無性の天使編

 私がその人に出会ったのは、ある晴れた日の昼下がりでした。いつものように街の広場で詩を歌い、今日の歌はこれでおしまい、と、締めたところで、「ちょっと待ったーあ!」と、不思議な声色の声に待ったをかけられました。

「動くな!!あとちょっと動くな!!お願い、もうしばらく動かないで……」

 私は驚いて動きを止めました。観衆も声のしたほうを見やって、次第に声の主と私との間に道が生まれ、空間が生まれ、人々は消えてゆきました。声の主は、イーゼルを立て掛け、大きなキャンバスの向こう側から、チラチラこちらを覗き込んでいました。

「絵を……描いているのですか?」

「ああ。あんたの絵をね」

 その人の声は高いような、低いような、性別の判別しにくい掠れた声でした。キャンバスの向こうから顔の半分しか見えないので、どんな人かもわかりません。

 私は動くなと言われたまま、動かないでじっとしていました。

 しかし、ただ待っているのも退屈なので、リュートを爪弾き、聖歌を歌い始めました。

 ほんの気まぐれだったのですが、私の歌声は彼の創作意欲を刺激したようでした。

「おおお、いいなあ!!いいぜいいぜ!!もっと歌ってくれよ!創作意欲が湧いてきたあーー!!」

 歌い終わって、しばらく黙ってみたのですが、彼が絵を描くのを止めないので、太陽の方が根負けしてきたようで、陽が沈みかけてきました。

「あの……もう、陽が沈みますよ?私も寝床を探さなくては」

 すると、彼はやっと時間の経過に気づいたようで、

「あっ、もうそんな時間?わかったわかった、もうやめるよ。明日もここで歌うんだろう?」

 と訊いてきました。

「はい、明日もここにいますよ」

「じゃあ、明日な!俺も寝床を探すぜ!……あ!ひょっとしてあんたも宿無しかい?」

「ええ、旅から旅への吟遊詩人ですから」

 すると、彼は「やっほう!」と歓声を上げ、

「じゃあ俺とどっか泊まろうよ!一緒に寝よう!」

 と、とんでもないことを言いました。

「ええ?!あいにくですが、私にその趣味はありませんよ?私、これでも男なんです。去勢された男なんです」

 すると、彼はやはり驚いたようでした。が、しかし。

「ええ?!!女じゃなかったのか?俺も実は女だから、女同士でちょうどいいと思ったんだけど!」

 と、衝撃的な事を叫びました。じょ、女性?女流画家さん?

「貴方、女性だったんですか?」

 すると彼女は立ち上がり、キャンバスの横に立って、頭を掻きながら自己紹介しました。

「俺のことはエマノエルって呼んでくれ。まあ、正直に言うと偽名だけど。あんたは?」

「私はアルヤ。私も偽名ですけど。よろしく、エマノエル」

 さて、どうしましょうか。私は去勢されているとはいえ男ですし、一緒に泊まろうというご厚意は受け取れないような気がするのですが。まあ、エマノエルが男性だったとしても、ご厚意を受け取りたくはないですが。

