閑話 領主と従者

 ほんのりと東の空が白くなっていく。体が沈み込むようなベッドから、その柔らかさに抗うことなく起き上がる。寝起きとは思えない速度で身支度をこなしていく女性。顔を洗い、着替えを済ませ、鏡の前で紅い髪を簡素な木の櫛で梳かす。寝癖を直し終えた彼女は、その木の櫛を大事そうに机にしまう。再び鏡で身だしなみを確認した彼女は、物音を立てない静かな動きで、部屋を出たのだった。


*   *   *


 鉄を打ち鳴らす音が絶えず響く港町。笛吹き男がもたらした魔獣襲撃。魔獣の攻撃にさらされた街では復旧工事が進められていた。

 外壁はもちろんだが、町の東に位置する領主の館も被害に遭い、それぞれの建物は足場で覆われている。そんな館の一室に匿われているお尋ね者のハル。港町以外の者が見たら青ざめるほどの容疑をかけられている彼だったが、領主のはからいによって保護されていた。町の人からは二度も町を救ったことで英雄視されつつある。そんな彼は、先の事件で溜まった疲れを癒すため、この港町で過ごしている。

 二、三日ゆっくりと休み、疲労から回復したハルは、匿ってくれていることのお礼として館での雑務の手伝いをしていた。


*   *   *


 蒼い絨毯が敷かれ、窓から光が差し込む廊下。町の様子が映る窓の前に雑巾を持った青年の姿があった。窓の清掃をしている彼は、目の前の窓を拭き終わり、隣へと移ろうとする。そんな青年に向かって、紅い髪の女性が労いを含んだ声をかけた。

「お疲れ様です。ハルさん。そろそろ休憩なさってはどうですか?」

 女性の声にハルは、拭き始めようとした手を止める。そして、女性の方を向き言葉を返した。

「そうですね。ここが拭き終わったら、休憩にしますよ」

「わかりました。では、ルテアさんにも声をかけてきます。食堂で準備しておきますね」

「ありがとう」とお礼を言うと、女性は食堂の方へと歩いていく。ハルは再び窓のほうに向き、手にした雑巾で窓拭きを再開させた。


 掃除道具を片付け、休憩の誘いから数分が経っていたことから急ぎめに大食堂へと向かう。

 大食堂のドアを開け辺りを見回す。お昼を回り、混雑時間を過ぎているため大食堂には二人の姿しかない。紅茶をカップに注ぐアンリと、ハルの傍付きであるルテアがお菓子の入ったバスケットを机に運んでいた。先ほど言っていた通り、休憩のための準備が整えられていた。自分の仕える主の姿が見えるとルテアは手を止め、ハルの元に駆け寄る。

「お疲れ様です、ハル様」

「おつかれ、ルテア。遅くなった」

 お互い労いの言葉をかけると、ルテアは用意していた席へと案内する。

「いえいえ、こちらにどうぞ」

 ルテアに案内された席に座る。しばらくして、隣にルテア。彼女の正面にアンリが腰を下ろした。

 長方形の机の上には、こんがりと焼き目が付き、ドライフルーツが真ん中に埋め込まれたクッキーがバスケットに盛られている。それぞれの目の前には、赤い紅茶の入ったカップが置いていた。

 三人はそれぞれのカップの紅茶を飲んだり、クッキーを食べたりと、一息ついている。オレンジ色のドライフルーツが乗ったクッキーに手を伸ばしながら、ハルは右斜め前に座るアンリに尋ねた。

「そういえば、今シャルトは?」

 カップを持ちながら、アンリは一度視線を宙に向け、考え込む仕草を見せる。思い出したのか答えた。

「確か、港の方に出ているかと」

「港の方か。今日は一緒ではないんだな」

 白いカップに入った紅茶を一口飲み、そのまま手に持ったまま、彼女は残念そうに答えた。

「はい。今日は、一人で行くと仰っていたので」

 二人の話を聞きながら、クッキーを食べていたルテア。一人館に置いて行かれ、残念そうにしているアンリを見て、話題を変えるために口を開く。

「そういえば、アンリさんってシャルト様が領主になったときからこの館に仕えてる古株だって小耳に挟んだのですが、それって本当なのですか?」

 ルテアの質問に。アンリは苦笑いを浮かべながら答えた。

「半分正解ですね。私がシャルト様に仕えるようになったのは、あの方が領主になって一月ぐらいでした」

 そう答えると、アンリは視線を宙に漂わせた。まるで、遠くを見つめるかのように。


*   *   *


 港町ポートタット。ここは昔から交易や漁業が盛んでいつでも活気にあふれた町。当然そこの領主も、港町の豊かを体現したかのように豪勢な暮らしをしていた。そんなある日。央都からやって来た監査団により、港町を治めていた領主は不正など原因で失脚。その監査団の一人が領主として港町を治めるようになったのだった。

