episode:5 授業:前半
メイとサンが巨大トンボの背に乗って保存区画──人呼んで朽ち葉の街から逃げおおせ、いくらもしない間に青苹果色にそよぐ光の草原に墜落する、その少し前。
真白なスズランの花を右腕に一筋ばかり咲かせた0827は、眩暈に犯されるようによろめいている。
サンがメイの身体を侵食するガイアプラントを鎮めるために使った〝希望を触発する光〟の余波が、未だに垂れ込めている海霧での曲折を通して0827の記憶を淡い蜃気楼のように喚起している。
「げぇ、やだなぁ、ぼくの希望は絶望を独りにしてはおけないんだ」
──窓の外には南国風の植物園が広がっており、視界に鮮やかな花々が天窓から差し込む黄金色の光に晒されている。少しでもガラス戸を引いたら隙間からオイルが流れ込んできそうな具合の色彩だけど、そのようにして窓の外に広がっている風景は実物ではないことをぼくは知っている。薄いシート状のディスプレイが予めガラスに組み込まれてあって、FATHER──いまは〝先生〟〝TEACHER〟だ──の気分に呼応して、スライドショー式にでも、あるいは固定したままでも、世界中で保存されてきた風景写真から構築したデータでもって、言うなればオーダーメイドの心像風景を映し出すようになっている。
FATHERは〝黒板〟代わりのホログラムボードの前や後ろを行き来しながら、時折り、指の関節をぽきぽきと鳴らしつつ、ぼくらに向かって説く。
ここは〝学校〟で、ぼくらはいまは生徒だ。隣の席の0815が肩まで垂れる黒髪を耳にかけて、植物園の中央に鎮座する天体模型の噴水を眺める。ぼくの席は窓際だから、ひょっとすると、0815はぼくに視線を向けているのかもしれない。だけどいかんせん、0815の両目には長い前髪がかかっているし、ぼくはFATHERの挙動をいっそ恍惚気味に鑑賞しているから、正誤のほどは分からない。
ぼくはFATHERが大好きだ。そして0815も好きだから、長い前髪が見るたびにお互いを想起させることは、ぼくにとって心地いい相互作用だと言えた。
FATHERがこの世界の成り立ちについて説く。
「じゃあみんなは、NODファクターだの万能物質だのと呼ばれているこれが本当はなんなのか知ってるかな。……0815、どうかな」
「え。えっ、と」
「やっぱりよそ見してたな。ちゃんと聞いてたら分かることなのに」
ぼくはあたふたしている0815を呆れた様子でなじる。ここのところ、どうも0815は注意力に欠けている。ぼくはFATHERに向き直って、回答権をアイコンタクトによって移してもらったあと、なるたけ清廉とした声色で言う。いつか、FATHERが耳に心地いいと語ってくれた声色で。
「MOTHERです」
「うん、じゃあMOTHERとは一体なんだろう。諸説でいいよ」
「地球の自浄作用?」
「地母神の意思!」
0403と0319がほぼ同時に答える。〝教室〟にはぼくを含めたフラワーチルドレンが10人、教壇のFATHERを目で追いながら前後2列5席ずつで座っている。他のところがどんなもんなのかは知らないけれど、この空間には秩序と呼べるほどの空気がない。かといって無秩序というわけでもない。仮に10人が10人思い思いの言葉を口にしたとしても、FATHERは
FATHERは僅かに笑んだまま続ける。
「そう。かつての西暦2020年頃から、SDGs──持続可能な社会を実現させようなんて文言が
「MOTHERは、でも、結局のところなんでしょう」
「なんだろう。ふふ。さっき、本当はなんなのかなんて訊いたけれど、MOTHERが本当はなんなのかなんて未だに分かったことじゃあないんだ。ある時、ポッと発現して、これまでの人類が好き勝手やってきたツケに頭を悩ませていたこれからの人類に救いの手を差し伸べるように、分化万能性や半永久的な代謝機能、完全免疫をもたらすガイアプラントの細胞と人体の細胞との仲介役を担ったMOTHER……NODファクター、万能物質……なにが正解なのかなんて分かったもんじゃあないなら、これが正しいと言い切ることは本来間違っている。だけど、ガイアプラントの力を借りて独立栄養生物に進化したあと、人類が代償として──まあ、今は恩恵と言っているね──獲得した集合意識の必然性を説明づけるには、MOTHERは地球の自浄作用である、荒廃する大地を憂えた地母神の意思であると、正解を定めちゃうほうが楽だったんだ」
FATHERは教科書を持った手を上下に動かして、ぴらぴらと、蝶の羽ばたきのように
「あんまり、そういうことを言っちゃあいけないんじゃないの。FATHERはいま〝先生〟なんだから」
「うん。そうだね。ここは〝学校〟、みんなにはただ教科書に書いてある通りのことをこんこんと教え込めばいい。でも、俺は〝先生〟であると同時にFATHERでもある。子どもは生まれてくる親を選べないんだよ、災難なことに」
「ぼくは偶然、FATHERの許に生まれてきたことをうれしく思います」
ぼくはぼくの本心を恥ずかしげもなく伝える。いつか「気持ちは伝えようとしないと伝わらない」と説いたFATHERの言葉を一番体現できているのはぼくだ。なのに、FATHERは長い前髪の奥でなにかを透かすような眼を細めて、ぼくではなく、0815のほうに注意を向けているように映る。
「いったい、0827のほかにそんな光栄なことを思っている子はどれだけいるかな。
ちょうどいい。それじゃあ、例えばの話だけれど、全然真逆なことを思っていたとしても「そうです」と口にしてしまいさえすれば、俺にはその言葉の真偽が計れないわけだよね。さあ、次の章……『MOTHERによる恩恵──集合意識について』にいこう」
ぼくはもどかしさを感じる。ぼくのこの気持ちは本物なのに……!