「去勢、されてるんだろ?」

 私が頷くと、

「じゃあ、女同士みたいなもんだよな。俺、あんたのこともっとよく知りたいよ。一緒に泊まろう!宿代折半な!!」

 と、強引に安宿に連れ込まれてしまいました。


 宿に泊まったのはいつぶりでしょうか。私は普段路上に雑魚寝で生活していたので、ベッドに眠るのは久しぶりです。まあ、安宿なので硬いベッドですが。

 今日も疲れた、さあ寝よう。と、ベッドに乗ろうとした時、エマノエルが、

 「なあ、ランプの明かりでもなんとかなるだろ?もうちょっと続きを描かせてくれよ」

 と声をかけてきました。

 「どんな絵を描いているのですか?」

 と訊くと、彼女は絵を見せてくれました。

 描きかけだからなのでしょうが、荒々しいタッチでざっくりと形をとらえた、リュートを持つ天使の絵でした。

 「これが私なんですか?」

 「そうだよ。ここからまだまだ細かく描きこむけどね」

 「私は天使じゃありません」

 私が否定すると、彼女は、

 「いや、天使だ。あんたの歌声を聴いて、天使が舞い降りたんだと思った。芸術の神が俺に命じたんだ。『彼女を描け』ってね」

 と、真面目な顔をして言いました。

 もう少し描かせてくれ、と、どうしてもとせがむので、私はベッドに腰を掛け、ポーズを取りました。

 「大体の形が取れたらやめるからさ」

 しかし、彼女がオッケーサインを出す前に私が眠ってしまったようで、朝目が覚めたら、私はいつの間にか布団に入って眠っていました。寝た記憶が無かったので、隣のベッドに寝ていた彼女が目を覚ましてから訊きました。

 「おはよう。昨夜はごめん。あんたが舟を漕ぎ出したから、寝ぼけるあんたを布団に入れて、寝かしたんだ」

 どこまで進んだのか訊いてみると、昨夜見た時からほとんど進んでいないようでした。申し訳ないことをしてしまったのは私のようでした。

 「ごめんなさい」

 「いや、謝らないでくれ。悪いのは俺の方だよ。それに、光源が変わると描けないもんだね。やっぱり陽の光の下であんたを描くことにするよ」


 一週間の興業が終わり、私は明日にもまた旅立たなくてはならなくなりました。そのことを彼女に告げると、

 「お別れなんて嫌だ!一緒に旅をしようぜ!俺の絵、もうすぐ完成するから!」

 と、彼女が旅についてきてしまいました。

 次の町でまた一週間の興業が終わる頃、彼女の絵が完成しました。

 「タイトルは『舞い降りた天使』だ。これを売りに行くぞ」

 次の旅の目的地は、画商のいる大きな町に決まりました。

 エマノエルはその街の画商と古くからの馴染みだったようで、画商はエマノエルの新しい絵を驚きと歓声をもって迎えました。

 「どうしたんだいエマノエル!今回はまたガラッと画風を変えたな!珍しいじゃないか、お前が宗教画を描くなんて!」

 「へへっ!急に俺の前に天使が舞い降りたんだよ!」

 「これは売れるぞ!次もこのモチーフで描いてくれ!」

 画商はその絵に高値を付けてくれました。思いがけない収入に気を良くしたエマノエルは、飛び上がりながら私に駆け寄り、

 「そういうわけだから、また頼むぜ、相棒!」

 と、私に抱きつきました。


 「エマノエル、次はどんな絵を描くんですか?」

 「もう構想はできてるぜ。ズバリ、ヌードだ!」

 私は全力で断りました。

 「絶対嫌です!言ったでしょう?私は去勢された男なんです!醜いですよ!」

 するとエマノエルは嬉々として言いました。

 「そこがいいんじゃねえかよ!男でも女でもない存在。まさに天使だ!」

 「そんな綺麗なもんじゃないんですってば!絶対脱ぎませんよ!」

 「大丈夫だって!これは芸術だから!芸術だから恥ずかしくないぜ!頼むよ、脱いでくれよ!」

 「嫌です!」

 しばらく追いかけっこをしていると、彼女が根負けする前に、私の体力が尽きてきました。足がもつれて転んだところで、遂に彼女に捕まってしまいました。

 「つーかまえた。はあ、はあ、逃がさないぜえ……」

 「ひえええ……!」

 私に覆いかぶさって服を剥ぎ取ろうとするエマノエルはとても女性とは思えませんでした。怖い!