 はじめは、若すぎる新領主に不満を覚える声はあったが、一月が経とうとした頃には、その混乱も収まっていた。

 その新領主の名は、シャルト=アラン。前領主の不正から全領主関連の富裕層の不正を暴いたことによって町の大多数から支持を集めていた。


 その領主が治める町の路地裏。全力で駆けて行く人影があった。何かから逃げるように、港から町の中心部へと全力で走っている。足を動かしながら、何度も背後へと視線を向ける。誰も追って来ていないことを確認すると、足を止め、建物と建物の隙間にある木箱へ身が隠れるようにしゃがみこんだ。すると、お腹から小さく音が鳴る。がむしゃらに走ってきたためお腹を空かしていた。

「……お腹、……た」

 空腹感から壁にもたれかかり、うまく回らない頭でこれからどうするのか考えていた。そうして、考え込んでいる間に何度もお腹が鳴る。そして、疲れも相まって、段々と意識が朦朧としてくる。その影響もあって、目の前まで接近してきた人には気が付かなかった。

「こんなところで何をしているんだ?」

 突如話しかけられたことで驚き、立ち上がる。背後の壁から飛び出している板に頭をぶつける。痛みをこらえながら、声の主に視線を向ける。

 金髪に緑眼の男。濃紺のコートを羽織り、フリルのついた白いシャツ。黒のズボン。がっしりとした体格。裕福な家の人なのだろう。追ってきている人達とは違うことにひとまず安堵する。

 男の質問に答えようと口を開いた。だが、言葉よりもお腹の音が先に出る。

 その様子に、逃げて来た人物は、顔を紅らめていた。声をかけた男は、何か気づいたのだろう。納得した表情を浮かべて「少し、待っていてくれ」と声をかけると、急いで立ち去った。

 ものの数分で、男は戻って来た。手にはみずみずしい葉野菜を挟んだバケットサンドがあった。男は、そのサンドを差し出し言った。

「お腹が空いているのだろう。これでもどうぞ」

 自らのお腹の空き具合と、不信感を天秤にかけていたが、あっさり空腹の方に天秤の針が傾いた。男の買って来たサンドに手を伸ばす。男は、紙袋に包んだサンドを渡そうと指し伸ばされた手を見て、小さく声を漏らした。

「……これは……まさに、奴隷じゃないか……」

 細い手の主には、男の声は聞こえなかったようで首を傾げていた。痩せ細っている手に、鉄の腕輪が付いた手で、男からバケットサンドを受け取り、嬉しそうにかぶりついた。




 野菜たっぷりのバケットサンドをほおばる姿を観察していると、彼。いや彼女の置かれている環境がだいたい理解できて来た。空腹を満たすために必死にかぶりついているこの人は、年はそこまで離れていないだろう。やせ細っているが、年相応の顔つき、背丈。おそらく奴隷のような扱いを受けていたのだろう。手と足には、鎖がちぎれているが枷のようなものがあった。髪の色は、くすんでいるが綺麗な紅色をしている。

 あっという間にバケットを食べ終えた少女に対し、男は優しい口調で質問を投げかける。

「君の名前は?」

「アンリ。みんなからそう呼ばれている。あなたはいったい?」

 アンリと名乗った少女の質問に、男はそう言えばと反応をする。そして居住まいを正し名乗った。

「オレの名は、シャルト。シャルト=アラン。名乗るのが遅くなってすまない。ところで、最初の質問に戻るのだが、こんなところで何をしていたんだ?」

 質問に対し、アンリは何か言いよどむような表情を見せる。だが、先ほどまでバケットを持っていた手を見つめて答えた。

「……逃げていました」

 その言葉に、だいたい予想がついていたが、重ねて質問をする。

「なにから?」

 その質問に、少女は思い出したのだろう。身震いしながら答えた。

「……気が付くと船の上にいて、船の人たちが私たちの事を商品と呼んでいました。売られるのが怖くなり逃げて来たんです。あいつらが、だれかわかりま、せん」

 怯えながら話す少女に対して、一言声をかけた。

「よく頑張ったな。だが、もう大丈夫」

 その言葉の意味が理解できないといったような表情を浮かべたアンリに、言い忘れていたな。といった様子で言葉を付け加えた。

「オレは、この町の領主なんだ」

 そのカミングアウトに、アンリは驚き勢いよく頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。何処か声が震えていた。

