episode:2 フライ→フォール


 人2人が余裕で乗れるほどに巨大なトンボを眷属に従える悪魔……わたしを必要としているらしい、でもまた曰く、心臓を喰らっているらしい悪魔……

 ──メイはもう何も憎まなくてもいい。

 悪魔だから、人の心も読めるのだろうか。

「あの」

「………」

「あの……」

「んん」

「あ、あの……ほんとに悪魔、なの?」

「こんな弱虫な悪魔がいてたまるか。もうすぐ霧を抜ける。この世界がどんなところか、よく見渡しとくといい」

 言い終わる前に、瞼の裏を赤銅色に染め上げる陽光が辺りに立ち込める霧を灼く。

 眼下の景色を目の当たりにしたときの衝撃は、今後待ち受けるどんな体験にも代えられはしないだろうと思えるほど鮮烈なものだった。

 陽光を跳ね返してきらきらと煌めく7つの塔。天上にも届かんばかりの勢いで燃ゆる白銀の火柱のようなそれらは光に過敏に呼応する類の素材でできているらしい。塔の麓には団地に密集する棟をまるっと積んだような船らしき塊が森と草原と砂地との混在する大地に座礁している。

 パラボラアンテナのような装飾を纏った塔は近未来の墓標か、カラス避けの柱みたいにも見える。空にはちらほらとどこか既視感のある、しかし見たこともない大きさの蟲が──子どもの頃に恐竜図鑑でみた白亜紀の蟲たちにも似た生き物が飛んでいて、あのパラボラアンテナ然とした装飾が仮になにかを避けるために取りつけられているんだとして、それでもその対象は少なくともカラスなんかではないだろうなと、メイは独りでに考える。

 地表付近に滞留する霧の所々では丸みを帯びた霧虹がナパーム弾のように光っている。もう少し飛行していくと霧の中のある一点から突き出している千年樹のような幹が望め、あらゆる方向へ伸びる枝を覆い隠すように茂る葉と眩いほどに色鮮やかな花の叢とが世界のへそのような影を落としている。メイは人ひとりには到底推して量れない生命力によって屹立しているんだろう、ユグドラシルの樹を思わせる巨大な幹を茫然と眺める。

 息つく間もなく、今度は闇のように濃い深緑色の森が途切れた大地の端、怪獣の脊椎の化石のような真白い砂浜と、そこに打ち寄せてはまた打ち寄せていく波、白銀の星々のような砂を洗っては煌めく地上のミルキーウェイを思わせる海、波と波の間を反復して翻る光の残滓──そういえばあの霧の中ではずっと海の香がしていたと、メイは移ろう視線の目まぐるしさに惑いながらも思い起こす。

 遠くで果てしなく広がっている海に一心な眼差しを向け始めるメイの思考を読み取ったかのように、向日葵星人が永い年月の間で摩耗したヴィオラの声音で語りだす。

「あの霧は蒸発した海でできている。昔、活断層プレートが跳ね上がったおかげで海底火山の座標が変わって、ここいらの土地では最低月に一回は海霧かいむが発生するようになった。ああやって打ち上げアマモ……海底の空洞の中で冷たい海水と熱された蒸気が混ざり合うことで自然由来の爆弾が生じて、それらが偶発的な爆発を起こした結果海上に幾本もの柱が乱立する冷熱柱逆瀑布れいねつちゅうぎゃくばくふ現象も、海底火山の活動が原因だ」

「あんな、まるで魚雷が炸裂したみたいに……蒸発とか爆弾とか、そんな物騒な海じゃ魚たちも安心して泳げないでしょう」

「LOVEはあんなんでどうにかなるほど脆弱じゃない。妙なことを気にするんだな。この世界の成り立ちとか、もっと他に気にすることがありそうなもんだが」

 向日葵星人は足をルの字型にしてへたりこんでいるメイを見下ろしたまま、訝しげに眉根を寄せる。

「ああ、もしかすると、メイには前の奴の記憶がまだ辛うじて残ってるのか。この世界で造られた奴の記憶が、別の処で生まれたメイの世界への認識の亀裂を繋ぎ留めているのかもしれない。ああ、あり得そうなことだ。そうでもない限り、もっと取り乱してなきゃおかしいもんな」

 向かい風に乾いていく両目を懸命にしばたたかせるメイの頭上やや前方で、向日葵星人がマフラーを鼻下辺りまでたくし上げる。

「そのジャケットはアゲラタムの智慧ちえの隊服だ。皮肉なことだな。これからメイを襲ってくる奴らにはお前の元同胞もいる。……んでも、自分が誰だったかという記憶は、もう残ってないんだろう?」

