episode:3 ちぐはぐ


 目が覚めたとき、メイはまずそこに自分の存在する世界が在ることに驚いて、冷気を放っているんじゃないかと感じられるほどに滞った全身の血流と、それを必死に巡らせようとしている鼓動との原因となった先刻の衝撃的な出来事とその色褪せぬ記憶の断片から未だ興奮覚めやらぬまま、草いきれの貼りついた錆色の片目でこちらを見下ろしてくる向日葵星人のあんまりに異形が過ぎる姿に驚嘆する。

「かっ、身体が千切れてますけど……⁈」

 うねうねと、最初の数舜はうじに、焦点の合う中途では膨大な数の白いイトミミズの群れに、仔細に観察してみればストップモーションで撮ったかのように活発な植物の根に認識されていったそれは、高度何百メートルかからの落下で全体の体積のほぼ半分がぶっちぶちに千切れた向日葵星人の身体の空白を探るようにうねうねと蠢いていて、せわしく、けなげにむつび合い、足りなくなった身体のパーツを迅速かつ精密に──たぶん、少なくとも外観的には以前通り動かせそうなほど精密に──補完していく。

 不思議と少しとも痛まない首を反らせて、いまは逆光に黒く染め上げられている黄金色の髪とそれらの培地である頭の補完経過を愕然と見上げていたメイは、一瞬、視界の端に覗いた白いものに、逡巡しようとしたはずがついノータイムで視線をやってしまう。

「うわ! 腕がぁ……っ! ないっ、けど、あるっ……?」

 デフォルメされたお化けのようにでろーんと垂れている袖の中身を案じて、腕を──腕のあった辺りを虚しく掴み、悲鳴にも似た声を上げつつ今度は肘の残存を信じて掴む。

 たちまちに手のひらに伝った蠕動ぜんどうの感触に脊椎が戦慄き、さすがに耐えきれず宙で震わせている間にひとりでに起き上がってきた袖をまたつい掴んでみると──なかったはずの腕があった。

 なんだー──未だ視界の端でうねっている根にまなじりの近くも補完されていることを察して、なんだー、と再び思う。ううん、この世界に来てからのことを勘定に入れれば再びどころじゃ済まない。

 メイはぐーぱーできる手のひらを見つめながら思う。もう、深く考えないほうがいいのかもしれない。〝なんで〟も〝どうして〟も、〝なんでも〟や〝どうしても〟で押し通されてしまう。わたしはそのことを知っている。

「HEARTの鼓動が身体全体に反響することで形成される認知地図を基にして、ガイアプラントの根茎が細胞の分化と未分化を高速で繰り返しているんだ。ほら、目を開けたら全部が元通りになってるだろ」

 無造作に巻かれたマフラーの奥で得意そうに笑んでいるらしいことが軽率な語気から窺える。メイは是とも非ともつかない笑みを浮かべつつ、ちらちらと辺りを見回してみる。

 さっきから2人を中心点とする空間に溢れている、カチカチ、カチカチ、という出処不明のクリック音、衣服や手のひらが湿るほどに濡れそぼった地面……不自然な要素は幾つも見つかるけれど、そんなのはほんとうに探せばキリがないようなことなんだろう。メイは左腕に咲いている花の根が身体中に張り巡らされている人体図解をイメージしつつ訊いてみる。

「ここではみんなこんななの?」

「いや。蟲は違う」

「え……あ、さっきのトンボ……」

 もうほとんど失せた霧と、いっそ暴力的なまでに遠く青い天に散らばる雲とが、麦を水でしたような色彩をした光の円をさながら大小無数のスポットライトのごとく、放縦ほうじゅうな野草の揺れる草原に流している。

 その一つの光の内側で、青銅色の蛇腹に見るも無惨な風穴を空けながら痛切な哭き声一つ上げず懸命に三日月型のあぎとをひくつかせる巨大トンボが片方の複眼を地面に押しつけるような格好で伏せている。

 美術館の彫刻か仮想現実かでしか間近に見ることのできないような、あまりに荘厳で静謐な光景に、メイは一瞬、蕩けて冷えて固まってしまったろうのような性悪の感受性の作用に動けなくなったが、すぐに心根の淡いピンク色の蝋燭の芯にあたる部分にパトスの火を点け、野原の向こうで恣意的しいてきな死出の演出のようなスポットライトに曝されている巨躯きょくの許に駆け寄ろうとする。

