第3話 親の威厳


あれから帰宅して、買った彼岸花をこじんまりと花瓶に入れた。

家事とか残業とか、やるべきことを全て終えて、部屋の電気を消す。

「あー……疲れた……」

枯れた声を出しながら、私はベッドに横たわった。

子安くんはいい子だった。富豪のマンションに一人暮らしをしていて、不登校の坊ちゃん。その情報だけで現地に行ったから、どんなひねくれた少年なのかと思っていたけれど。

蓋を開けてみたら、とても繊細で優しい少年だった。

「……アリを踏むのが怖い、か」

一寸の虫にもなんとやらだ。

確かに、気づかないうちに生き物の命を奪っているのは、とても怖いことだと思う。

でも、私たちは普段から、動物の死を食べて生活をしている。肉や魚は、動物たちが私たち人間にくれた命の結晶だ。だから私たちは食事を取る前に必ず、いただきます、と言うのだ。それが私たちの生活をつないでくれている動物への―……せめてもの感謝だから。

それに比べて、一言謝られることもなく、ただ大きいだけの動物に踏み潰されるだけの――虫たちは。

「……怖いね」

感謝はおろか、哀れに思われることすらなく踏まれるアリたちのことを考えると、少しだけ背筋がぞくりとする。

小学生くらいのころ、巣の穴に水を入れたり、鉛筆で体を貫いたりして遊んでいる男子たちがいた。

あれが、どれだけ残酷なことか。

彼の言葉を受けて、実感した気がした。

「……それで、私に与えられた課題は、それに由来する彼の動物に対する苦手意識を、どう変えていくか―……だよね」

頭を整理するために、長々と一人でつぶやく。

「苦手意識のあるものを無理やり詰め込んだって辛いだけだからなあ……。でも地頭はいいんだし、何かキッカケさえ掴めばするーってできちゃいそうな気がする……。ああ。でも、生物を満点取れるようになっても、根本の問題が解決しなきゃ意味ないよねぇ……」

 彼の苦手教科は、生物の科目のみ。

それは行幸だ。

だけど、問題はその根本にあって。

科目のテストをいくらできるようになっても、彼の心の根底に眠る恐怖心をどかしてあげなければ、彼は学校への復帰はおろか、ロクに外にも出られない生活を今まで通り送るだけだ。

 ――なら、私が彼の教師として、するべきことはなんだろう。

 考えている間に、瞼はどんどん下へ下へと降りていった。

 

 ※

 

 その日は、窓からこぼれた陽光と鳥のさえずりで目が覚めた。

 「……うーん……」

 透明な光が瞼の奥まで差し込んでくる。私は光を防ぎたくて寝返るが、そこには肌色の固いものが先に寝そべっていた。

 「……んー?」

 上体を起こして、寝ぼけ眼でそれを見やる。

それは、咲田くんだった。

正確に言えば、咲田くんの体だ。

重なるバイトで鍛えられた体はさすが運動部と見比べても見劣りせず、たくましい。

あと、寝顔がとてもかわいい。まつ毛も長い。健康的な胸板が規則的に鼓動して、肺活量の多い大きめの寝息がここまで聞こえる。普段は整髪剤をつけてパサついている彼の髪の毛が、今はサラサラと下ろされていて、目元までかかりそうだ。

 「へへ……。かぁーいい……」

 そうっと前髪を払ってやると、一瞬だけ眉がピクリと動いていた。

 「……ていうか、寒っ」

 思わず体を抱き寄せて、自分が服を着ていないことに気づいた。

その肌寒さで、ぼーっとしていた頭が徐々に冴えていく。

「……あー……そのまま寝ちゃったのか……」

よく見れば、ここも彼の部屋だ。割ときれいに本が積み込まれた本棚。それとは対照的に、筆記用具が散らかった勉強机に、中古で買ったと言っていた小さなテレビとその台座。

部屋に散らばる彼の匂いが、心地いい。

かけ布団を胸元まで引き寄せる。

ぐーっと伸びをして、窓を開ける。朝のひんやりとした空気を、胸いっぱいに吸いこんだ。緩慢な動きで散らばった衣服をかき集めようとして、足音が聞こえた。

「――冬也(とうや)。まだ寝とるの」

 

 

「……ありゃ。なんでこの子、裸で寝てるのかしら」

間一髪。おざなりに服を着て、開けた窓から身を乗り出して裏庭へ。

咲田くんのお母さんはため息をつきながら半裸の彼に毛布をかけると、そのままリビングの方へ歩いて行った。それを確認して、私は壁にもたれかかるようにずるずると座り込む。

