渡り鳥の眠る時編

 遂に、私にも死期が近づいて来たようです。

 腰は痛いし、昔のような美声は出ないし、歌詞も忘れっぽくなり、もう年なのだと悟りました。

 このまま野垂れ死ぬのだろうか。そう考えた時、せめて死ぬ時は柔らかいベッドの上で死にたい。そう考えるようになりました。

 おかしな話ですよね。あんなに頑なに自由な鳥でありたいと願い続け、身持ちも固めずにふらふら舞っていた私が、死ぬ時はベッドの上でだなんて。

 その時、ふと頭をよぎったのは、私が人生で最も愛した女性。画家のエマノエルこと、クロエの存在でした。

 クロエは画家として成功し、大きなお屋敷に住んでいます。彼女がまだ生きているなら、一目もう一度会いたい。ぎゅっと、懐かしさと恋しさが胸を締め付けました。

 でも、あんな別れ方をしたのに、今更虫が良すぎるだろうか。

 迷いましたが、会いたい気持ちが止まらなかった私は、誘われるようにふらふらと、彼女の自宅へ足を向けました。


 彼女の自宅は、今もその場所に建っていました。どうか、彼女がまだ健在で、この家に居ますように。祈るような気持ちで、ドアを叩きました。

「ごめんください、こちら、画家のエマノエルさんのお宅でしょうか?」

 返事がありません。私は、何度か声をかけ続けました。

「ごめんください」

 すると

「煩いねえ、今取り込み中だよ!」

 と、中から老婆が出てきました。

「確かに昔はエマノエルと名乗っていたけど、あたしゃクロエ婆さんだよ。何だい、古い馴染みかい?」

 不機嫌そうに出てきたその老婆は、そう名乗りながら私の姿を見ると、目を見開きました。

「クロエ、あなたまだご顕在だったのですね。私です、アルヤです。本名はレオナルド。忘れてしまいましたか?」

 私が名乗ると、彼女は顔をくしゃくしゃに歪め、泣きながら私を抱きしめました。

「レオナルド!!あんたまだ生きていたのか!!忘れてなんかないよ、懐かしいねえ、久しぶり!!ああ、神様、生きててよかった!!」

 私もすっかり涙脆くなってしまい、泣きながらクロエを抱きしめました。

「私も、あなたが生きててよかった。何度も、ダメかもしれない、やめようかと、迷ったんですが」

「お茶!!お茶飲んでってくれよ!!話したいことがいっぱいあるんだ!!」

 そう言うと、クロエは私を家に招き入れてくれました。


 私たちはお互いの空白の時間を語り合いました。いくら語っても話が終わりませんでした。彼女は途中で夕食の支度をしながら、共に夕餉を食しながら、それでも話が終わりませんでした。

 彼女はあれから、一人の貴族と結婚したそうです。そんなに楽しい人生ではなかったけれど、子供も二人生まれ、長男は戦争で失い、長女は遠くの国に嫁いだそうです。

 五年前に旦那様は亡くなり、今はクロエ一人の人生を謳歌しているそうです。

「長男を失った時は世界を呪ったもんだけど、娘は幸せにしてるし、あたしも自由に絵を描いてるし、まあ、まずまず幸せさね」

「それは波乱の人生でしたね。でも、ご結婚されてお子さんもいるなら良かったです。私と別れてよかったでしょう」

 私はほんの少し嫉妬を交えたのですが、クロエはそれに気づいたのでしょうか?