 蟲を眷属として従えてきたはずの向日葵星人は、魂が肉体に滞在できる猶予に急くメイのやや後方で微かに首を傾げた後、普通に歩いて後をついていく。

 メイが巨大トンボの許に辿り着いた時、その足元では燃された銅板の塵のような燐光が薄藍色の溜まりの上で煌めいていた。青銅色の蛇腹に掘られた間欠泉然とした風穴からネイビーブルーの絵の具を溶いた水のような体液を、清廉せいれんの萌芽を誘う泉の如く放流させている瀕死の巨躯……メイはそっと、掌で甲皮を撫ぜてみる。

「さっきの一味がやったのかな」

「いや。奴らは表面上は冷酷ぶってても、深層のほうでは死や、それに近いなにかしらの結末を想起させるものを忌避している。絶対に敵わないと分かっててなお、こんな思い切りのいい襲撃はしない」

「なに、もうよくわかんない……弱いものを狙うってこと? わたしのことや、さっき3人の狩人にやられてたのだって、自分に反撃してこないことを見越して……」

「狩人じゃない。剪定人だ。狩人は生きるために狩りをする。奴らはただ死なないためにやってる」


 ──意志もなく、表象もなく、世界も無い。われわれの前にあるのは、もちろん無のみ。


 向日葵星人は不意に空で文章を音読する時のように若干伏し目がちになりながら呟く。なんだかゾッとするような美しい横顔だとメイは思う。

「初めから何も無いならよかった。でも、俺たちには花がある。フラワーチルドレンには自我がある。アゲラタムの智慧もそう。奴らは与えられた役割に縋ることで自らの存在価値を確保している」

 存在価値──メイは指の腹に乾いた甲皮を擦りつつ、体液の滲みた地面に接しているドラゴンフライの蛇腹を長いコートの裾が濡れることもいとわずにしゃがみ込んで手探りだした向日葵星人に話しかける。

「まだ助けられる?」

「いや」

「そっか……よく、懐いてた?」

「随分長いこと一緒にいた」

「そうなんだ。か、悲しいね」

 一心不乱に蛇腹と地面の隙間に腕をねじ込んでいる向日葵星人が怪訝そうな面持ちをしたのが空気の微妙な変化で分かる。

 きっと強がっているんだろうなとメイは気張る。悲しいときは悲しんだほうがいいのだ。じゃないと、心が正直に応えてくれなくなる。

「こんなに傷ついて、かわいそうだね」

 メイは自分が悲しんでいる姿を隠さないことで、向日葵星人の心に燻ぶる外連けれんを払ってやろうとする。向日葵星人が無感情を装いながらも巨大トンボの死に対して思いを致していることは、助けられないと分かっててなおまだ明るみになっていない傷の位置を探るこの行動が示している。

 と、てっきり思ってばかりいたから。

 ゾッとするような美しい横顔──といっても、鼻から下は無造作に巻かれたマフラーの段々で覆い隠されているため、実質その眼……メイは謎の力に気圧されて、思わず数歩後ずさる。

 ゆらりと夕闇の陽炎のごとく立ち上がった向日葵星人の手に提がる、飢えた獣の牙に伝う涎さながらに眷属の体液がぽたぽたと滴っている悪魔のフォークの切っ先を、メイは左手首を掴みながらしばらく見つめる。

「それ探してたの……? ひどい、こんなに傷ついてるのに。少しも労わってやらないなんてあんまりだよ。かわいそう」

 ようやくそれだけ言い放つと、いままで感じたこともないくらい冷えた視線に心臓を一突きにされる。でも、この感情の起伏を体感するのははじめてじゃない。それに、こんなのはぜんぜん前の比じゃない。

「かわいそう……可哀想ね……なあ、メイ。そういうのは止めてくれ。同情っていう概念はここでは悪夢や病気や酷い冗談みたいに扱われる。自分に関係の無いものにいちいち同情していたら、もたない」

「もたないって」

「自分が」

「だからって」

「この世界で自我を持つことは禁忌だ。あの、あれら。メイが保存区画で見かけた物言わぬ白痴ども、MOTHERの恩恵を余すところなく享受するガイアチルドレンは、フラワーチルドレンのように固有の意識を持っているわけじゃない。フラワーチルドレンはたまに自我を獲得してしまった異分子を排除するという目的に基づいて生産される人造人間で、アゲラタムの智慧はまさにその目的を行使する剪定組織……さっき上空から見かけたのだ」

「心がないなら死なせてもいいの」

「心があるから死ぬんだよ。ああやって花になって」

 メイはぐっと下唇を嚙む。掴んでいる左手首……あんなに怪我していたのにいまはもう掴めている。どういう仕掛けなのかは計れないけれど、身体中に根を下ろしている花が肉体を朽ちさせないのだ。

