アガサ編
旅から旅へ、私は今日も新しい街へ足を踏み入れました。今日はもう日が暮れましたし、どこか公園の大きな木の下にでも寝床を見つけるとしましょう。私が訪れた公園には、同業者と思しき芸人があちこちでごろごろ横になっていました。
みれば、大掛かりな楽器を抱えた人、小さなテントを張っているグループ、様々いるようです。
はて、明日、私の元に足を止めてくださる方はいらっしゃるんでしょうか……。
夜が明けて、眠たい目をこすりながら起き上ってみると、公園のそこかしこですでにいくつかのグループが見事な芸を披露していました。
まだ早朝です。観衆は多くなかったのですが、この競争率の激しさ、うかうかしていたら私の食費が稼げません。私は街の井戸水で顔を洗い、水を一口戴いて喉を潤すと、公園に戻り、とっておきの歌を披露しました。
結果は惨憺たるものでした。皆他の大道芸人や楽団に足を止め、私の前に足を止めてくださる方などいませんでした。昼下がりに区切りのいいところまで歌い終わると、私は諦めて他の大道芸人や楽団を鑑賞する側に回ることにしました。
欲を出して張り合っても勝ち目は無いように感じたので、それならば何か創作活動の参考になるような新しい刺激を受けたほうがいい、そう思ったのです。
体がぐにゃぐにゃに曲がる芸人、操り人形のような動きで踊る芸人、陽気な音楽を奏でる楽団、色んな芸人がいました。皆素晴らしいもので、しがない吟遊詩人の私は舌を巻きました。この街は何か、芸人の見本市のような街なのでしょうか。
そんな芸人たちや楽団たちの中で、一際異彩を放つ楽団を見つけました。
顔つきや音楽性から察するに、ジプシーなのかもしれません。
三人の綺麗な衣装を纏った美女たちが優雅に踊り、楽団が叙情的な音楽を奏でます。朗々と歌う歌は流浪の民の哀歌。私は一気にこの楽団のことが好きになりました。
歌が終わり、踊り子たちがさっとテントの中に下がってしまうと、観衆はわっと手を叩いて歓声を上げました。私の隣にいた男性は、「もう少しで踊り子の服がめくれたのに!」と、下品な嘆き声をあげていました。確かに、踊り子たちはすごく刺激的な衣装で舞っていましたが……。
楽団が道具を片付け始めたので、座長と思しき男性に声を掛けました。
「見事でした。この業界はもう長いんですか?」
長いくしゃくしゃのあごひげを蓄えた座長が、にこやかに返事してくれました。
「ええ、私が生まれるずっとずっと何代も前から、うちの楽団は旅から旅へ、歌と踊りを披露して歩いています」
座長は私が携えていたリュートに目を止めました。
「あなたも音楽をされているんですか?」
「はい、まだまだ駆け出しの吟遊詩人です。今日は他の芸人さんたちのレベルが高すぎて、さっぱりでした」
座長は「それは残念でしたな」と笑いました。
「この街は沢山の芸人が集まることで有名な街ですからね、駆け出しの方には厳しいでしょう」
そして、座長は親切に、私に今夜の食事と宿のお誘いをしてくださいました。
「今日は稼げなかったんでしょう?よかったらどうです?同じ芸人のよしみとして、今夜ご一緒しませんか?ご馳走しますよ。粗末な料理で申し訳ありませんが」
その日の夜、ジプシーの楽団のテントにお邪魔した私は、久しぶりに温かい料理をご馳走になり、歓談して、すっかり打ち解けていました。
「何か歌を歌って!私たちが行かないようなずっとずっと遠くの国の歌がいいな」
そこで私は師匠から教わった、北の果てにある国の古い叙事詩を歌うことにしました。皆さん、静かに私の歌に耳を傾けてくださいました。
「……と、こんな感じですかね。本当はもっと何日もかかるお話なんですが」
皆さんがわっと手を叩いてくださいました。
「綺麗な声。女性なのに吟遊詩人をするなんて珍しいわね」
妖艶な魅力を湛えた踊り子の一人が私にそう仰いました。じょ……女性って……私は……。
「私のことを女性と思われたんですか?困りましたね、私は男ですよ」
皆さんが仰天し、場の時間が一瞬凍り付きました。