「あの、さっきからだれに……だ、だれに言ってるの? 前の奴? 前の奴って……あっと、このジャケットのことなら、わたし、ここに来た時にはなんかもう勝手に着てて……」

「んー」

 こんこん、と、藍鉄色の三又フォークの柄がドラゴンフライの甲皮で跳ねる。

 途端、ドラゴンフライが旋回して、狂風に響き合う木の葉から脱穀機に揉まれる稲に羽音をギアチェンジしつつ高度だけを下げていく。

 ジェットコースターは平気でもフリーフォール系のアトラクションにはまるで及び腰のメイはドラゴンフライの甲皮にしがみつき、降下していく先の様子を窺い知る余裕を持てなかったが、灰色の霧の晴れ間の下でモネの画のように光る青苹果色の草原の上空へと、ドラゴンフライは再び水平飛行に羽音やらGやらをギアチェンジする。

「うぅ、酔う」

「ほら、あれだ」

 向日葵星人が錆色の眼で示した遥か下界の方で、なにかがすばやく動いている。メイはドラゴンフライの胴から顔を覗かせ、青苹果色の草原に溢れる光に一瞬、瞼を閉ざす。

 段々と目が慣れてきて、同じく鮮明になっていく像に集中する──3人の人と、それに追われるあの不気味な姿形をした獲物──けれどもあの街で見かけた時とは違って、その植物人間はしっかりと追いかけられている。つまり、ぼうっと同じ位置に留まっているのではなく、逃げている。だからそれと同じ速度で、いや或いはもっと速い3人の狩人に追いかけられている。点と点を紡げば扇形になるような距離も、すぐに縮められて一つの点に収束するだろう。

「あいつらもアゲラタムの智慧だ。服に同じ紋章がある」

「え? あ、これ……?」

 視線で示された通りに追ってみると、確かに、ジャケットの肩の部分に不思議な紋章が模られている。ぼんぼんの花と、背景にひっそりと佇む人間……なんだか不気味なデザインだけれど、不思議と根づいている既視感のせいか特になんの感慨も浮かばない。こういう大人っぽいジャケットに上等そうなワンピース、外底に物騒なくらいに鋭利なスパイクが付いているのが気になるけれど、素敵な穴飾りのついたブーツなんて恰好、ついこないだまでのメイならば思わず破顔してしまうほど嬉しいサプライズになるはずだった。

 3人の狩人も確かに同じ紋章のついた服を纏っているとメイにも視認できたけれど、それよりも、フジツボか、白い光沢を帯びた鉱石のカケラのような頭の突起物のほうに視線を吸われる。不意に自分の頭をさすってみるとそれらしき感触に触れて、彼らとわたしは同じような造形をしているらしいと、メイはこの世界に来てから自分の姿をこの目で確認したことがないがために、彼らが多少風変わりでも人間の造形をしていることに内心安堵する。

 3人の狩人にぐんぐん距離を縮められている獲物はインディアンのような赤い紋様をころころと表情の変わるその顔貌に浮きあがらせていて、黒い髪を風車かざぐるまのように乱しながら、本能的な恐怖を頼りにしている駆け方でがむしゃらに逃げている。

「あの狩人たちはなんなの? あの子をどうするつもりなの」

「狩人じゃない。剪定人だ。別に捕まえてどうこうするわけじゃない。奴らはただ、追うために追っているだけだ」

 剪定──メイの左腕がぐじゅぐじゅと疼く。3人の内の1人が懐からファンシーな花の装飾の施された銃を取り出して、なんの躊躇もなく発砲する。

 対象の脳天を貫いたのは淡い朝靄のような光の弾だった。メイは咄嗟に目を背けようとするも、銃口から立ち昇る光の硝煙と、前方に吹っ飛ぶように頽れた身体から滲みだす光の液に意思の舵を奪われてしまう。

 世にも美しい殺害だった。

 光の液に浸る身体は先程メイが陥ったように──ただし今度は薄紫色の花にうじゅうじゅと埋もれた状態を数刻続かせて、またも、今度は身体に咲き乱れる花が治まることはなく、光の塵を時折り風に舞い上げるだけの、ただの、花の叢になった。

 光──メイの全身をオレンジ色の花々が侵食し、またしおしおと左腕に収まった時──あの不可思議な状態の連続の狭間には閃光のようにぱちぱちと弾ける光があった。わたしはきっとあの光によって、花々の悍ましい侵食から命拾いしたのだ。

