episode:1 黒と花 (後)

 覚えのない郷愁を司る情景から、灰色の霧の中に灯る一本の帯状の太陽に焦点が合わさっていく。


 まるで他人のホームビデオを映画館で鑑賞した後のような気分だ。女の子はその時ふと、昔に自然写真家著作の本で見た白い虹の写真を思い起こす。そういえば、よく目を凝らしてみれば若干歪曲した帯状の白い太陽の向こうにはもっと大きな光源が灯っている。きっとあっちのほうが本物の太陽で、これは偽物の太陽……なんだったろう、そうだ、確か、陽光が水滴に屈折することで現れる霧虹なのだ。

 昔に見た。

 ──昔。昔とはいったい、だれのいつのことだろう。

 女の子は相も変わらず焦点の合わさらない頭の中に首をひねる代わりに、やや遠くの霧の最中から浮かび上がってくる人影のほうを見やる。やっぱり、人だ。あの荒れた野原に打ち棄てられたマネキンのようななにかじゃない、ちゃんと見知った姿形をした人間だ。

 やがて、緞帳のように重たげな霧の最中から、まず、第二次性徴も終えていない少年のそれのように華奢な腕が、そして、叢雲むらくもがかかった味爽まいそうの空の色合いをしたオーバーオールが、ぬらり、ふわりと現れる。左手首を掴んで億劫そうに突っ立っている女の子に近づいていくその人は、2人の間に隔たる距離が廃墟然とした建造物一棟ぶんになる辺りでつと、立ち止まる。

「やあ」

 変声期を迎えたばかりの少年のような声が端的な挨拶を述べる。女の子の戸惑いを受け止めてやるにはあまりに手狭な言葉、というよりも発声であり、端正過ぎていっそ親しみやすさに欠ける顔貌がんぼうの内側では、一見すると柔和な笑みも却って怜悧れいりに感じられる。

 麦を想起させるほど緻密な三つ編みを施した前髪の一房を、後頭部にまとめてあるたおやかな黒髪──スズランの花を逆さまにしたような恰好をしている──と一緒に結わえている少女……なのか少年なのか、絵画の中から飛び出してきた両性具有のキューピッド然とした雰囲気からしてなかなか判断のつけられない人物は、女の子の戸惑いをいなすように続ける。

「ぼくは0827。きみは、きみが誰だか知ってるかい」

 突如として投げかけられた問いに、女の子の自意識が急速に拡大する。

 わたしが誰であるか。

 怒涛のごとく押し寄せてくる突飛な情報の数々に白旗を挙げるようにして思考に句読点を打ったけれど、いざ、面と向かって問われると……そうだ、わたしは──わたしは……。

 女の子は開きかけた口をしっかりと噤む。ここまでずっと、一挙手一投足のたびに全身の筋肉を違和感が突き抜けている。わたしの身体はわたしのものではない。そんな気持ち悪い感覚がずっとある。もしもこの扁平な喉から発される声が聞き覚えのない他人の声だったりなんかしたら……女の子ははたと思い当たる。おぞましいことだけれど、左腕に咲く花々を覗いたとき「あっ」と声を上げたのは、もしかすると、あれは、わたしの声だったのかもしれない。

 0827と名乗った人物は、ねめつけるような眼で数歩先に立ち竦む女の子を──この世界における剪定人の身体に憑りついた異邦人を見据えている。

 ──カチャン、カチャン。

 鍵盤の上が似合いそうな手指を繰りつつ、0827がそこに存在しないはずの銃に弾丸を籠めるような素振りをする。あまりにリアルな動作のせいか、聞こえるはずのない音が辺り一帯にこだまする。やがて、6発分籠め終わった銃を持ち上げると、安全装置を親指で解除し、人差し指を真っ直ぐと標的の額めがけて指し示す──素振りをする。

 そして言い放つ。虚しい安楽に満ちた存在の謎の深淵に突き放すような言葉を。

「きみがきみのことをなんと思ってようと、所詮、きみはこの世界に不要な存在だ。アスタラビスタ・ベイビー」

 三度みたび、即席の手銃が反動に沿って跳ね上がる。

 そして女の子は被弾する。実弾ではない。言葉の弾丸に。

 刹那──胸が張り裂けるような痛みと共に、女の子は思い出す。足元に2つほど空いた真暗な銃痕から立ち昇りゆく光の硝煙を、その視界に捉えた瞬間に。

 あの廊下、あれは、わたしの大事な人が眠っていた家の廊下だ──静かで、確かな、死の床に伏せる人間の脈拍を感じさせる足音……どっ、どっ、どっどっどっ、再び揺り起きつつある記憶、あの情景、あの足音と、ここから出せと叫喚しているような心臓の鼓動とが、世界を真っ黒に染め上げる日食さながらに重なり合い、女の子の内側を真っ黒く仕立て上げていく。