 巨大トンボの肢や翅が痙攣している。まだ息があるのか、もういないのかまだいるのかが分からない。誰も死の合図を出さないこの時間が怖ろしく、悲しもうにも悲しむ必要性がどこにも見当たらないこの状況がおぞましい。

「俺が好きにはさせないけれど、メイのようなゴーストチルドレンは次世代式人類固定計画の完遂を妨害するグラスウォールに次ぐ障壁だとして迅速に排除すべきだと、アゲラタムの智慧にはそう通達されている。加えて、アゲラタムの智慧じゃない俺のようなフラワーチルドレンにとっても、ゴーストチルドレンは良くも悪くも特別……兎角、異質と呼んで然るべき存在なんだ。この世界における禁忌を犯している誰もがメイを狙いに来る」

 左腕が疼く。黒いものの好物、ああ、嫌な言葉だ。

「もう行こう。こいつを撃ち落とした奴らがここまで追いつく前に」

 向日葵星人は踵を返して、随分長いこと旅路を共にしていた眷属に一瞥いちべつもくれずに、大小無数の光の円が流れる青苹果色の草原を大股で歩いていく……

……

「メイ?」

「ひとりで、いって?」

「無理だ。メイが必要だ」

「じゃあ、この子はどうだった?」

 ワンピースの裾を握り締めながら、傷まみれの巨躯を指差すメイ……黒髪が光を舞い上げる風にそよぎ、ほの暗い影のかかっていた細い首が露わになる。

 黄金色の髪を一層輝かせる向日葵星人は、一瞬、ドラゴンフライの骸に視線をやったようなやってないような、どっちにしろやはりメイには外連と映る動作をした後、また大股で引き返してくる。そして開口一番

「だから、止めてくれ」

「なにをっ」

「そういうところで狙われるんだ。前時代から迷い込んで来たゴーストチルドレンは往々にして各々の自我に執着している。その執着が、MOTHERによって一つに統合されようとしているこの世界に滅茶苦茶な影響を与える。ある者はそれを恐れ、ある者はそれを期待し、異なる志の下で同じくゴーストチルドレンを狙う」

「あなたも?」

「俺は世界なんてどうでもいい。ただ、探し人がいる。だから、その人に会うまでは世界には終わって欲しくない、と思う」

「世界が終わる、って、なにそれ。そんな大袈裟な」

「MOTHERに適合すれば済むようなことだ。この世界の尺度にらずとも、世界が終わるなんてそう大袈裟に捉えられるようなことじゃないだろう。なにも、破滅と混沌の西暦紀元が再来するってわけじゃない。ただ、終わるだけだ」

 向日葵星人はマフラー越しであることを加味しても感情の起伏が読み取りづらい声をしている。永い年月の間で摩耗したヴィオラのような声音……本気で言っているのか冗談で言っているのか知れず、メイは一方的にこちらの心を見透かされているような居心地の悪い気持ちになる。

「世界を終わらせる悪魔の申し子になりたくなかったら、自分の心をまやかし続けろ。自分ではない他の誰かになりきり続けろ。……これは俺の探し人の言葉だけれど、まるで易しそうに言うんだよな。だけど、この世界に適応する術はそれしか無い」

「ほかの誰かに? それは、みんなやってたことだよ。器用に自分の言いたいことを捻じ曲げて、相手に合わせて色んな形に変えるの。でもそんなの、わたしがわたしじゃなくても、相手が相手じゃなくても、誰にとっても誰でもいいってことだよね」

「ん……」

「居ても居なくても同じってことだよね。わたしは居るのに、居なくても同じだって……」


 ──アスタラビスタ・ベイビー……言葉の弾丸を放ってきた色白の手銃の少年の台詞が脳内にこだまする──きみがきみのことをなんと思ってようと、所詮、きみはこの世界に不要な存在だ。


 誰もわたしを見ない。わたしの考えていることじゃなく、わたしのできることを知りたがる。そして運命というのは残酷だ。ある星の下に生まれついてしまったら、もうそこから遠くへ向かうことは叶わない。無力な子どもなら尚更──要望に応えられることができないと、自由に考えることが許されなくなる。わたしがわたしのことをなんと思ってようと、誰のことをどう考えてようと、所詮、わたしはこの世界に要らない存在だから。この世界に生きている以上、そんな事実を突きつけられた後でどんな希望を抱けばいいというのだろう。