「その顔とその声で男だなんて、あんたそりゃあお化けだよ!!」
お、お化け……。私は慌てて説明しました。
「男といっても、幼い頃に去勢されたのです。ですから、声は高いまま変わらず、もしかしたら顔も男っぽくならなかったのかもしれません」
それを聞いてやっと皆さんは納得されたようでした。
「女の子だったらあたしたちと一緒に寝られるねって思ったんだけど、男の人じゃあ、どうしようね」
座長さんの奥さんが考え込んでいると、髪を頭の上で二つのお団子にしている少女が、私の腕にしがみついて言いました。
「去勢ってことはあれが無いんでしょう?だったらあたしたちと同じ女の子でいいじゃん!あたしこの人と一緒にいたい!」
皆さんは、「それもそうだねえ。じゃあ、アルヤは女の子ということで」ということで納得されてしまいました。
い、いいんですかそれで?まあ、だからと言って男としての自覚があるかと問われたら、別にそうでもないんですけど……。
私はリュートの演奏技術と歌声を買われ、このジプシーの楽団と行動を共にすることになりました。
楽団の皆さんは私の持ち歌を気に入ってくださり、即興で伴奏を付けて新しい踊りを考えて、新しい演目に加えてくださったのです。その代わり私もこの楽団の音楽を覚え、一緒に演目を演奏することになりました。
師匠と一緒に旅をしたほかは、どこまでも孤独だった私の旅。私は初めての大勢での興業の旅に、充実感を感じました。
しかしそんな日々も束の間、ある夜、事件が起きました。
街から街への道中、辺りは何もない真っ暗な街道。私たちはテントを張り、野営をしていました。
皆が寝静まった、月も出ない夜。男性陣のテントから悲鳴が上がり、激しくもみ合う音が聞こえました。と、間もなくのことです。複数の男が今度は私たちの眠るテントに忍び込み、女性を乱暴にテントから引きずり出そうとしました。仲間たちの悲鳴がそこかしこから上がり、私は飛び起きました。
私は枕元に置いていた懐刀を手に取り、女性陣をテントから引きずり出そうとしたり、乱暴しようとする犯人に躍りかかりました。しかし、空は曇って星明りも無いような夜、真っ暗で何も判別がつきません。手探りで相手を掴むとあごひげに触れました。おそらくこれが敵です。私はその腹にナイフを突き立て、撃退しました。そこへ、「アルヤ!!助けて!!」と叫ぶ少女の悲鳴が聞こえました。
私は声を頼りに少女の元へ行き、少女に乱暴しようとする人影にナイフを突き立てました。敵は抵抗して私に攻撃してきますが、私もめくらめっぽうに攻撃したので、やがて敵は逃げてゆきました。
「アガサ?アガサですか?」
私は少女に問いました。
「アルヤ?アルヤなのね?あたしアガサ!!」
私はアガサの手を引き、テントの中に置いてきていた私の楽器と荷物を小脇に抱えると、彼女を連れて逃げ出しました。
私たちは近くの岩陰に逃れると、そこで息を潜めていました。テントでは男性陣の怒号、女性陣の悲鳴が鳴り響いていました。
「アガサはここにいてください。物音をたてないで」
アガサは私に縋り付きました。
「嫌よ、ここにいて。皆はきっと戦っているわ」
「そういうわけにはいきません!きっと戻ってきます!だからここで待っていてください!」
私はナイフを片手にアガサを置いて走り出しました。
しかし、私がたどり着いた時には、時すでに遅し、でした。
男性陣は皆死に絶え、女性陣の何人かは連れ去られたようでどこを探しても見つからず、何人かは死んでいました。生き残ったのは、私とアガサだけでした。
私はアガサが心配になり、岩陰に走って戻りました。アガサは無事でした。一人しくしく泣きながら私を待っていました。
「アガサ、残念ですが……私たちだけになってしまいました」
「そんな……!嘘よ!」
やがて空が白み始め、辺りの様子がはっきりしてきたので、私はアガサを連れてテントに戻りました。
テントの中は荒らされ尽していて、貴重品、路銀などはすべて奪われていました。
「座長……!おかみさん……!姉さま……!!みんな!ああ、ああ、どうしてこんなことに!!」