 肉がなくなってしまったせいで滑らかな皮が無残に伸びきった祖母の手。古びたおもちゃのように軽くて、関節の緩くなった手。

 浴びせかけられる罵声に、冷たい侮蔑の眼差し。声の小さいものを押し殺すシュプレヒコール。悪を紛糾する大衆。多数派の善。どこにも馴染めないわたし。泣いてさざめくわたし。

 おとうさん。味方。わたしがいなくなればきっとどこまでも探してくれる。黒いものを育てるわたしに世界の輝きを信じさせた。世界の輝きを信じるわたしを黒いものから守って、なにかとの戦いに勝とうとしていた。でも負けた。そして謝った。

 すごく嫌だった。

 嫌だった。

 嫌だった。……嫌だった。けど、そのときわたしはちゃんと、嫌だって言えただろうか。

「あらら、外しちゃったよ。ごめんね、ぼくらとしてもなるたけきみの絶望を煽らずに花化させたいとは思ってるんだ。ほんとうだ。べつに、ぼくのことは悪く思ってもいい。ただ、恐がるのは止してよ。手間だからさ」

 今度は女の子のほうが0827のことをいなすように、両手で耳やら頭やらを押さえてしまう。内側でタールのような黒いものが地獄の釜もかくやという勢いで粟立っていく。ぶくぶく、ざわざわ……絶えることのない振動が肌に伝播して、全身の毛を逆立たせる。

 噛みしめた歯と歯の隙間から粘りけのある刺激物が涎交じりに零れてしまいそうで、一層強く噛みしめると、今度は覚えのない古傷が呼応したかのごとく、こめかみの辺りが雨後の記憶に酷い具合で痛みはじめる。

 胸が、無尽蔵に湧き出る黒いものに張り裂けそうだ。人の目に触れさせてはいけないから強く強く押し留めなくてはいけないのに、気張れば気張るほどしんどくて、もういっそ外に溢れ出させてしまおうかという気になってくる。身体の支配権をめぐる椅子取りゲームに負けそうだ。黒いものの侵攻に抗うことが刻一刻と厳しくなっていく……。

「……みんな、嫌い。みんな、嫌いだ……うう、苦しい」

 嫌なことや辛いこと、悲しいことや悔しいこと、不甲斐のないことや仕方のないこと、押しつけられた限りいっぱいの後ろ暗い感情を黒いものに押しつけて、貪食な吸収力におもねるように食べさせて、もう一度ひとたび叛乱はんらんを起こしたら自分では抑えられないほどに肥大化した──ぶくぶく、粟立ち、ざわざわ、逆立ち、すんでのところで張り裂けそうな身体を搔き抱くようにして、もうじきに現れるだろう惨状から目を背けるために両の瞼を閉ざそうとする。

 閉ざ、そうと……閉ざ、したいのに、閉ざせない! 

 なぜ──愕然としている間にも上瞼の進行を阻むように咲き乱れていく花々から焦点を左腕に合わせようとして──袖の裂け目から零れ落ちんばかりに溢れ出している花々に、すべてが手遅れになりつつあることを自分でも可笑しくなってくるほど、無下に、静かに察する。

 手のひら。花。

 指。花。

 爪。花。

 手首。花。

 まだ辛うじて人の輪郭を留めている右手で、おずおずと頬に触れてみる。指先に咲いた花が頬に咲いていた花と擦れ合って、手のひらに咲き乱れていく花々にささやかな風を送る。

 なぜ──。

 体重が疎らに失われていき、地面との平衡感覚が奪われていく。ついぞ、芳しい花の香しか感じられなくなる。

 なぜ──わたしの内側に閉じ込めておいた黒いものが、こんなに美しい花になるのか。黒いものとの椅子取りゲームに負けたあとで、誰にも忌み嫌われない見た目に成るのか──分からない。そして、考える力ももう残されていないらしい。

 巨大な花束にその身一つを埋めたように、女の子は嗚咽を誘発させるほどの祝福に包含されながら、なにがしかのメッセージの暗喩らしい花々に五感を侵されていく。

「ああ、そうだったね。きみらはきみらで勝手に絶望して花化するんだ」

 遠くくぐもった声に最後の力で、ようやく、そっと顔をしかめて──刹那、目の前に閃光のような光がぱちぱち弾ける。

 ──幼い子どもの笑い声や懐かしいメロディーや賑やかな話し声……冷たく深い記憶の底に沈殿していたおりが瞬く間に氾濫し、それは誰かが図ったかのごとくどれもあたたかで、全身に咲き乱れる花々をもぎゅもぎゅと瞬く間に融かしていく。

 やがて、女の子は一新された視界の中に見る。

 にわかに吹いた風にはためき、ゆるりと重力に沿って動かなくなる黒いもの。

 いつの間にやらくずおれていたらしい、ひんやりと冷たい地面に膝をついた恰好のまま、目の前の黒いものに触れてみる。きぬの手触り。指でつつく。擦り合わせる。していく内に、解がどんどんはっきりしてきて、女の子は黒いコートの裾から手を離す。

 上目遣いで見上げると、背高の大きな花がコートの襟から飛び出していた。向日葵だ。目に眩い黄金色の花びらは灰色に霞みがかった霧の中でも、侘しく、微かに煌めいていて──