「何がよかったもんかい。そんなに楽しい人生ではなかったって言ったの、聞こえてたかい?」

 と、謙遜しました。

「あんたと結婚してたらどうだったんだろうねえ。養子でももらったんだろうかね?」

「結婚してみたかったですか?」

 クロエは恥ずかしそうに、

「そうだねえ、結婚してみたかったねえ」

 と、言いました。私は、少し嬉しくなりました。そんな自分の気持ちに気づいて、私はやっぱりクロエがほんとに好きだったのだ、惜しいことをした、と思いました。

「あんたは結局独身だったのかい」

「そうですねえ。自由に生きたかったですからねえ」

 暫し、沈黙が訪れました。堪りかねて私が切り出そうとすると、

『あのさ』

 声が重なりました。

「な、なんだいレオナルド?」

「クロエこそ、お先にどうぞ」

「あたしはさんざん喋ったから、あんたどうぞ」

 譲り合い、しばし睨み合うと、私が根負けして話すことにしました。

「クロエ、あなたが今独り身なら、死ぬ前に少し、私と結婚してくれませんか?」

 クロエは目を零れそうなほど見開きました。

「あたし……あたしも今、そう言おうかと」

「本当ですか!?ああ、ああ、クロエ……!」

 私はボロボロ泣き出してしまいました。

 彼女も顔をくしゃくしゃに歪め、顔を両手で覆い、

「こんなことって……!神様、ああ、神様……!」

 と、泣きだしました。

 私たちはわっと抱きしめ合い、泣き合いました。


 それから、私達は一緒に暮らし始めました。

 彼女の描いた絵を一緒に画商に売りにゆき、私は街角で歌のない音楽を爪弾いて小銭を稼ぎ、のんびりした幸せな日々が訪れました。

 帰る家があるって、暖かなベッドがあるって、こんなにも心穏やかに暮らせるものなのですね。

 私は彼女に感謝しました。

 彼女は遠く離れたところへ嫁いだ娘さんに、手紙を書きました。

「じいさんが死んで五年経ったから、昔好きだった人と結婚することにしたよ。今更兄弟が増えるようなことはないから、安心しな」

 すると、娘さんが娘婿と孫達を連れて血相を変えてやって来ました。

「おばあちゃん!結婚なんて急に決めないで!あたし、びっくりして飛んできちゃった!」

 そこで私は初めてクロエの家族と出会いました。

 娘さんはクロエの若い頃よりだいぶ年をとっていましたが、よく似ていました。孫達はクロエにそっくりです。娘婿は優しそうな男性で、幸せそうで何よりでした。

 私達は小さな結婚式を挙げました。

 街に根付いた画家のクロエは、街の人たちから第二の人生を祝福されました。私も暖かく迎え入れられ、私達は遅すぎる春を謳歌しました。

 誰かと一緒の床に就く日々は、なんと幸せなものでしょう。

 クロエは老いても変わらず美しい女性でした。

 私達は街に楽団がやってくると、広場に出ていって、一緒にダンスを踊りました。

 街の人たちは、爺婆の新婚さんだと冷やかしました。クロエはその度に、「うるせえよこの野郎!」と、昔の調子で言いかえしていました。


 私達の生活も何年か経ち、私ももう体が不自由になってくると、私はよく昔を思い出すようになりました。

 今までの人生、実に沢山のことがありました。

 最近のことは全然思い出せないのに、昔のことは昨日の事のように思い出せます。

 私は回顧録を纏めることにしました。

 名も無いしがない吟遊詩人の私の人生に、興味を持つ人などいないと思いますが、それなりに波乱万丈の人生、書き留めておこうと考えました。

 それから、基本は口伝とされている歌の数々も、文章に起こそうと思いました。

 私は毎日机に向かい、ペンを走らせ続けました。

 こうして書いてみると、私の人生は創作詩と同じぐらい、面白い人生だったなと感じます。

 私の作った歌の数々も、読み返してみると愛着が湧きます。

 そして隣にはいつもクロエがいる。未だ現役でパワフルに絵を描き続けている。

 私は、今、とても幸せです。




 朝、あたしがアルヤを起こしに行くと、アルヤは既に冷たくなっていた。

 右手にペンを握ったまま、眠るように固くなっていた。

 あたしはアルヤの回顧録を読んで、涙が止まらなかった。アルヤ、こんなこと1個も言ってくれなかったじゃないか。

 あたしはアルヤの作った歌の数々も読んだ。どれも心にくる歌ばかりだ。

 あたしの絵ばかり売れてもしょうがないじゃないか。アルヤはこんなに素晴らしい話が書けるんだ。これも売れるべきだよ。

 あたしはアルヤが書き残した話の数々を出版社に持ち込んだ。

 本になるかどうかはわからないけど、取り合ってくれたよ。

 そして、あたしはアルヤを墓に葬った。金はたんまりあったから、大きな墓を立ててやった。

 あたしはアルヤと結婚できて、幸せだったよ。もっと早く結婚したかったけど、そしたら子供が持てなかっただろうから、きっとこれで良かったんだよね。

 ありがとう、アルヤ。あたしもまもなくあとを追っかけるから、先に行って待ってておくれ。

 アルヤ、安らかに。


 R.I.P.

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