episode:1 黒と花 (中)


 覚えのない郷愁を司る情景が、閉ざされた瞼の裏に映し出される。


 ──犇めき合う人々。押し合いへし合い罵り合う人々。これはヘリからの中継映像だ。画面右上の見出しには〈世界各地で勃発する限られた物資の奪い合い〉と、見ているだけでいっそう頭が痛くなるような言葉の羅列が……そうだ、なにかとんでもないことが起きている。覚えがなくとも、この情景がいったいどんな惨禍を表しているのかは理解できる。世界的な食糧恐慌の真っ只中、それも、今さら覆せない絶望的な観測結果故なのか、過去に前例を持たないほどの規模であるにも拘わらず〝第一次〟と悲観的な冠言葉を被せられてしまった、なにもかも不名誉で不吉な、世界終末時計の長針をいともたやすく推し進めた出来事……移民への排他意識が極限まで高まり、この中継映像を目にしている女の子──なぜだか分かる、女の子だ──は、結局、善とは多数派か、歴史に名を刻めるような社会的勝者にしか着飾れない正義のころもなのだろうと、自棄的な諦観に心の避難場所を見出して、そこで黒いものを育てた。

 なにかしら不吉な事柄の暗喩めいた4桁の数字が映し出される。2025──白くて冷たくて明るい部屋にとっての主観を持つ女の子は、ベッドの上でルの字型にへたり込みながら左手首を掴んでいる。右耳の辺りの頭部には硬質で滑らかな突起物が触れる──脳化、ICチップ、2025──また騒々しい濁流のような人々の群れの映像と、傷まみれのレコードさながらに飛び飛びな文章を読み上げる平坦な声が脳裏に流れる──推奨されるのは、効率的で公共的な生き方。持続可能な社会を実現するための一構成要素として 生産人口の減少が今後は危惧され……21世紀 世界は緩慢に しかし着実に、終末へと──

 怒号と閃光が断続的に放映されるテレビ画面の前で石ころ然と動かない女の子は「過去の負債のために未来への投資を蔑ろにするな」というシュプレヒコールを耳にする。

〈人間の生命活動の定義は脳の正常な活動〉

〈言語のやりとりで解消可能な範囲内での認識の齟齬の発生が、健常な人間であるかどうかを定めるコミュニケーションにおける最低限のボーダーライン〉

「直せない人間はもはや捨てるほかない」

 ぼろぼろのお人形みたいに項垂れている女の子の (わたしの大事な人が健常ならいい) 小さな心の声に、現在いま、この花の世界で頭を抱えている女の子の心は哀切に呼応する。

 ──「僕たちは子どもの味方だ」

 心当たりのない罪に、体験していない歴史の累積に……なにかと理由をこじつけて虐げてくる大規模な共同体……利権を巡り内輪で諍い合う大人たち……黒いものは、すべて食べる。

 ──「おとうさん、おばあちゃんは大丈夫だよね」

 相手が忘れても、わたしは忘れない。損か得かで捨てるかどうかを決めたくない。わたしは大丈夫。信じない。信じない。信じない。

 ──(責任を負うということです。)

 相手が健常でないと分かったら、途端に邪険な扱いをする。みんながそうなら、わたしはしない。ひとりきりでも、黒いものがあるから大丈夫。わたしは信じない。

 非営利組織であり、非政治組織であり、もはや私兵の集いとも呼ぶべき少年少女たちの残忍で無垢なる結束によって積極的安楽死が推進された。生産性のない人間と生産性のある人間の命を選別してきた結果を、貧相に衰えさらばえた土壌に蒔かれた優生思想の成長を、しかと見届けてきた少年少女たちの掲げたスローガンは「歪んでいる」と大人たちに紛糾されるような、もの、で……頭が、酷く痛む。網膜の裏が灼けつくようだ。心臓の鼓動のような光が白む。あまりに眩しい。明確な名称を持たない人体の箇所が、痛む。痛い……。

 ──「子どもたちの幸福な未来を阻むものは排除しなければなりません」

 猥雑と混沌を極めた世を突き進んでいく願は、どこまでも、さながらブレーキの利かない車のごとく、どこまでも、破壊に破壊の限りを積み重ね、その余波を、ほんとうにどこまでも波及させていく……

 ……雨が上がったばかりの真午、空模様は埃を取った雑巾を浸けたバケツの水をいっぺんにぶち撒けたかのような曇天で、噎せ返るほどの土の匂いが辺り一帯の酸素を食い潰すように充満している。

敷板を踏む裸足に伝わる振動、べったんべったんという感触、汗の垂れる背筋に張りついたシャツのべたつき……あるものすべてがなにもかもすっきりしておらず、どこかの廊下の情景にとっての主観を持っているその人はあくまでだるそうに、庭に群生する椿の葉に乗っかっているかたつむりの殻を手に取るまいか、中身を確かめようかどうかと逡巡している。

 手指がかたつむりの殻に触れる寸前、聞き覚えのない足音を耳にする。静かで、確かな、死の床に伏せる人間の脈拍を感じさせる足音……良しとしてようが悪しとしてようが、どこに向かうべきなのかをちゃんと理解している足音……いま、春の息吹がくゆらす煙管キセルのような霧に沈んでいる街の通りから近づいてきているのと同じような足音……そして、その足音を耳にしている女の子の気持ちも、どこかの廊下で誰かの足音を耳にしているその人の気持ちも同じであるような気が、不思議としてならなくなる。


 覚えのない郷愁を司る情景から、灰色の霧の中に灯る一本の帯状の太陽に焦点が合わさっていく。

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