「名前は」

 ひょっとすると、髪の毛だったかもしれない。

 錆びた刃の切っ先のように鋭利で粗い瞳が、女の子をじぃっと見下ろす。女の子はドギリとして、重度の鬱病患者の子みたいな呻り声を漏らしてしまう。

 女の子はその生まれとその環境とそれを取り巻く時代とがまったく絶大な栄養剤の役割を担ったがために一等育まれてしまった生来の性質から、相手の心の機微を他の人よりも仔細に感じられる。だからこそ、怯む。手銃の射線を遮るように立ちはだかっている目の前の向日葵星人は、その声や瞳は、なんだか酷く苛立っているように映った。

 向日葵星人の首元で無造作なとぐろを巻いているマフラーがもぞもぞと蠢く。くぐもった声でもう一度名前を問われて、メイはようやく──たった今しがた思い出した名前を伝える。

「メイ」

 海と花との香が入り混じる薫風が吹く。向日葵星人は値踏みをするような──少なくともメイにはそう映る──眼で、一つ、瞬きをした後、毅然とした声色で言い放つ。

「メイ、今は何も憎まなくていい」

「な、なんで」

「世界には要らなくても、俺には必要なんだ。だから、メイはもう何も憎まなくていい」

「やあやあ、0815。FATHERはずっときみのことを気にかけてるよ。また随分と花盛りだね。あれから何人喰らったの」

「6」

「ふうん。それで、そのゴーストチルドレンの心臓も取って食べちゃうってわけかい」

 0815と呼ばれた向日葵星人はうん、だかんーだかけだるげな応答をして、地面に突き立てた三又フォークの柄をぐりりと回す。メイは思わず、黒いコートの裾を掴みかけていた手を震わせる。

「0815がもっとちゃんと悪人でいてくれたら、ここで簡単に殺せたんだけど」

「それはほんとうに嘆かわしいことだなぁ、リリィ」

 リリィ──名前を呼ばれて俄かにまなじりを下げたその人は、よく見ると右腕に一筋の白を纏っている。

 白地の半袖の影に潜む二の腕から、鰐の歯のようにつるんと尖った肘、片方の指の第一関節を余らせても容易にぐるりと囲めそうなほどにか細い手首……そこに伝うスズランの花の叢……ふと、ネイビー・カラーの猫目に宿る引力でメイの視線を引きつけると、0827ことリリィは後ろ手に手銃を回して、物々しい文言を涼やかに告げる。

「ねえ、お人形ちゃんみたいなゴーストチルドレン。0815の言うことは信じちゃいけないよ。コロッといったときにはもう、きみの心臓はその悪魔の胃の中に収まってる」

 リリィがバイバイの手のひらを振る前に、0827は秘密の生き物のたてがみのような黄金色の髪を翻し、片手に提げる三又フォークの切っ先で巨大な爪痕然とした裂け目を霧の只中に入れつつ、遥か上空めがけてメイの全身がすくむほどの強健によって突風然と飛び上がる。

 手首を掴まれたメイは視界に荒ぶる黒いコートに悪魔の翼を連想して、そのまま地面から遠く離れた場所で横倒しになる。

 風が強い。なにかに乗って空を飛んでいるらしい。

 狂風に木の葉が響き合っているような音が風変わりなエンジン音のように聴こえる。激しく擦った手のひらの感覚に、近所の神社に屹立する老齢のイチョウの木を撫ぜた時の感覚を想起する。

 音と風に堪えながら、少しずつ面を上げると……どうやらメイを窮地から救ってくれたらしい向日葵星人は三又のフォーク──農奴のうどか悪魔かしか持たないような藍鉄色のそれを片手に提げながら、真っ直ぐと前方を見据え、マフラーの尾をばたばたとはためかせている。

 メイは、霧の中に走る青黒い雷に翅脈の規則性を見つけた途端、いま自分たちが乗っているのは巨大な蟲の背中であることに気づく。鉄製の装甲のような甲皮が、キャノピーのような複眼が、メイに人工の乗り物だと思い込ませていた所以のすべてが、巨大トンボの構成部位に替わっていく。

 人2人が余裕で乗れるほどに巨大なトンボを眷属に従える悪魔……わたしを必要としているらしい、でもまた曰く、心臓を喰らっているらしい悪魔……

 ──メイはもう何も憎まなくていい。

 悪魔だから、人の心も読めるのだろうか。

「あの」

「………」

「あの……」

「んん」

「あ、あの……ほんとに悪魔、なの?」

「こんな弱虫な悪魔がいてたまるか。もうすぐ霧を抜ける。この世界がどんなところか、よく見渡しとくといい」

 言い終わる前に、瞼の裏を赤銅色に染め上げる陽光が辺りに立ち込める霧を灼く。

 眼下の景色を目の当たりにしたときの衝撃は、今後待ち受けるどんな体験にも代えられはしないだろうと思えるほど鮮烈なものだった。

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