アガサは泣き崩れました。私がもっとしっかりしていれば、生存者はもっといたのではないか、そんな後悔が、私の胸を苛みました。
一つ幸いだったのは、衣装や化粧道具は無事だったことです。アガサは親しい人たちの形見の衣装道具や化粧道具を袋に詰め、涙をぬぐって私に言いました。
「アルヤ、あたしをアルヤの旅に連れてって。二人で旅をしよう。アルヤの歌の横で、あたし踊るよ。大丈夫、アルヤの歌とあたしの踊りなら、きっとうまくいく。皆が作り上げてきた、この芸を絶やしては駄目。いつか仲間を見つけて、また楽団をやり直そう」
私は力強く頷きました。亡くなった恩人たちのために、私だけ逃げることはできないと思いました。そして、アガサと私が生き残ったのも、何かの運命のような気がしたのです。
アガサは赤毛の長い髪を二つに分けて高く結い上げ、テントから見つけた装飾品でその髪を飾りたて、残されていた衣装を身に纏い、伝統的な化粧を顔に施しました。
しゃんと背筋を伸ばして前を見据えるアガサは、ジプシーの楽団の伝統を背負って、とても誇らしく見えました。
あの事件の後、最初に立ち寄った街の中央広場で、「今日の演目は何にしようね」と話し合っていると、不意にアガサが私の楽器を弾きたがりました。
「ねえねえ、何か簡単な楽器教えてよ」
「このリュートを弾いてみますか?」
しかし、アガサは私のリュートを見るなり、
「弦がいっぱいあって難しそう。何本あるの?10本以上あるでしょう?めんどくさーい」
とわがままを言いました。私は、
「それならフルートを吹いてみますか?」
と、フルートを差し出しました。
「あ、あの綺麗な音するやつだー!やらせてやらせて!」
アガサはちょっと胸を張ってふーっと息を吹き込みました。ふーっと乾いた吐息の音しかしませんでした。
「あれ?これ壊れてるよ」
「ふふふ、壊れてませんよ。コツがいるのです」
私が吹いて見せると、ぽーっと優しい音色が響きました。
「ずるーい!なんで音が鳴るの?!むむむむ……!」
それがアガサの心に火をつけたようで、その日は一日フルートの練習で潰れてしまいました。
「アルヤの詩吟に私の伴奏がつけられたら素敵だよね。あたしが踊るだけじゃなくてさあ」
アガサは色々な夢を語りました。
山の麓の町に立ち寄った日のことです。その町はそこかしこからもうもうと湯気が立ち上っていました。町の人に、「この煙は何なのですか?」と、問いかけると、「これは温泉の湯気さ」との答えが返ってきました。
「この町は火山の麓の街だ。湯を沸かさなくても地面から滾々とお湯が沸いてくるのさ」
恥ずかしながら私は温泉のことは知りませんでした。お風呂はお湯を沸かさなければ入れないもの、と思っていたので、驚きました。
「あたし温泉に何度か入ったことあるよ!すごく熱かったり、ちょうどいい温かさだったり、色々あるんだよ」
町の人が、町から出て少し行った河の側に天然浴場があると教えてくれたので、私たちはそこに行ってみることにしました。
「わ!温かい!ねえアルヤ、この温泉ちょうどいいよ!」
私が指先を差し入れてみると、なるほど、そこの水だけ不思議と温かいのです。
「ねえアルヤ、一緒に温泉入ろうよ!」
アガサがとんでもないことを言うので、私は慌てて断りました。
「い、いけませんアガサ!私はこれでも男なんですよ?!」
「でも今は女の子じゃん」
「女の子じゃありません。男でもないですけど、女の子じゃありません。だから一緒にお風呂に入るのはまずいでしょう?」
アガサは急に私の首を絞めてきました。
「ぐえっ!な、何するんですか!」
「喉仏無いじゃん!女の子!」
「あ、ありますよ少しぐらいは……」
私は急に首を絞められて咳き込みました。
「えー、いいじゃん少しぐらい……」
しかし……女性から全く男として見られていないというのも少し傷つくものですね。私はそんなつもりは無くても少し不機嫌になり、断固拒否してその場を立ち去りました。
