第4話 ここではない、どこかで

その日も子安くんは、休み時間にはゲームをしていた。

 「今日は、どこに狩りに行くの?」

 「そうだね……近隣でドロップする素材はだいたい入手したから、今日は洞窟の奥の方まで……って、先生。このゲームのこと分かるの?」

 「詳しくはないけどね。同僚がやってるから、ちょっとだけ」

 彼のデスクの脇から覗き込むように画面を見る。

子安くんの装備は、素人目からしても高かった。装備も上等な物を装備しているし、モンスターを倒すコントローラーの操作にも迷いがない。

「どれくらいやってるの?」

「ざっと八百時間くらいかな……」

「は、はっぴゃく……?」

ゲームなんてロクにやったことがない私にとって、その数字は信じがたいものだった。

「……よし。討伐完了っと」

画面では大きな竜が叫びを上げ、ひとしきり暴れた後に沈黙した。子安くんが操っているアバターやパーティ面子たちが武器をもろ手に上げて喜んでいる。

「これは大丈夫なんだね」

「うん?」

「あ、いや……。子安くんは、生き物が死ぬところとかが苦手なんでしょ? だから、こういうゲーム上でドラゴンとかが死ぬのは大丈夫なのかなあ、って」

「あー……。確かに、言われてみれば」

考えたこともなかった、と言いたげに首をひねる子安くん。

子安くんが潔癖症の理由は、昨日話してくれた、散歩中にアリを踏み殺してしまった過去に由来しているそうだ。

靴の裏にべったりとくっついたそれを記憶の内からも洗い流すように、彼はあれから、とにかく綺麗好きになったらしい。

血が嫌いで、今までもスプラッタやグロテスクなものは避けてきたそうだ。

「自分でも不思議だけど、ゲームでは平気なんだ。……もしかしたら、モンスターはプレイヤーに倒されるようプログラミングされているから、大丈夫なのかもしれない」

何かしらのヒントにならないかと、私は耳をそばだてて聞いていた。

「あんまり深く考えたことないや」

わずかな沈黙が、二人のあいだに流れる。

「……僕さ」

「ん?」

「両親の出張とかが多くて、一人でいる時間の方が長いんだ」

彼はコントローラーを置くと、しんみりとした表情で続けた。

「外には怖くて出られないから、普段基本的にやることは、勉強かゲームしかなくて……。ずっと勉強してるのも飽きるから、必然的にゲームする時間が長くなるんだ」

「……うん」

この広い家で、ずっと一人。

ふと想像してみたけど、それは冬の海みたいに冷たくて、寂しくて。

ただ一人この部屋で、することもなくゲーム画面に向き合う子安くんのことを考えると、胸がきゅっと苦しくなった。

「でも……今考えてみたら、お母さんたちは、こんな僕に愛想を尽かして出てったのかもしれない。口だけは、小さいころから達者だったから。大人と口喧嘩しても負けなかったし、成績もトップから抜けたことはなくて。……たぶん、可愛くなかったんだよ」

彼は、自嘲じみた笑みを浮かべながら、はんっと鼻を鳴らした。

「しょせん親なんてその程度……子どもに興味がなくなったら、寝る場所だけ与えてあとはほっとらかし。一時の退屈しのぎ。人並の幸せを体感するための道具。使い捨ての生き物。

 こんな暗い部屋で、明るい人間になってくれと望むこと自体が間違いだ―……」

 彼は、明人という自分の名を、吐き捨てるように罵ってから。

「――…でも、今は先生が来てくれて、ちょっとだけ楽しい」

少しだけ頬を染めて、年相応の笑顔を見せてくれた。

「ありがとう、先生」

「……うん」

生徒に感謝されて、心が嬉しい気持ちで染まる反面―……やっぱり、どうしても解せない。

「子安くん。……寂しいときは、寂しいって言ってもいいんだよ?」

「……寂しそうに、見える?」

彼は、私の顔をほんの少し、何か言いたげに覗き込んだ。

いつものクールな表情に、言葉にならない悲しみを、その潤んだ瞳に映して。

「強がらなくていいんだよ。……私は弱いから、きみくらいの……高校生のときはいつも、自分の大切な人に頼ってばっかりだった」

「……その人に、何を頼っていたの?」

「自分の存在価値を」

彼は、ポカンと口を開けていて。

私はその表情にけらけらと笑った。

「私ね、誰かに認めてもらわなければ、自分の存在価値も分からなかったんだよ」

だから何度も、彼を求めてしまった。

彼は優しかったから、いつもそれに応じてくれたけれど。今考えれば、私は彼の優しさに付け込んで、自分の価値を証明するための材料にしていた。私は結局、求められなければ、そこに自分はいないのだと、自分の存在価値はないのだと思っていた。とても恥ずかしい過去だ。でもだからこそ、きみにはそれを伝えたい。

