「お兄ちゃん...やっぱり帰って来てくれたんだね...」


 招くように、引き寄せるように手を伸ばす少女の瞳から、一筋の涙が零れた。

 蠢く影を掴もうと、少女はベッドを降りて歩き出す。

 自分でも無意識のうちに、彼女は黒い影に導かれるように部屋を出て、玄関のある一階へ向かって階段を下りていく。


七海ななみ?」


不意に呼び止められ、七海は夢から覚めたように大きく目を見開いた。

 振り返ると、そこには寝間着姿で書斎から出て来た父親の姿があった。


「どうした?こんな夜中に…」


訝しみながら尋ねられ、七海は目に涙を浮かべて唇を開いた。


「お父さん、お兄ちゃん帰ってきたよ…」








※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




次回予告



朔月:さて次回の『凍京怪夷事変』は?


暁月:晴れて特夷隊の入隊を果たした南天と鬼灯。真澄は2人に初任務への同行を命じる。

そこで2人が目にする特夷隊の任務の全容とは?


朔月:第12話『指針が示す先へ』次回も、よろしく頼むよ?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る