 でも、きっと彼女も私の古傷を見たら、嫌な気分になって諦めてくれるはず。抵抗する余力も残っていなかった私は、されるがままになって、大人しく裸にされました。しかし。

 「美しい……」

 彼女の口から洩れた言葉は、私の予想とは正反対の言葉でした。

 「醜い、でしょう?」

 「いや、その歪な形が、美しいよ。痛々しさと、生命力からの、造形美を感じる」

 あまりにもまじまじと見つめられたので、私は恥ずかしくなって、慌てて隠しました。そんなに見られたら、いくら不完全な私でも、膨張してしまいます。

 「もっとよく見せてくれよ!観察しないことには、絵に描けないだろ!」

 「そんなに観察しないでください!私は石像じゃない、人間です!生きてるんです!その、私だって、反応してしまいます……」

 エマノエルは私の言わんとしていることが理解できないようでしたが、しばらくして「あっ!」というと、「ごめん、もういいよ」と、私を押さえつける手を放してくれました。

 「でも、決めたよ。やっぱりあんたのヌードを描きたい。タイトルは、『無性の天使』だ。大丈夫。恥ずかしくないように、人気のないところで裸になってもらうから」

 私がどんなに拒否しても、彼女は諦めてくれませんでした。「これは芸術だから」それが彼女の口癖になり、私は肌寒い思いをすることになりました。


 この新しい絵も、画商は甚く気に入ったようでした。そして、前回の絵の評判も興奮気味に語りました。

 「今回もまた素晴らしい出来じゃないか!あの絵はあっという間に売れたよ!もっと値段吊り上げておけばよかったよ。いやー素晴らしい、この天使のシリーズは。もっと描いてくれ!どんどん高く買ってやるから!」

