五話 黒き蝶々の楽園(エデン)

「こんにちは」


 バイト先の喫茶店に到着すると、店長にそう言って奥に入った。

 喫茶店に来るたびに、バイトの面接で来たときのことを思い出してしまう。

 軽くトラウマレベルなのだから仕方ない。



 その日、俺は学校帰りではなく休日に、少し緊張した面持ちで喫茶店への道を歩いていた。

 ちょっと道外れにある、隠れ家のようなその喫茶店は、ちょっとした穴場のような風格があった。

 そうして、バイト先になる喫茶店に入ると、


「えっと、バイトの面接の子かな? それじゃ、奥の部屋で待っててよ。すぐに行くからさ」


 パッと見小学生、いや、ある部分、具体的には胸部だけが異常に発達してる子に、そんなことを言われた。

 そんな彼女を、俺は店長の娘さんか? なんて、能天気に思いながら店の奥に行った。

 そして、そこで俺はフリーズした。

 なぜなら、そこにはがあったから。

 奥の部屋と言われたけど、二つあるぞ。

 これはいったい、どっちが正解だ?

 いや、どっちでもいいのか?

 正直、なにかヒントがあるわけでもない。

 扉の近くになにか書いてあるわけでもない。

 とりあえず、手前の部屋から入るか。

 そう思い、手前の部屋のドアノブに手をかけ、扉を開けて入る。

 すると、そこにはなんの悪戯イタズラか、ラブコメの神様によって作り出された楽園ユートピアが 広がっていた。

 そう、そこには着替え途中の一人の女の子がいたのだ。


「ああ、店長さん。もうすぐ着替え終わりま、す、ので……」


 そして、なんと不運なことだろう。

 彼女はしっかりと、俺のことを視認してしまっているではないか。

 もはや、言い訳のしようがないどころか、この状況、通報されかねない。

 なんて、思ったときには彼女はこう叫んでいて、俺は土下座をする代わりに、急いで扉を閉めて謝っていた。


「キャァァァァァ…………っっっ!!!」

「ごめんなさいぃぃぃぃぃ…………っっっ!!!」


 けど、時すでに遅しらしく、推定店長の愛娘は両手に鉄製のお盆どんきを持って、それを俺の頭に目掛けて振り下ろしていた。

 俺はこのとき、終わったと思いながら、全てを諦めた。



 それから、どれほど時間が経過したのか、俺が目を覚ますと、そこには見たこともない天井ではなく、普段はここまで間近で見られることのないものがあった。

 そう、それは大きな女性の胸部。

 しかも、頭は柔らか温もりのそれに囚われ、俺はそこで思考を辞めた。

 そして、起きなかったことにして、現実リアルの夢から夢の世界まぼろしへと誘ってもらおうとしていると、こう言われた。


「起きたなら、そこから退いてくれると助かるよ」


「…………」


 とりあえず、ここは無言を決め込むことにする。


「あれ? 気のせい?」


「…………」


「本当、肩は凝るし、疲れるよ~」


 そう言うと、顔が下からの温もり柔らかいと、上からの温もり柔らかいに包まれて、もはやそれは幸せの絶頂だった。

 ゴソッ……。

 その結果、俺は思わず動いてしまった。


「…………」


「…………誰か、でも持ってきてくれないかな~」


「すいません、起きてました」


 俺は、すぐに体を起こして、彼女の目の前に立つ。

 決して、物騒な言葉に反応したわけじゃない。

 もともと、すぐに起きるつもりだった。

 ただ、少しの間、寝転がっていただけだ。

 けど、まさか彼女が推定店長の愛娘だったとわ。


「はあ、本当に男子ってのは……。まあ、いいか」


「あの、そういえばバイトの面接って……」


 そして、今更のようにバイトの面接のことを思い出す。

 そもそも、今日はそれが目的でここに来たのだ。


「ああ、バイトの面接ね。それなら、とりあえず合格にしとく。実際に働いてもらわないと、意外とわからないしね」


「そうですか……」


 半ば諦めていただけに、なんだか安心した。

 あんなことがあった後だから、合格すると思う方がおかしい。


「それに、今回は私も悪かったからね」


「あの、あの子って……」


「バイト。それと、どうせそこにいるんでしょ?」


 そう言って彼女は扉に近づいて行くと、本当に居たらしく、


「あ、あの、私は、その……」


「そんなところで見てないでこっちにいらっしゃい。バイトはもう一人いるし、隠れてサボるな」


「すいません」


 そんなやり取りをしている。

 けど、そんなことは俺にとってはどうでもいい。

 だって、それ以上にすることがある。


「その、ごめんなさい」


「ほら、別に彼は悪い人じゃないよ」


「…………はい」


「それに、私もうっかりしてたしね。とは言ってたから、彼も悪いんだけどさ」


「奥の部屋……?」


 確かに、それは言われた。

 けど、それはあの場所のことで……。


「手前の部屋に入ったでしょ、君」


 なるほど、最初から言ってたわけだ、奥の部屋と。

 わかりづらいわっ!