「危なかった……」

……ていうか、どうしよう。

下着着る暇なくて布団に押し込んじゃった。

スマホとかも彼の部屋に置きっぱなしだし。スース―するなあ……。

取りに行かなきゃ……と制服の乱れを正して足を動かす、が。

「――おや、お客さんかい?」

ひょっこりと現れた初老の男性は、薄い、貼り付けたような笑みを浮かべていた。



「いやー申し訳ないねえ。肝心の冬也が寝てしまっていて」

「い、いえ……」

足つきの机がある広いリビングまで案内され、私はお義父さんの目の前で、出されたマグカップに手を添えていた。

私が落ち着かない様子でいるのを見ると、彼はキッチンにいるお母さんの方に聞こえるよう大きな声で問うた。

「おい、茶菓子くらい出してやれ」

「ありませんよ。昨日あなたが全部食べてしまったじゃない」

「ふむ? そうなのか……」

彼は、他人ごとのようにうなずくと、「なら仕方ないな」と続けた。

「あの……」

「あ、んん。すまんねえ。気も利かずに、はは。お恥ずかしい」

奥さんがいなくなり、彼は自分のコーヒーに口を付けると、人心地着いたように問うた。

「……それで、アイツはどうですか」

「ど、どう……とは?」

「いやねえ。アイツは、冬也は―……学校でのことは一切話してくれんのですよ。まあ、やはりアイツも男ですから。この年頃で親と面と向かって学校であったことをいちいち話したりするのは面倒くさいだろうし、その気持ちは私も汲むところですがねえ。いやぁしかし、親としては寂しい一面があるのも確かでつまり、普段の冬也のことを何も知らんのです」

あはは……と苦笑いの相槌を打ちながら、私はその違和感に目を細めた。

気味が、悪いと思った。

ロボットが人の皮を被っているような。

人形が人語を発しているような。

だってコイツは、この薄い笑みを張り付けているこの男は。

咲田くんに暴力を振るった張本人なのだ。

それと同時に、目の前の男が、そんなDVを振るうような男にも見えなかった。

――若いころの面影の残る、がっしりとした肩。猫背になって前かがみになっている顔は、私のそれより一回り大きく、ほくろやシミがぽつぽつとその顔を締めている。

ぶ厚い皮に浮かんだ笑みは、話しているあいだ、ほころびもしなかった。

ああ―……気味が悪い……。

「……アイツはまだ起きないのか」

呆れた声で、ともすれば苛立ちを募らせるように、彼は苦笑して言った。

「まったく、こんな可愛らしいお客人を放って二度寝など……」

「――あの」

「ん? どうしたのかな」

「咲田くんの痣って……あなたが付けたんですか?」

吐き気と怒りを抑えながら、私は問うた。

「痣……ですか?」

彼はひとしきり悩むような仕草を見せたあと、納得したと言わんばかりに手を叩いて。

「ああ、あれか。――ええ、私がやったそうです」

「……はい?」

――やった、そうです?

「いやねえ、これには深いワケがありまして」

彼はどこまでも、他人事のような口調で話した。

「私はどうも酒に弱くてですねえ。お恥ずかしい話なのですが、ちょっと、ほんのちょーっと飲んだだけでかなりベロンベロンになってしまうんですがねえ。どうやらその間に、冬也を殴ってしまっていたらしくて。いやあ、申し訳ないことをしたと一応私も大人ですから、謝ってはおいたんですが。アイツは塞ぎこんでしまって、父親とも話そうともしません」