 あのとき、わたしの心を見透かしてくれて、とてもうれしかったのに。

「ゴーストチルドレンとかMOTHERとか、分からないことだらけだけれど、あなたはわたしを、わたしだから必要としてるわけじゃないのかな」

 冷たい視線にまた一突きにされてしまうことが恐ろしくて、左手首を掴みながら俯いている。均等に枝分かれした3つのフォークの切っ先に伝うネイビーブルーの体液がきらりと、滴り落ちる一瞬だけ、主の髪と同じ黄金色に輝く。

 沈黙の行く末にはもう揺るがない返答が待ち受けているように思えて、メイは耳を塞ぐ代わりにまた疑問をぶっつける。

「アスタラビスタ・ベイビーって、なにかな」

「ああ……地獄で、また。昔の映画の台詞だよ」

「地獄……」

「どうせリリィが言ったんだろう。ただのおふざけみたいなもんだから、まともに取り合うだけ損だ」

「その、リリィっていう人は、あなたのことを悪魔と呼んでいたね」

「うん」

「心臓を食べるとも……」


 ──0815の言うことは信じちゃいけないよ。コロッといったときにはもう、きみの心臓はその悪魔の胃の中に収まってる。


「ねぇ、食べるの? 心臓」

「うん」

「な、なんでぇ……?」

「なんでだろう。生きるため。そう、思う時もあるけれど、始めたのは死にたいからだった」

「あなたのこと、わたし、なにも分からないね。あなたのことだけじゃない、この世界のことも、わたし自身のことだって……わたしには、いま、信じられるものがなにもない。……心細いなぁ、どこか、安心できる場所に行きたい」

「安心。家族がいる処とかか」

「家族、うん、むかし、むかしの、家族のところに帰りたい」

「でももう帰れない。記憶の中にしかその場所は無い。仕方無いことについて考えても仕方無い。だから」

 掴まれる前にメイは左手を引く。濡れ輝いている右手は空をかいたが、ふと、たとえ引かなくとも掴まれることはなかったんじゃないかという疑念がメイの心に芽生えはじめる。

「まだ、さっきの返事を貰ってない」

 宙に留まっている手が、まだ諦めがたいというように前進して、なにか見えない力に触れたかのようにフッと引く。

 わたしはただ俯いているだけなのに。むしろ、わたしのほうが怯えているのに。世界を終わらせることができる。そういうことか。わたしという存在が対象でも、わたしを億劫がっているわけではないんだ。きっと。

 鋭くて粗い錆色の眼が、傍らに伏せる巨大トンボの骸に向けられているところを想像する。あれだけ酷い言動を目にしてきたのに、メイの心像にはなぜか哀しい横顔が映っている。そして気づく。それは、深層に焼きつく父親の姿を転写しているせいだ。

 メイは刻一刻と酷くなる左腕の疼きに顔をしかめる。しかしそんな悲壮な面持ちも天蓋のように垂れる黒髪の奥に隠されて──或いは露わになっていたとしても、向日葵星人の返答はやはり揺るぎないものだったのかもしれない──追い打ちをかけるようにメイは返答を突きつけられる。

「たとえ俺が味方だと思えなくても、今のメイには敵しかいない。俺にも、メイにも、選択肢を拒めるほどの自由は無いんだ。メイが疑っている通り、俺はゴーストチルドレンなら誰でもよかった。ここに居るのはメイじゃなくてもよくて、だから、ここに居るのはメイでもよかった。これでもうい、い……ああ、なんで花が育つんだ」

「なんでって……なんで花が咲いていくのかなんてわたしのほうが分かんないよ」

「また、絶望してしまうんだな」

 そんな眼差し──メイは震えた声を発する前に、再び左腕から咲き乱れだした花々に意識を吸われる。

 自分でもなにかは分からないけれどとにかくなにかを乞うような視線を送ると、向日葵星人はいっそ気の毒なほど──やはりあの時の父に重なる──困惑した、加えて、相手に心の内を悟らせまいとする強張りが滲み出ている、険しさやら脆さやらのぐしゃぐしゃに入り混じる眼ですまなそうに言う。

「分からないんだ。そういうの。ガイアプラントの侵食は宿主の絶望に呼応している。でも一体、今の何が……」

「そう、分からないんだよ。誰も、わたしのこと」

 左腕に咲く花々がくすくすと育つ。

 なんとなく、自分の正体も読めてきた。あくまで推察でしかないけれど、この世界の成り立ちも……メイはぐっと小さな拳を握り締める。もしも、この世界がほんとうに、わたしのかつて生きていた時代よりも遥か未来に展開しているんだとしたら──わたしがいま絶望している理由は、たった一つ──拳が力なく解ける──たった一つだ。

「こんなに長い時間が経っても、世界には言葉が必要なんだ」

 内側にある黒いものが、今度は静かに、ただ満ちていく。

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