「申し訳ございません。領主さまとは知らず。これまでの無礼お許しください……」

 アンリの言葉に、シャルトは慌てて止めるように言った。

「いいよいいよ。別に気にしてないから」

 その言葉に、安堵の様子を浮かべた。

「あ、そうだ。これ使って」

 思い出したかのように、シャルトはポケットからハンカチと木の櫛を取り出し、アンリへと差し出す。差し出されたものに困惑する彼女にシャルトは言葉をかけた。

「口元、さっきのソースついてるよ。ついでにこれもあげる。いくらでも持ってるから」

「え、あ、ありがとうございます」

 慌てた様子のアンリに、笑いながら様子を見守るシャルト。さっきまでの緊張状態が和らぎ始めていた。

 和らいだのもつかの間、二人のいる路地裏に鋭い男の声が響いた。

「おい! 何処ほっつき歩いているんだ。ほら、帰るぞ!」

「まったく、手間かけさせんなよ」

 その声が耳に入るとアンリは、恐怖で動けなくなっていた。アンリの言っていた船の乗組員だろう。男二人が、近づいてやせ細った少女の腕を掴みかかった。その瞬間、アンリは「いや」と小さく悲鳴を挙げた。だが、男達の耳には届いてはいない。当然、シャルトの姿も男達の視界には入っていなかった。

 目の前で繰り広げられる拉致に近い状況に、シャルトは男二人へ声をかけた。

「あのー。それはさすがに乱暴すぎません?」

 男二人が、その声に「ああ?」と怒気を含んだ声で振り向く。その瞬間、男の一人が苦悶の表情を浮かべる。その男の腹部には、シャルトの拳がめり込んでいた。拳を男の体からどけると、男は勢いよく地面に伏せた。男の一人が倒れると、解放されたアンリはシャルトの背に回る。もう一人が、口調を荒げながら怒りの声を挙げる。

「てめえ! 何しやがる。部外者は引っ込んでいろ!」

「その子、怯えていますよ」

 男の声を無視して、冷たい声で返す。男は、シャルトを厄介払いするように言った。

「てめえには、関係ないだろうが。これ以上手を出すんじゃねえ」

「……はあ」

 深いため息をつく。目の前の男に呆れるように。

「君、その子を離しなさい。これが最後通告ですよ」

 男は、その言葉を無視してアンリの腕を引っ張る。そして、目の前を通り過ぎていった。その瞬間、懐に入れていた水の瓶を開ける。すると、水の塊が懐から勢いよく飛び出した。

 ぷかぷかと男とシャルとの間に浮かんだ水の塊。その塊が一瞬で狼に形を変える。狼の姿をした水は、背中を向ける男の肩にかみついた。男は痛みに、アンリをつかんでいた手を放す。シャルトがアンリを保護し、右隣に水で出来た狼「水狼」を出しながら告げた。

「貴様のような屑は、この町にいらない。船ごと沈めてほしくなかったら早々にこの町から出て行け」

 その宣告と見下すシャルトにおびえながら、噛みつかれた肩を抑え後ずさる。倒れた仲間を拾って一目散に逃げていった。




 逃げていく男を、座り込みながら見つめているアンリ。彼女は、事の顛末に呆然としていた。

 呆然としている彼女に対して、シャルトは声をかけた。

「大丈夫? 怪我は無い?」

 その言葉に答えることなく、アンリは泣き出す。追手が逃げていったことからの安堵。奴隷として生きていくことの未来からの解放。そういったさまざまな感情が処理しきれなくなって涙として出した。

 目の前で泣き出す女性に、どうしていいか分からずシャルトは少し慌てていた。落ち着いた様子の水狼は、アンリの涙を優しく舐め慰めていた。

 