 今回はさらに高値で売れたようです。有頂天になったエマノエルは、私をちょっといい宿に泊めてくれました。


 二人で旅をするようになって初めてのふかふかのベッド。私たちは、ベッドに背中から飛び乗って、お腹がよじれるほど笑いました。

 「まさかあんな高値で売れるとは思わなかったぜ!さいっこうの気分だ!!」

 「私も嬉しいですよ、エマノエル。まさか私がそんなに受けるとはね!」

 「アルヤ様様だぜ、相棒!!あんた本当に最高だよ!!まさに俺の天使だ!」

 エマノエルは私のベッドに飛び乗ってきて、私に覆いかぶさり、キスをしてきました。

 「エマノエル?」

 私が驚くと、彼女は、

 「俺、本当はクロエっていうんだ。クロエって呼んで」

 と言いました。なんだか私も改めて名乗らなければならない気持ちになり、

 「私はレオナルドです」

 と、名乗りました。

 「意外に男らしい名前なんだな」

 「貴女こそ、意外に可愛らしい名前ですね」

 私たちは笑い合いました。

 「どうしてエマノエルなんて名乗ったんですか?」

 私が訊くと、彼女は、

 「昔好きだった人の名前を取ったんだ。女流画家じゃ売れないから、男になる必要があった」

 と言いました。なぜだか、私の心がちくりと痛みました。


 正直に言いましょう。私は彼女のことが、クロエのことが、好きになっていました。

 アガサのことは好きでしたが、アガサはどちらかというと妹のような存在で、私が恋心を抱くことは遂にありませんでした。

 しかし、クロエは私のすべてを愛してくれました。私のことを、醜い部分も含めて、美しいと言ってくれました。そんな彼女に、私が好意を抱かないわけがありませんでした。

 私は今まで旅してきた色んな美しい景色を彼女に見せてあげたい、彼女に描かせてあげたい、そう思うようになりました。

 私たちは各地を旅しながら、沢山の絵を描き、沢山の詩を書き、歌い歩き、絵を売り歩きました。

 私たちが深い仲になるのに時間はかかりませんでした。

 男であることを奪われた私と、女のままでは生きられない彼女。

 秘かに愛し合う私たちはまるで、親の目を盗んで悪戯する悪い子供のようで。

 こんな日々がいつまでも続けばいいと、私達は願いました。


 そんな旅から旅への気ままな生活に、遂に終わりの時がやってきました。

 とある貴族が彼女のパトロンになり、彼女にアトリエと称した屋敷を買い与えたのです。

 彼女は有頂天になって私に話して聞かせました。そして、私にこんな要求をしてきました。

 「レオナルド、俺と結婚して、ここで一緒に暮らそう!あんたがいれば、俺達自由気ままに暮らしていけるよ!」

 これに、私は困りました。私は旅ができなくなってしまいます。私は旅の吟遊詩人。旅ができなくなったら、籠の中の鳥です。

 「クロエ、私は吟遊詩人です。定住はできませんし、したくありません」

 「なんだって?あんな辛い旅生活を、一生続けるのか?」

 「私はそれでも、旅の吟遊詩人なんです。自由気ままな鳥でいたいです」

 私たちは初めて喧嘩しました。クロエも結婚して定住しようと譲りませんでしたし、私も旅をやめたくないと譲れませんでした。

 「もう、終わりだな、俺達」

 クロエが言いました。

 「あんたがこんなに頑固者だとは思わなかった。なんかあんたの絵を描く気無くなったよ」

 「私もあなたがこんなに奢り高ぶるとは思いませんでした。がっかりです。私もあなたのような人に描かれたくありません」

 その日私たちは初めて別々に宿を取って眠りました。

 そして、私達は別れを決意しました。


 クロエが貴族に買い与えられた屋敷に住むことになった日、私は彼女の新居にお別れを言いに行きました。

 玄関の前で仏頂面で佇む彼女。私もできるだけ冷たい態度で、後腐れの無いようにドライに別れを言うつもりでした。

 「じゃあな、レオナルド」

 「それじゃあ、クロエ。お元気で」

 軽く握手を交わし、私が彼女に背を向けると、私の背中に何かがドシンとぶつかってきました。それはクロエでした。彼女が、私に抱きついてきたのでした。

 「やっぱりやだよ!!別れたくねえよ!!あんたがいなくちゃ、俺は絵を描けねえよ!!行かないでくれよ!!やっぱりここで一緒に住もうぜ!!」

 しかし、私はそれに応えられません。

 「諦めてください、クロエ」

 「俺が悪かったよ。俺、確かにちょっと天狗になってたよ。それは謝る。これからは素直になって、あんたのいい奥さんになるよ、だから」

 「何を言ってももう後戻りはできないんです。あなたはここに住んで、絵を描き続ける。私は世界を旅して、歌を歌い続ける。住む世界が違うんです」

 クロエは泣いていました。私は毅然として、彼女を振り切ろうとしました。しかし。

 「初めて出会った日、一緒の宿に泊まったよな。あの夜、あんたが舟漕ぎ出して、俺はほとんど絵を描けなかった。でも、寝顔も天使みたいだなって思って、あの瞬間、俺はあんたに惚れたんだ」

 彼女は今までの思い出を語りだしました。

 「あんたの体を初めて見た時、なんて綺麗なんだと思った。この人になら、抱かれてもいいと思った」

 「クロエ……」

 「あんたと一緒に、温泉に入った。あんたと一緒に、歌を歌った。あんたと一緒に、まずい飯食って、なんだかおかしくて、笑い死にそうなほど笑った。あんたと一緒に眠って、目が覚めるといつもあんたがいた。あんたは天使じゃなかった。心臓が動いてて、あったかくて、安心するような匂いがして、俺は、あんたのことが、好きだった……」

 なぜだか大嫌いになったはずのクロエが、急に愛おしくなりました。そうです。大好きだったからこそ、喧嘩して、大嫌いになった。根底にあったのは、今も変わらず、彼女への愛がありました。

 「クロエ!」

 私は振り向いて彼女を抱きしめました。

 「私は貴女の描く絵が大好きでした。あなたの絵は、最初こそ気取った絵でしたが、だんだんあなたの絵の中の私が、優しい顔になっていって、深みのある絵になっていったのを、知っていました。だからあなたの絵はどんどん高くなっていった。あなたは、いい絵を描く力がある。被写体が私じゃなくても、貴女はきっと、これからもいい絵を描いてゆけます」

 いつの間にか私も泣いていました。

 別れたくありませんでした。

 でも、別れなければなりません。

 私は無理矢理体を引きはがすと、駆けだしました。彼女が追ってこれないように、遠くへ行かなくては。

 「レオナルドーーー!!!」

 「クロエ!!私は貴女を愛していた!!お元気で!!」

 こうして私はまた、自由な一羽の鳥になりました。

 愛を捨て、情を捨て、安住の地を捨て、私は一体、どこへ行くのでしょう。

 それでも私は、歌を歌うのをやめはしないでしょう。

 クロエ、いえ、画家、エマノエル。いつかまた、一流画家として成功した姿を見せてください。それまでどうか、お元気で。


 Το τέλος.

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