「きみは、ずーっと自分と向き合っている。それって、けっこう凄いことだよ」

本当に、そう思う。

「色んな人が、誰かに頼って生きているの。ネットとか、恋人とか。子安くんはそのどれにも頼らずに、たとえばご両親が不在でも、自分の殻にこもらず、こうして私と話をしてくれてるでしょ」

それだけでも、十分立派だ。

「……外に出るのが怖いなんて、くだらない悩みを持っていても?」

「下らないわけないじゃん。みんな内心は怖いんだよ。今までいた慣れ親しんだ場所から、一歩を踏み出すのは。でも――恐怖は、いつかいなくなるから」

それまでは、今のままのきみでいい。

たとえ人より遅くても、ゆっくり、心の温度を取り戻していけばいい。

「……なんか、先生が先生っぽいこと言ってる」

子どもみたいに丸い瞳で見つめられて、思わず吹き出す。

「どういうことよ、それ」

「べつに。ただ―……すごい人なんだなあ、って」

それきり、彼はなぜか俯いてばかりになる。

「どうしたの?」

「いや……。っ」

顔を覗き込むと、彼はその白い肌色のキャンパスに、少女のような朱色を塗っていた。

「……なんだよ」

「顔赤いよ?」

「分かってるよっ。で……でも」

彼はぼそぼそとか細い声で続けた。

「そんな嬉しいこと言われたら……ああ、何でだろう……胸が、熱いんだ……」

彼はTシャツの上から自分の胸をひしりと掴んで。

「どうしよう、先生……こんなの、初めてで……どうしたらいいんだ……」

私に向けられた彼の熱っぽい視線が、扇情的に凪いだ。

「先生……――僕は……あなたのことが、好きに……なっちゃったのかも、しれない……」

 

 ※

 

 その日、私が教室に入ると、ぼそぼそとした囁き声がやけに目立って聞こえた。

 向けられた視線から、話題に上がっているのは私の事だと理解した。心当たりしかなくて、自分の席に着くや否や、大きなため息が出る。

咲田くんは、まだ登校していなかった。

 「――へーい親友。連れション行かない?」

 「まーちゃん……」

 そんな空気のなか、ボブカットの頭に細いフレームのメガネをかけた生徒が、私に連れショ……お手洗いへの動向を軽い仕草で頼んできた。

 「一人で行けばいいでしょ」

 「いやー、ほら。一人でトイレ行くのは寂しいっていうか」

 うそつけ。ご飯だっていつも一人で食べてるくせに。

 まーちゃんは――黒田真白は、自分でも見え透いた嘘だと分かってか、けらけらと笑った。どうやら口実はなんでもいいらしい。

 「ここじゃあ話づらいでしょ。とにかく行こうよ。ここではないどこかへ、さ」

 私の親友は、大げさな言い回しが好きな少女だった。

 

 

 「――噂が広まったのは昨日の今日で、たちまちあの有様。……だいたい、自分たちだってこそこそ隠れてしてるクセにねえ。ああ、やだやだ」

 まーちゃんは、「それで?」とぐいっと顔を近づけて。

 「ほんとうにしたの?」

 「したよ」

 私たちが選んだ場所は、けっきょく屋上だった。

この季節は暑さを気にしてか、利用する人間はまばらだ。入口の、日笠になっている部分に腰を預けて、わずかに漂ってくる涼風に汗を乾かしながら、私は小さくこくりとうなずいた。まーちゃんはさらりと笑って。

「そっか。おめでと」

「ありがと」

そこからは、訊かれるがままに経緯を話した。

 「……へえ、咲田のお父さんがねえ」

 まさか、本当に報告されるとは思わなかったけど。

 「まーちゃんは私のこと、どうとも思わないの?」

 「べっつにー。ついに私の親友も大人の階段を上ってしまったのかと思うと、残された身としては寂しい気持ちも少しあるけど……まあ、私の心の重きは常に皆と違う場所にあるし、処女がどうだの気持ちがあーだのなんて、あんまり気にしたことないや」

 彼女は、美少女ゲームのシナリオライター志望だ。

 いつも休み時間はもちろん、暇さえあれば何かを書いている。学校にポメラを持ち込んで、図書館ではキーボードを絶えず鳴らしているそうだ。

 そんなまーちゃんの性癖は、誰も触れられない二次元にこそ在る。

 「彼氏、作ったことないんだもんね」

 「あんまり作ろうとは思わないかな。憧れは、あるんだけどね」

いつだったか。

「リアルはしょせん二次元の劣化だから。例えどんなにイケメンでもたかが知れてるよ」

みたいな事を言っていた気がする。最初は価値観の違いに驚いたけど、差があるからこそ、こうして分け隔てなく接していられる関係があるのだとそのとき知った。

 「でも、べつに憧れのままでいい。ギャルゲーの分岐先を考えるだけでも、私は幸せだし。……憧れは羨望をなくしたら、ただの日常になっちゃうからさ」

 たまに、難しいことも言う。それも表現者としての嵯峨なのだろうか。

彼女はすぐに話題を変えた。

「それで一緒に東京行くって、出まかせで言っちゃったの?」

「うん。いちおう、やりたいことはあるよ」

「へえ。どんな?」

「……教師」

それは、ぼんやりとした夢だった。自分で言うのもなんだが、私は小さいころから容量がよくて、一度予習したことや経験した大抵のことはそつなく熟してきた自信がある。

その過程で見つけた上手く行くコツや方法を、誰かに内緒話のように話すのが好きだった。その時に感じた、教えることの楽しさと誇らしさは今でも、胸の中で暖かく灯っている。