「ダメなものはダメです。アガサが終わったら私を呼びに来てください。私、その辺で楽器の練習をしていますから」
「アルヤ……」
アガサは少し寂しそうに私を見送りました。
アガサとの二人旅も何ヶ月と共にして、私とアガサはすっかり打ち解けていました。もともとアガサは人懐っこい少女で、最初から私に好意的でしたが、一緒にいる時間が長くなると、なかなか話しにくい話題も自然と話せるようになるもので。
私は自分の生い立ちを彼女に話して聞かせました。彼女は私の人生を我が事のように悲しんでくれました。
「そっかぁ、自分からやりたがったんじゃなく、無理やり手術されたんだね……。辛かったね……」
「でもそのおかげで今の人生があるのです。私はオペラ歌手になるより、今の人生のほうが幸せですよ」
「アガサにも出会えましたしね」そう言うと、アガサは顔を紅潮させ、「えへへ」とはにかみ、俯きました。
街道を歩いていて、木陰で休憩を取っていたときのことです。私がリュートを爪弾いて歌のない曲を演奏していたときのことです。アガサはそれを聞いて、目に涙を浮かべて、「お母さん……」と呟きました。
私は演奏の手を思わず止めてしまいました。
「えっ、なんでやめちゃうの?」
「貴女、いま、お母さんって言いませんでした?」
彼女は頷きました。私は背筋がゾーッと寒くなりました。
「貴女のお母様って、確か幼いころ亡くなられたんじゃありませんでしたっけ?まさか、『御出でになった』とかいうんじゃないでしょうね?!嫌ですよ、私は幽霊を信じますが、信じるからこそ苦手なんですから!」
彼女は慌てて否定しました。
「違う違う!お化けじゃないよ、お母さんを思い出しただけだよ!」
私はそれを聞いてほっと胸をなでおろしました。
「あー、びっくりしました……。なんですか、お母様も楽器をされていたんですか?」
するとアガサは自分の身の上を語り始めました。
「あたしのお母さんも、アルヤみたいにリュートやフルートを演奏する人だったの。すっごく小さい頃だからあんまり覚えてないんだけど、いつもアルヤの演奏みたいな優しい音色で、演奏して歌ってくれた……」
すごく幼いころ、彼女は今とは違うジプシーの楽団で生まれ育って、両親も祖父母も兄弟も、旅から旅への生活だったと言います。ですが、ある日、誤って毒キノコを食してしまった家族が次々と倒れてしまいました。
まだ幼かったアガサは苦しむ母から食事を取り上げられ、「これは毒、絶対に食べちゃダメ」といいつけられ、そのまま、何もわからないまま家族は他界してしまったそうです。
運よく一命をとりとめた楽団員は幼いアガサを連れて旅をし、やがて先日全滅してしまったあの楽団に迎え入れられたということです。
アガサにとって命の恩人だった、生まれる前からから世話になっていた楽団員も、先日の夜襲で亡くなったといいます。
二度も所属する組織を失い、アガサは自分の不運を呪っていました。どうして私だけ生き残ったんだろう、と。
私はアガサに諭しました。
「それは幸運と呼ぶべきなのではないですか?きっと神様が、アガサは幸せになる運命だとお決めになったのです。きっとこれから先も、貴女はもっと幸せになる運命が待っているのですよ」
「そうだといいけど」とアガサは呟くと、急に真面目な顔になり、
「あの楽団の人たちはあたしの命の恩人だった。沢山の身寄りのない人たちを助けて、芸を教えて養ってくれた。あたしはあの人たちが教えてくれた芸を、あの人たちの優しさを、伝えていかなきゃならない。それが亡くなった仲間たちへの恩返しなんだと思ってるの」
私は頷きました。アガサは逞しいなと感心しました。私よりずっとずっと若いのに、芸人として誇り高く生きている。私はアガサのそんなまっすぐな性格が好きになりました。
「アルヤ、私の夢を手伝ってくれるよね?楽団の仲間を見つけて、また大きな演目ができるように、一座を一緒に支えてくれるよね?」
私は頷きました。
「もちろんです。応援しますよ」
アガサは満面の笑みを浮かべました。