「そんなわけで、とりあえず彼は採用するけど、いいかな」


「はい。私は、がいいのなら」


「えっ? 店長? どこですか?」


「いや、私のことだよ」


「えっと、はい? 店長の娘さんじゃ──」


「私が店長でありオーナー! 今回の君はそうくるか~……っ!」


 つまりは、このパッと見小学生の子が店長だということだ。

 この、胸部以外は小学生の彼女が。


「この小学生みたいのが、店長だったなんて……」


「君、それは禁句だから。次、そんなこと言ったら、クビにしちゃうぞ?」


 とびっきり可愛いその笑顔は、ただただ恐怖でしかなかった。明らかな殺気を感じる。


「すいませーん。人手が足りてないんで、早く来てくれませんか?」


「あっ、ごめん。今すぐ行くね」


 そう言うが早いか、女の子は行ってしまった。

 そして、その後は普通に、店長と喫茶店の制服のサイズの話をし、制服が届いてからシフトに入ることになった。

 そうして、全て終わる頃には夕方になっていた。



 とまあ、こんなことがあれば、そう簡単に忘れることなんかできやしない。

 正直、楽園エデンのことについては、忘れるつもりはない。


「そこ、そんなところでボーッとしてないで、早くフロア入れよ」


「あっ、店長」


「君がフロアに入ったら休もうと思ってたのに、中々来なくて見に来たら。また、思い出してたの?」


「あはは、すいません」


「衝撃的だったことは否めないしね。とにかく、早くフロアに入ってよ。今日は君しかいないんだから」


「わかりました」


 そんなわけで、俺はとっとと制服から制服に着替えてタイムカードを切ると、店長と交代するように戦場フロアに出た。


 ✻


 それから、数時間。

 きっちりと扱き使われ、ヘトヘトのグダグダになった可哀想なアルバイトが一人、奥の部屋もとい休憩室に横たわっていた。

 ああ、あのときはここで膝枕だったのかー、なんてことをしみじみと思っていると、膝枕をしてくれた張本人こと、俺を一撃で気絶させた店長がノック一つせず入ってきた。


「店長。さすがにノックしてくれませんか? 一応、俺は年頃の男の子ですし」


「はあ……。君は女の子みたいなことを言うね。それに、着替えてないのぐらいわかってるからね」


「そうですかー」


「そうそう、君をご指名する女の子の登場だよ」


「いや、一人目は妹ですし……」


 それにしても二人目か。

 嫌な予感しかしない。

 そもそも、俺の知り合いに女の子など、まず多くない。

 そして、その中で俺に関心を持っている女の子となると、ほぼ皆無。

 たぶんだが、指名したのは幼馴染の陽葵ひなではないだろうか。

 俺のことを色で見てる彼女なら、近くを通ったときに、俺の色が見えただけで店に来るイメージがある。

 はあ……。

 また一人、俺のバイト先に来るやつが増えたのか……。

 正直なところ、ただでさえ妹で手一杯になってる俺にとって、それは追い打ち以外のなにものでもない。

 なんなら、妹とのダブルブッキングになってみろ。

 最悪とか悪夢を通り越して、そこにあるのは絶望だけだ。


「とにかく。かわいい女の子が君をご所望なんだから、とっととオーダーを取りに行って来る。こんなところで油なんか売ってないでさ」


 正直、今日だけで一生分は働いた気がするのだが、どうやら俺の休憩はここまでらしい。


「わかりましたよ。それじゃ、行ってきます」


「ああ、そうそう。今日はその人が最後だから。少し早いけど、ご苦労さま」


 そう言って、店長は休憩室から出ていった。

 なるほど。もう帰っていいよ、ということか。

 それから、俺は制服から制服に着替えて、今日最後のオーダーを取りに行った。

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