「いいじゃん、教師。……でも、わざわざ都会に出てまでやることかー?」

「やっぱり、まーちゃんもそう思う?」

「思うねえ。だって怖いじゃん。都会」

一度だけ経験した、都会の喧騒。

家族の旅行で東京駅を利用したときに見た、あの人の波。

ここではすれ違う一人一人の顔が見れるのに、あそこでは全員が、まるでのっぺら坊だ。

「でも、咲田くんがいるしさ」

それが心の支えだった。

彼の父親のように、ここに残ることで性根までじわじわと腐っていくのは耐えられない。

あれは発酵ではなく、腐敗だ。傍にいたら、私まで腐ってしまいそうで。

だから私は――ここから出ることを決めた。

「もちろん、止めはしないよ」

「ありがとう。……まーちゃんは、進路どうするの?」

「私もいずれそっちに行くよ。賞を取ってライターになれても、現場と直接関われないと意味ないと思ってるから。だから、お互い頑張ったら、たぶんまたどこかで、会えるんじゃないかな」

「大げさだなあ」

「表現者は大げさな言い回しが好きなんだよ」

ひとしきり笑うと、鐘が鳴った。私が扉の引き戸に手をかけると、彼女は首を横に振って。

「今日の授業はサボるよ。もう少しで書きかけの原稿が終わりそうだからさ」

「ここじゃ眩しくない? 画面見えるの?」

「まさか。図書室の人間と繋がってるから、かくまってもらうの。エアコンも利いてるし」

「うわー」

「何とでも言えし。潤(うる)ちゃんこそ、クラスの連中に気をつけなよ」

数少ない、私の下の名前を呼ぶ親友は。

斜陽と日陰に二分された真夏の太陽の下で、煌々と照らされながら。

「また会おうね。ここではない、どこかで」



予鈴ギリギリで教室に入ると、皆はもう着席していた。

私の席は窓側の一番後ろだ。廊下側から一番離れたそこへ歩く最中、奇異の視線がいくつも無遠慮にぶつかる。私は気にせず歩いたが、中でも、特に困惑と怒りとが籠った視線があったので振り向いた。

瀬村さんだ。

「……ほんっとうにサイテー」

「……。何が?」

聞こえないフリをするのは簡単だったが、あえて獰猛な笑みを浮かべて、つっかかってやった。

「咲田くんを汚した」

「汚したのは彼自身だよ」

「は……?」

「だから、彼は望んで私とエッチしたの。誘ったのは私だけど乗ったのは彼。……そうだ。なんだったら、してるときの一部始終でも話してあげよっか? 彼のどんな場所が感じやすいのか、感じてくれるのか。どんな顔で、どんな声を出すのか。何が好きで、何が嫌いか。私はあなたの知らない咲田冬也のすべてを、体で知ってる」

挑発的に身を寄せて、座っている彼女に上からの視線をぶつけた。

「――あれ、アンタのなんかじゃないから。もう近寄らないでね」

言うだけ言って、私は体を反転させて席へと戻った。荒い吐息が聞こえたが、そよ風程度にも恐ろしくない。しょせんは女狐だ。そっとしっぽを踏んでやっただけで、あぁも反応する。バカだなあ――。思わず黒い笑みが浮かんで、すぐにそっと消した。

授業が始まって、向けられる視線は黒板に集まる。私も確認くらいにメモをとって、未だに空席になっている席を見やった。この場に咲田くんがいないことだけが気がかりだった。



「真里谷……!」

それは、ちょうど校舎が昼休みの空気に染まりつつある時だった。

「咲田くん……?」

下駄箱の辺りで息を切らして、私の名前を呼んだ彼の額には大粒の汗が浮かんでいた。

周囲の視線を集めた彼の、その呼びかけた相手である私にも同じように視線が集中する。

どうしたのと問いかけると、「来い」とその一言だけ告げられて、手首を掴まれて校舎裏へ。なかば手錠をつけて連行されるような形で連れて行かされた。

「だから、どうしたのって聞いてるじゃん!」

流石の私もその手を振りほどいて、気づくとそこは校舎の喧騒からはもはや遠い場所。

彼は「……すまん」と息を整えながら形だけ謝ると、真っすぐな視線を私に向けて。

「言わなきゃいけねえことがある」

「今更なに……」

「親父が倒れた」

え、と言葉を返す暇もなく、彼は青い顔で言った。

「――俺は、東京には行けない」


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夏の恋路と彼岸花 羽毛布団 @umou2355

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