アガサは街で身寄りのない貧しい子供を見つけると、楽団に入らないかと声を掛けて歩きました。しかし、すっかり人間不信になってしまった子供たちはなかなか私たちを信用しようとはせず、楽団員はなかなか増えませんでした。しかしアガサの明るさは人の心を動かします。何日か街にとどまって歌と踊りを披露すると、やがて一人、二人と、幼い子供、少年少女が、仲間にしてくれと声を掛けてくるようになりました。
そうして、徐々に仲間が増えてくると、自然と年長の子供は年下の子供の面倒を見てくれるようになり、だんだん楽団らしくなっていきました。
アガサは子供たちに踊りを教え、私は楽器や歌を教え、私たちの旅は楽しくなってきました。
ある日、小さな子供が、アガサのことを「お母さん」と呼び、私のことを「お父さん」と呼ぶようになりました。最初は否定していたのですが、子供たちが冷やかすので、私たちは疑似家族を楽しむようになりました。
そんなある日のことです。アガサは私に話がある、と、物陰に私を呼び出しました。
「どうしたんですか、アガサ?」
「アルヤ……あのね……。あたし、アルヤのことが好き。愛してる」
私は驚きました。まさかと思ったので、私は気づかないふりをしようとしました。
「私もアガサを大切に思ってますよ」
「ほんとに?」
「ええ」
「じゃあ、キスして」
私は額に手を当て、ため息をつきました。
「アガサ、あのですね……」
「アルヤもあたしのこと好きなんでしょう?じゃあキスしよう」
アガサはちょっと押しが強い性格だなとは思っていましたが……。私はアガサをそんな風には見れません。
「私は女ではありませんが、男でもないんです。皆からお父さんと呼ばれていますが、本物のお父さんに、貴女の夫にはなれないんです。私はあなたを愛す資格がありません」
アガサはイヤイヤとわがままを言い、食い下がりました。
「あたしはアルヤの体が目的なんじゃないの、アルヤという人が好きなの。だから、キスしてくれるだけでいいの。抱きしめてくれるだけで、あたしは幸せなの。抱きしめて。それだけで幸せ」
私は一つため息をつくと、複雑な気持ちのまま、アガサを抱きしめました。
「嬉しい……」
アガサは満足そうでしたが、私には、アガサがこんなことぐらいで本当に満足するはずがない、と思いました。いつか、触れ合うだけの愛し方では満足できなくなる日が来る。私には、過去に何度も私の体を求めてきた人に応えられなくて、苦い思いをした過去があります。無理やり貞操を奪われたことも一度や二度ではありません。アガサも、いずれきっと……。
私は、こんな優しいだけの時間が、いつまでも続くとは、到底思えませんでした。アガサのことが、人として好きだから。彼女を傷つけるようなことは、したくありませんでした。
そしてついに、ある夜、アガサはテントの外に私を誘い出しました。
「ねえ、アルヤ、あたしを抱いて」
私は、遂にこの日が来てしまったか、と、夜空を仰ぎました。
「あたしの体が熱いの。アルヤのことを考えると、体の奥底が火照るの。ねえ、この火を冷まして。あたし、アルヤになら抱かれてもいい」
「アガサ、言ったはずですよ、私は男ではないんです。抱けません」
「ぜんっぜん、無いの?」
私は答えませんでした。言いたくありませんでした。
「みんな寝てる。あたし静かにするから、あたしを抱いてよ」
私は首を横に振りました。
「じゃああたしがアルヤを抱いてあげる!」
アガサは厭がる私を押し倒し、私の服を捲り上げました。
そして古傷で醜く変形した私の股間を見ると、暫し絶句していました。
おそらく彼女には、この醜さは想像もしなかったのでしょう。しかし、アガサはぎこちなく微笑むと、
「あたしはアルヤがどんなアルヤでも愛せるよ」
そう言って私の股間をまさぐり始めました。
正直、私は傷つきました。
嫌がって止めてくれた方が安心したと思います。気丈に私を愛そうとした彼女が痛々しくて、なぜだか私は逃げ出したくなりました。
「アガサ、止めてください」
「どうされると気持ちいい?」