「あれが花化スーパーブルームだ。一度希望を持ち、絶望によって失ったチルドレンは、MOTHERを包含するガイアプラントに抵抗する力を失くす」

「希望……? わたし、なにかぱちぱちと弾ける光を見たらあたたかな記憶ばかりが蘇って……あれはあなたがくれた光のおかげ、なんだよね、きっと」

 怒涛のごとく網膜の裏に流れ込んでくる記憶から息継ぎするように目を開けた時、向日葵星人の黒いコートの裾が目の前で力無く垂れていた。そして、悪魔と呼ばれていた彼一人が、わたしの中の黒いものを見抜いた。

 しかし、当の向日葵星人は気難しそうに目を細めて、既に下界の方から視線を逸らし、どこか遠くを見つめている。あからさまに低く沈んだ声色も、メイの友愛の萌芽を邪険にしていると窺い知るには充分な印だった。

「光がもたらすのは希望だけじゃない。絶望もだ。リリィがメイに銃口を向けたように──」

 メイはあくび途中の猫のような口をして向日葵星人を見上げている。すると、向日葵星人は錆色の眼を獰猛な山猫のようにカッと見開いて、片手に持った三又フォークを再び──

 ドラゴンフライの甲皮に跳ねさせるより前に、ぐらっ、と、ドラゴンフライが飛行体制を変える。変えさせられる。三又フォークによる合図ではなく、どこかから飛んできた砲弾の衝撃によって──真っ逆さまに墜ちていく。

 メイは容易く宙に投げ出され、飛べもしないのに両腕で懸命に宙をかこうとする。心臓が冷気そのものになって吸われた酸素を押し出しているかのように息が詰まる。というより、呼吸そのものが下手になったような──

「おーい」

 あくまで平気そうな声にハッとして、自由落下したまま首だの黒目だのを動かしていると、さながらスロットの目が止まる時のように不意にガッチャンという音が聞こえてきそうな具合で、ピタッと、一瞬、鼻先が触れるくらい、まさに目と鼻の先に向日葵星人の顔貌が現れる。

 錆びた刃の切っ先のように鋭利で粗い瞳、頬に散るスギの木粉然としたそばかす、まばらにかかる霧に遮られた陽光に侘しく煌めく黄金色の髪、白銀の光沢が歪曲してかかっている弦のように細いカチューシャ、風を受けて露わになるまっさらな額──無造作に巻かれたマフラーが下方向からぶつかってくる風に乱れて、幾重にも立ちはだかる布地の奥に隠された花を──喉仏を覆う傘のような恰好をした向日葵の花を、メイの視界に晒している。

「あんまりこわがらなくてもいい。じゃないとほんとに終わる」

「ほわっ……! ぁ、さっきみたいに飛んで! 逃げたときっ、みたいにっ……」

「さっきは飛んだんじゃなくて跳んだんだ」

「な、んでそんな平然として……死ぬよ? 、だって」

「こんなんじゃ駄目だよ。メイはゴーストチルドレンなんだ。しぶといから死ねない」

「あなたはっ……!?」

「なんで? 俺が死ぬことを気にするのか 変だな、ほんと」

「そうかなぁ、みんなそう言うんだけども、……ぅぅ、でもっ、わたし、だれかが死んでもなにも感じないような人になりたくないし、それならもう変でいいの」

「なんで?」

「なんで!? なんでって、それは、とても冷たいことだから」

 なんでなんでって、なんでわたしは遥か下方にあったはずの地面に激突して潰れた空き缶みたいになる前にこんなにっちもさっちもいかない押し問答をしてるんだろう。それこそ〝なんで〟だ。メイは労りなのか警戒なのか、どこか億劫そうな握力を手首の辺りに感じながら、さらになんでか、向日葵星人が納得できるような答えをこんな状況の只中でも出してあげたいと思う。──悪魔による人心支配かマインドコントロールかなにかの術中にまんまと嵌っているのかもしれないな──と、ひとり密かにごちつつも。

「それに、あなたがわたしを必要としてるって言ったんだよ あなたが死んだら、わたし、ぅまたひとりになっ、ちゃうよ」

「あぁ……

 俺ももうずーっと死ねてない。それこそゴーストも呆れるほどだ。そろそろ落ちるから、怖いなら目を瞑っておいて。次、目を開いた時には全部が元通りになって ぃ」

 暗転。鉄砲玉に撃ち抜かれた鴉のように、漆黒の翼めいたコートを上向きに畳みながら落ちていった1人と、それに包まれるようにして片足だけを真っ直ぐと覗かせていた1人は成す術もなく高度何百メートルかの上空から地点0の地面に落下する。

 元通りになった後の世界を思い浮かべようとしても、そこに自分の姿を見出すことはできなくて、さながらピンボケした写真のように霞みがかったイメージがあぶくのごとく浮かんでは消えるばかりで……メイは力強い握力をなおも手首に感じつつ、意識の深層へとまろび落ちる。

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