「……21世紀の中葉。世界の人口は一時は100憶弱にまで上り詰めた。あらゆる天災や人災が各地で勃発した挙句、人類は分断に分断を繰り返し、怒れる獣に成り下がり、傷に傷を当てるような諍いが平常のものとなった。当時、辛酸を舐めていた人類学者や、輝かしい未来を
ぱちぱち、とFATHERが拍手をする。ぼくらも倣う。初めは点々バラバラな調子だったけれど、誰が指揮を執るでもなく、次第に音が合わさってくる。
FATHERが止める。ぼくらも止める。
「これが創発特性。みんなはなにも意識して音を合わせようとしたわけじゃない。無意識のうちに拍手のリズムを合わせたんだ。あとは、ごみごみした道を誰の足も踏みつけにせずに歩けるとか、株式市場の動きとかも創発特性に該当すると言われていた。脳化の促進に伴って個々が個々を主張するようになった世界で、新しい調和と、厳しい浮き沈みのない繁栄を実現させるためには、この創発特性に焦点を当てるべきだと、当時の学者さんたちは意見を合わせたんだ」
FATHERが指を鳴らす。ぽき、ぽき。
「生物学では他の生物種よりも広い分布や生活圏を誇っている生物種を支配的と見なすんだ。驕り高ぶった消費者として長らく君臨していた人類も生活圏の広さにおいては植物に敵いっこなかった。より広い生活圏を獲得できるということは、より優れた環境適応能力と、あらゆる外的問題への対処能力を持っている、そういうことの証左とも言える。
文明が発達し、各々の人種が各々の領地を確保するようになると、人類は保守を引き続かせるために代々排他的な性質を育むようになった。自分と異なるものは劣っていると決めてかかる性質と言ってもいいかもしれない。植物に対してもそうだったんだ。あれには脳がない。感情がない。神経がない。だから軽んじても問題ない。しかし植物には脳がなくても、創発特性を発現させる分散知能と、個体ではなく群れとして振る舞う群知能がある。脳という器官に頼らずとも、人類よりずっと優れた知能を持っていたんだ。インターネットの普及による人類の相互接続と、そこから零れ落ちる
「もっと早くに気づけないなんて、人類は
「人類の体系がある程度植物のそれに沿えていた時代だと、古代アテネの頃にまで遡るね。アテネの最高決議機関である
ところが、ソクラテスならびにプラトン、プロタゴラス……ソフィストおよびフィロソフィスト、人類の崇高な体系とやらに
プラトンの有名な対話篇『ゴルギアス』にこんな一節がある。〝法律は力の弱い者たちによって力の弱い者たちのために作り出される。だが自然そのものが明らかにしているように、正しくあるためには、価値の高い者は価値の低い者に優越していなければならず、能力のある者は能力のない者の上に立たなければならない〟先人たちの主張していた自然に相反しない方法とは、つまり、ヒエラルキー構造に基づく政治であり、ジャングルの掟にも当てはまるかもしれない、弱肉強食とも呼ぶべき原理だった。しかし、その主張に即した政治を運用した社会がどうなったかは、みんなもここにいるんだからよく知っているね。代表制民主主義や、ヒエラルキーに準じた官僚主義、それらによる政治の運用を選んだ社会は柔軟で多様な対処を要求する環境の変化に成す術もなく破綻した。人民が惑う中で突如として発現したMOTHERは、分化万能性や半永久的な代謝機能や完全免疫などの身体面における対処能力だけでなく、分散知能や群知能などの〝
「MOTHERはまるで人類を愛しているみたいだ」
「そうだね。昔の人類もそう感じたからこそ、MOTHERの恩恵を余すところなく享受した新人類のことをガイアチルドレンと呼称したんだろう」
FATHERがどこか遠い目をする。ぼくらは敬虔な気持ちで口を噤む。植物園から差し込む光に照らされたFATHERはさながら旧人類をモチーフにした戯画のようだ。ふと、0815が沈黙を破る。
「じゃあ、俺たちはMOTHERに愛されていないのか」
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