「アガサ!」
堪らず怒鳴ってしまった私に、彼女は驚いて手を止めました。
「私はアガサのことが、一人の人間として好きです。ですが、貴女にレイプされたくはありません」
「レ……」
私の言葉に、とりわけレイプという言葉に、彼女はショックを受けたようでした。
彼女はゆっくり私から離れ、「ごめん……」と呟きました。
私は乱れた着衣を直し、何も言えずに毛布にくるまりました。
私はそのまま狸寝入りをしました。アガサが泣いているのを背中で聞きながら、何も掛ける言葉が見つかりませんでした。彼女は朝まで泣き続け、私も朝まで眠ることができず、ただ黙って時間をやり過ごしました。
その日を境に、私たちの間には見えない溝ができてしまいました。どこかよそよそしくなった彼女、心なしか冷たくしてしまう私。
このままではお客さんを楽しませることができないと思った私は、楽団から、彼女から、別れることを決意しました。
私はアガサに別れを切り出しました。彼女がいいと言ったら、みんなにも話そう、と思ったのです。
「アガサ、私はこの楽団から抜けます。私がこの楽団にいたら、いい音楽はできないと思います」
アガサは目を見開いて口をパクパクさせて驚くと、慌てて私に縋り付きました。
「そんなこと無いよ、アルヤがいなかったらいい音楽なんかできないよ」
「でも、アガサ」
「お願い、行かないで。この前のことが原因なら、謝るから。ごめんね、ごめんなさい。もうあんなことはしない。だからお願い、行かないで」
私は取り乱すアガサの両腕を掴み、アガサに目を合わせて言いました。
「アガサ、確かにあれが原因の一つだったかもしれません。でも、貴女が私を男として見てしまった時から、私はいつか別れが来る、と気づいていました。私たちは、お父さん、お母さん、と慕われていましたが、夫婦にはなれないのです。そんな関係になってはいけなかったのです。ごらんなさい、今の私達を。現に気まずくなって言いたいことも言えなくなってしまった。こんなことではいつかもっと酷い別れ方をしてしまう。私はあなたのことが人間として好きです。嫌いになりたくありません。だから今のうちに、大好きなままお別れしたいんです」
私の話が受け入れられないのか、話を聞きながら、アガサはべそをかきはじめてしまいました。彼女の碧い瞳から大粒の涙が滝のように流れ出し、彼女は慟哭をあげるのを必死に堪えるあまり、大きくしゃくりあげて震えていました。
「お願い、……一人にしないで……。アルヤが、居ないと、あたし、踊れないよ……!」
「踊れます。皆が育っています。私と貴女で育てました。彼らがいれば、踊れます」
アガサの顔が、くしゃくしゃに歪みました。
「やだよ、……アルヤが居なきゃやだああああああああああ!!!」
遂にアガサは堰を切ったように泣き出してしまいました。その声を聞いて、踊りや楽器の練習をしていた子供たちが駆け寄ってきました。困りました。どう説明したらいいものか。
「お父さん、お母さんと喧嘩したの?」
「泣かしたらいけないんだよー」
「あー、お父さんは、お母さんとちょっと難しい話をしていたんですよ。ちょっと二人だけにしてもらえませんか?」
私はとりあえず子供たちを遠ざけ、アガサと話しました。
「見ましたか?皆を。アガサは独りじゃありません。今のアガサには仲間がたくさんいます。貴女が集め、貴女が育てたのです。だから、ね、きっと大丈夫。これから素敵な人が、私より素敵な人が、貴女を支えてくれます。私は、信じています」
アガサはまだしゃくりあげていましたが、やっと泣き止んで落ち着いてくれたようです。
「アルヤはこれからどうするの?」
「私は、また旅をします。歌を歌って、今まで通り、各地を放浪して歩きます。アガサが旅を続けるなら、またどこかで会えるでしょう」
「わかった。あたし、みんなを連れて旅をする。アルヤもいつまでも元気でね。変なもの食べないでね。いつかまたどこかで、絶対に会おうね」
アガサの瞳はどこかまだ不安げでしたが、私の決断を理解してくれたようでした。
