サンの旅

episode:1 黒と花 (前)


 女の子は見知らぬ街を群れからはぐれた哀れな仔羊のようにさ迷っている。

 灼けた砂色のジャケットに空いたボタンの穴を、己の心臓ようやく一つを収められるくらいの手でひっかけながら、身体全体を杖にするように、ゆっくり、重たげに、この身一つしか頼れるものがないという様子で、俯きがちに歩いている。

 街には海水の霧が立ち込めており、天と地の境界が曖昧な空には照明の当たった煙のような光がそれぞれ微細な粒子となって、なにか不可思議な力に引き留められているかのごとく、弱弱しく震えながらもぼおっと一つ処に寄り集まり、一本の帯状の太陽のように灯っている。人工の建造物がひしめく街の方々には瓦礫と草のむれがのさばっている。青の絵の具をすこぅし落としたように薄っすらと病んだ色合いをした女の子の鼻先には潮と花の香りが纏わりついている。

 一見すると、猥雑な都会の喧騒に囲まれて育った女の子の内なる空疎を反映した死後の世界の心像のようにも取れるその街の風景は、しかし、段々と大きくなっていくプロペラの駆動音と、宙を舞うウツボカズラ然とした偵察機から放たれる赤い光とによってにわかに崩壊していく。

〈視認‐個体識別番号1227〉

〈状態‐希望病罹患済 要請‐個体識別番号0827による追跡の続行 施行‐その他統治者クラスの個体およびFATHERらへの最大注意レベルに基づく通達〉

 点と線が幾重にも折り重なった電子音が降り注ぐ。

 ──ジ…ジジ……ピ。シチ。

 女の子は縦横無尽に宙を舞う植物の機械プラントイド、或いは、機械の植物プラントイドを仰ぎ見る。

〈推考‐ゴーストチルドレン〉

 刹那、女の子はよろめきながらも駆け出していく。時々、爪先が凹凸だらけの大地につっかえて転びそうになるも、遮二無二振る腕の推進力でふわりと跳び超えていく。

 プロペラの駆動音は遠ざからず、どころか数を増しながら、行く手行く手に音の障壁となって立ちはだかる。

 細く黒々とした蔦に取り巻かれている廃墟に押し潰されそうな隘路を、女の子はジャケットが擦れるのも構わずに通り抜けていく。途中で、隘路に張り出していた窓枠に左袖がひっかかったときも、そのままむりに突き進んでいこうとして……はたと、ある一点を横目で見据えはじめる。

 四方八方から反響してくる音に急かされつつも、女の子は頑として視線を逸らさない。窓は無機質な骨組みだけを残して無残にもガラスを落とし、建物の中の様子をぽっかりと外界に晒している。

 頭の中を占領する疑問符を置き去りにして、女の子はなんとか隘路を通り抜けようと試みてはいる。しかしどうにもそれから視線を断ち切ることができない。腹這いになって鈍くも移動するなめくじのように、女の子は狭い隘路で身じろぎしながら、灰色に翳みがかった部屋の暗がりに埋もれているそれをなおも凝視する。

 ふと、それから放たれた、一度弓を離れた矢のような視線が、捉えどころもなく揺らいでいた女の子の思案の波を射止める。女の子はつと顎を引いて、地面と足とを留めていた頑強な好奇心をわななく悪寒で引っぺがす。

 隘路を抜けると、それまでなりを潜めていた赤い光が夜空に瞬くベガのように女の子の黒い瞳に明滅する。灰色の霧の中から点々と浮かび上がる赤い光はオフィス街に灯る無数の常夜灯を思い起こさせるが、行く先々で立ちどころに現れる建造物は、折れていたり、崩れていたり、朽ちかけていたり、およそ人の気配が感じられないほど廃墟然としているばかり。

 しかし、それでも確かにそこにいるそれらの視線を感じつつ、女の子は影のように追いすがってくる黒いものを必死に振り切ろうとする。

 どうして逃げているのだろう。

 どこまで逃げれば安心だろう。

 宙を舞うウツボカズラはあくまで対象の追跡にのみ従事しているようで、行けども行けども潰えることのない赤い光に、女の子は次第に襲歩を速足程度にまで緩め、森の木々を人工の建造物に挿げ替えたような街を見回してみる。

 それはさっきからぽつぽつと、折れかかりそうなまでに伸びる街路樹に覆われた街の薄闇に浮き上がっている。眼は木の洞のように乾き、虚ろで、静止している様子は彫刻のよう。

 植物人間──そんな言葉が脳裏によぎる。辛うじて人の形を模しているそれは、何百年もの時間の中で表皮の溝から植物の種子を芽吹かせたかのように、乾いた白の絵の具然とした裸体をのびのびと茂る茎だの葉だのに取り巻かせている。

 それに意識らしきものの兆しは感じられない。しかしみんながみんな女の子を気にかけているように感じられる。たとえどれだけ遠ざかろうとも、膨大な数の視線めいた不気味な気配は蜘蛛の糸のように絡みついてどうにも振り払うことができない。

 ふるり、と、不安の萌芽に呼応したように左腕が疼く。女の子はその疼きに導かれるように左袖の裂け目を覗いてみて、あっ、という何者かの声を聴く。

 灰色の霧に侵されつつある袖の中で、鮮やかなオレンジ色の花々が身じろぎするように揺れている。指先で花弁や茎をかき分けてみる。一見するとただ皮膚に貼りついているだけの花々はしかし、さながら無数の錨のように皮膚の奥のそのまた奥に埋もれる肉の深くまでもつれ絡まった堅牢な根を下ろしているらしい。

 どうしよう。女の子は訳も分からないまま喉の奥からこみ上げてくる焦燥に、危うく泣こうとしてしまう。降り注ぐ電子音に打たれて息を吞まなければ、先に惨めな呻き声が漏れていたかもしれない。

〈視認‐個体識別番号0827〉

 女の子はハッとして、どこからか鳴っている靴音の方向を探る。やがて、遠くの霧の揺らぎの合間に明晰な靴音と同じリズムで揺れ動いている人影を見つける。

 斑に濡れそぼった黒土とアスファルト舗装の残骸とが不規則な凹凸を成している街の通りを、確固たる目的を携えた歩調で向かってくる人……。──人。人だ! 女の子は思わずわっと声を上げて駆け出しそうになるも、すんでのところで揺り起きた痛みに頭を抱えてしまう。


 覚えのない郷愁を司る情景が、閉ざされた瞼の裏に映し出される。

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