 しばらくして泣き止んだアンリは、目の下をぬぐいシャルトに向き直る。そして、頭を下げお礼を言った。

「助けていただき、ありがとうございます。彼等から解放してもらい夢のようです」

 すっかり冷静さを取り戻した彼女の様子に満足したシャルトは言葉を返す。

「それは良かった。君、アンリといったね。これから行くところあるのかい?」

 彼の質問に、アンリは首を横に振る。その反応を待っていたかのようにシャルトは提案を出した。

「この港町ポートタットの領主に仕えてみる気はないかな」

 思わぬ誘いに、彼女は口を開いたまま固まっていた。思考が停止したのも一瞬。彼女は、悩む素振りもなく片膝を立て、ひざまずく。そして、頭を下げて述べた。

「私は、あなた様に救われた身。どうか存分にお使いください」

 彼女の忠誠の答えに、満足したようで、手を伸ばす。それと同時に名を呼んだ。

「これからよろしく。アンリ」

 彼女は、差し出された手をしっかりと握り答える。

「宜しくお願いいたします。シャルト様」

 こうして、港町の舵取りでもあるシャルトにアンリが仕えることとなったのだった。


*   *   *


「——リさん。アンリさん。」

 ルテアの呼ぶ声に、アンリは夢から覚めたかのように、意識を過去から現在へと戻す。

「ごめんね。ルテアさん。それで、シャルト様と私の話だっけ?」

「そうですよ。お二人ってどう出会ったのかなって」

 ルテアの質問に、アンリはいたずらな笑みを浮かべる。

「長くなりそうだから。また今夜ね。さて、ハルさん。仕事に戻りましょうか」

 話題をはぐらかされたルテアは不満そうにほほを膨らませる。そんな顔をしながらも、アンリに言われた通り、いつの間にか空になったバスケットを片付ける。ハルも片づけを手伝うため、ルテアのカップと自分のカップを手に取り席を立った。

 各々片付けを始める中、ハルは二人の関係が気になったので、シャルトに聞くことをこっそりと脳裏に刻んだのだった。


*   *   *


 その夜。シャルトの執務室には、部屋の主であるシャルトと、彼にお茶を入れるアンリの姿があった。他には誰もいない。仕事がひと段落着いたので、一息ついていたのだった。

 アンリに入れてもらった紅茶を飲みながら、シャルトがアンリに町に行ってきたことを話し始めた。アンリはそれをシャルトの前にあるソファに座りながら、聞いていた。

「——交易品を扱っている店があってだな。こんなものをみつけてきたんだ」

 そう言って、シャルトは机の引き出しを開け、包みを取り出す。それをそっと机の上に置く。

「これは一体?」

 机の上に置かれた小さな箱のようなものにアンリは首を傾げる。疑問を浮かべている彼女が答えを言う前に、シャルトはゆっくりとその小包みを開けていく。中から出て来たのは、深紅の宝石がダイヤの形になったアクセサリーだった。

「綺麗ですね」

 輝く真紅の宝石に、見とれながらアンリは呟いた。

「そうだろう。アンリ、君に似合うと思ってね」

アンリのために、買ってきた宝石付きのネックレスを差し出した。

「わ、わたしにですか⁉」

 突然のことに、反応が行方不明になるアンリ。それもそのはず。普段からアクセサリーの類は身に着けたことなく。誰かからもらうこともなかったからだ。

「ああ。最近いろいろ助けてもらったからね。感謝の気持ちだ。受け取ってくれ」

「え、あ、ありがとうございます。大切にします」

 主の厚意に甘えお礼を言って受け取る。箱を開け、真紅の宝石が付いたネックレスを取り出す。慎重に取り出したアクセサリーを身に着けた。

「おお! いいじゃないか。似合っているよ」

 その言葉に、アンリは頬を赤らめながら静かに喜んでいた。そして、宝石の部分を手に取り、再度お礼を言った。

「本当に、ありがとうございます。嬉しいです」

 よほど気に入ったのか、宝石部分をじっと見つめている。気のせいか普段よりもまとっている雰囲気が明るく感じる。

「気に入ってもらって何よりだよ。これからもよろしくな」

「はい! こちらこそ、宜しくお願いします」

 アンリは、普段見せることない笑顔でシャルトへと言葉を返した。

 照れくさそうな反応のシャルトに、上機嫌なアンリ。港町の心臓部である二人の楽しそうな談笑はしばらく続いたのだった。

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