私は子供たちに別れの挨拶をしました。皆派手に泣きましたが、年長の子たちが小さい子たちをなだめてくれ、皆私の決断を理解してくれました。
私は最後に、長い長い歌を歌いました。皆が路頭に迷った時勇気が出てくるような、そんな冒険譚です。皆静かに耳を傾け、歌が終わると、わあっと手を叩いて喜んでくれました。
「これがお父さんの本当のお仕事なんだね」
「そうですよ。皆と一緒にいた年月はとても楽しいものでした。ですが、私は吟遊詩人。またこうやって歌を歌って街を渡り歩きます」
「僕、お父さんの教えてくれたこと、絶対に忘れないよ。今歌ってくれた歌も、きっと忘れない」
年長の少年が胸を張って言いました。
「アガサお母さんを支えてあげてください」
「はい!」
そして私は道具をまとめると、一人歩き出しました。私はまた、自由な一羽の鳥になりました。街から街を渡り歩く、自由な鳥に。
それからアガサは、傷心を引きずりながらも懸命に踊り、各地で成功を収めてきたそうです。各地で身寄りのない子供たちを拾い、いつしか大所帯になりました。
やがてアガサは観客として見に来た男性と知り合い、結婚したそうです。それは碧い目をした、金髪の、鼻の高い男性だそうです。いつも優しく微笑んでいるような、穏やかな人だそうです。
やがて二人の間には、赤ちゃんが生まれたそうです。元気な男の子だそうです。
でも、アガサはいつも遠くを見て、何か考え事をしていることが多かったといいます。何を考えているのかを問うと、決まって彼女は、「昔のことを思い出していた」と答えたそうです。
そして、各地の興業の合間に、いつも誰かを捜しては、落胆していたそうです。
私とアガサが別れてから、何年経ったでしょう。私がとある小さな町で歌を歌っていたときのことです。遠くから、がやがやと賑やかな音楽が聞こえてきました。どこかの楽団が興行をしに来ているのでしょうか。
どこか聞き覚えのある、懐かしい調べです。
「どうしたんだい、詩人さん、もうおしまいかい?」
お客様に声を掛けられて、私はハッと我に返りました。いつの間にかその音楽に耳を傾けてぼうっとしていたようです。
「失礼しました。どこかから素敵な音楽が聞こえてきたもので」
するとお客様の一人が教えてくださりました。
「あれはジプシーの楽団だよ。各地で身寄りのない子供を拾って仲間にしているらしいよ」
「そうなんですか」
私は、そんな楽団があるんだな、と少し頭の隅に引っ掛けて、また歌の続きを歌いました。
すると、
「アルヤ?!アルヤなのね?!」
と、妙齢の金髪の派手な女性が私に駆け寄ってきました。
「あ、あなたは……」
「あたしよ、アガサよ!!会いたかった、ずっと、ずっと……!」
その女性はすっかり魅力的な大人の女性に成長した、アガサでした。
「何年振りでしょう。お久しぶりです。すっかり美しくなりましたね」
「何年振りだろう。わかんない。でも、あたしずっとアルヤを捜していたよ。いつも、新しい街に行くと、アルヤが居ないかなって」
すると、楽団の仲間たちがわあっと駆け寄ってきました。
「お父さんだ!!久しぶり!!」
「最初のお父さんだ!!覚えてますか、私を!?」
あのちびっ子たちが、皆すっかり大人になっていました。
「話したいことがいっぱいあるの!ねえアルヤ、今夜はあたしたちのテントに泊まってよ!あたしたち、すごく稼ぐんだよ!大人気なの!ねえ、ご馳走してあげる!」
その夜は朝まで語り明かしました。皆本当に幸せそうでした。私の決断は間違っていなかった。私が居なくても、皆は逞しく生き、自分たちの最高の幸せを見つけてくれました。私達はまたいつかどこかで会うでしょう。その時、どんな表情を見せてくれるのか。私はまだ生きているのか。その時が楽しみでなりません。
私はこれからもずっと歌を歌い続けますよ。だから、また逢うその日まで。お元気で。
Finis.
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