……何を言っているんだ、この男は。

「……いやねえ、私も困っているんですよ。朝起きたら息子が怪我をしているのですから。アイツはアイツで口を聞いてもくれないし、気が気ではありません……」

彼は困ったときの笑顔を浮かべながら、気恥ずかしそうに頭の後ろの方を搔いている。

「いや、いやいやいや……」

「どうかなされましたか?」

目の前の男の顔が、どんどん気持ちの悪いものに変化していく。

本当に、自分のことしか考えていないのだと心から伝わった。

――ああ。この人は、たぶんあれだ。

あくまで咲田くんを傷つけたのは、酔っていたときの自分であって、それは自分ではない。この人にとって、自我のないときの自分は他人なのだ――そう思っているんだ。

 「……許されると思っているんですか」

 「どういう、ことですかな?」

 自分の主張を通すことばかりに必死になって、犯した過ちにも気づかずに、すべてを他人事のように考えている。

 目の前で模範的な笑みを浮かべているこの男は、きっと。

 外の世界を知らず、自分の殻に閉じこもることに慣れてしまった、私の世界で一番嫌いな、哀れな大人の一人なのだ。

 こんな風にはなりたくない。

 田舎でくすぶって凝り固まった考え方。もうこの歳で、変わることも、変わろうとも思わないのだろう。自分の非を認めず、ただのうのうと余生を送ろうとしている。

 ああ――…気持ち悪い。

 変わろうとしない人間が、気持ち悪い。

 「咲田くんにあんな怪我をさせて、ただで済むと思っているんですか……」

 吐き気を紛らわせるように拳を机に突き立てて、敵意をむき出しに言った。

 人にここまでの怒りをぶつけたことは、これが初めてだったかもしれない。にも拘わらず、彼は眉一つ動かさずに、子どもの癇癪をあやすようになあなあと言った。

 「……済むも何も、私に罪はないのですから。裁かれようがないじゃあありませんか」

 「気づいていないだけでしょ」

 「なるほど。私が気づいていないこと、ですか。興味深い」

 彼は湯呑を置くと、「ぜひ聞かせてください」、とか言って、私の方に視線をやった。

 舐めやがって……。

 「自分の罪に、です。……あなたは親なんかじゃない」

 「ほうほう。では、私は何者なのでしょうねえ」

 彼は胸を張って、こんなことを言った。

 「今日は休日ですがね。普段は朝から晩まで仕事をし、子を養い、妻に生活をさせ、一家の大黒柱として何十年も家族を守っています。私以外に、誰が家族のなかで、こんなことができましょうか。そういえば息子は、最近バイトを頑張っているそうですが、しょせんあんなものは小遣い稼ぎでしょう? あんなもので、自分は自立できるなんて思われたら、ええ、親として困ってしまいますよ。思春期で、仕方のない事とは理解はしているつもりですが、あいつも近頃、反抗期がすぎる……」

 彼はそこで一つ、ため息を挟んで。

 「まったく……少し殴られたくらいで塞ぎこんで、父と話そうともしないのだから。私がアイツくらいの時はねえ、それくらい当然だったんですよ。痣なんて、ええ。何個もできましたとも。私は物覚えが悪くて、勉強が苦手だったもので、博識な父にはよく𠮟られました。一度だけ宿題をしぶったことがありまして。縄で縛られ、頭を冷やせと、物置に」

 「……だから何ですか」

 「要するに、ね」

 彼は物分かりの悪い子どもを諭すように、言った。

 「アイツは、意固地すぎるのです」

 ビキッ――と、頭にひびが入る感覚がした。

 「時代は変わった。だから、あいつにはなるべく自由にさせてやっているつもりです。現にこうして、いくら彼女と夜通し遊ぼうが勘弁してやっているじゃあありませんか。私はね、健全に育って欲しいのですよ、冬也には。自由を謳いながら、勤勉と搾取を前提とする社会の間違った価値観を植え付けられて育って欲しくない。私がアイツに教えてやりたいのはただ一つ。最後に信じられるのは自分だけだ、ということ。これさえ分かっていれば、社会に出ようがどこに行こうが、きっとやっていけると思うのですよ。気づくまでは大変ですが、気づいてしまえば、非常に単純なことなのですから――」

 そしてその男は、清々しいほど透き通った声と、表情で。

 「親の言葉と意見は、何よりも尊ばなければいけないものです。だのに冬也はそれを受け入れようとせず、自分の殻に閉じこもってばかりだ。バイトを始めて、初夜を終えたからと、自分は大人だと言い張る。それを何というが、ご存じですか? ――傲慢というのです」

 「……うるさいなあ」

 咲田くんに向けている言葉のはずなのに。

 自分に向けられたように、腹立たしかった。

 傲慢。

 ……冗談じゃない。

 彼のどこが、私たちのどこが――私のどこが、思い上がっているというのだ。

「いい加減にしてください」

その、公道で恥部をさらけ出しながら堂々と歩くような立ち居振る舞いも、神さまみたいに悟りきった歪んだ言葉の数々も。

そのすべてが私の神経を逆なでして、鳥肌をぷつぷつと立たせていく。

もう耐えられない。

 「……何ですか?」

 「その丁寧な言葉使いも、咲田くんのことを心配する父親面も、ぜんぶ不愉快だと言っているんです。だってあなたは、父親でもなんでもないから。子どもの心配をしていれば親なんですか? 歳を重ねていれば大人なんですか? 違うでしょ? 大人っていうのは、子どもの上に立つ存在ですよ。自分の責任から逃げて、世界には自分の主張しか適さないと思っている、あなたのような人は大人なんかじゃないし、まして、親を名乗る資格もありません。あなたは罪人です。私の大切な人を、これ以上傷つけないでください」

 言うと、その狂った男は一瞬笑顔を固まらせ、沈黙したかと思うと。

 「――大人をなんだと思っているんだッ!!!!!」

 と、唾を飛ばして怒鳴り散らした。

 そのしわのへばりついた顔を、ダルマみたいに赤くして。

 「黙って聞いていれば、子どもが大人を見下して、口答えして、感情論ばかり並べて説教のようにベラベラと人の家庭事情に首を突っ込んで、お前こそただで済むと思っているのか。子どもの分際で、自分で金も稼げない、家も買えない家族も養えない分際で……!」

 息を荒げながら、さながら鬼のような形相で男は私のことを睨んだ。

 ……怖い。

 誰だって、充血された目で睨まれたら怖いに決まってる。

 でも、たとえそれでも、あなただけは許せない。

 「学校への報告云々はご自由にどうぞ……。どうせもう、私たちには関係ありませんから」

 「なに……?」

男の表情が不可解に歪む。

せめて、その顔面に一発見舞ってやろうと、怒りと恐怖で震える唇を動かして、私は大きく息を吸い込む。



目が覚めたら、あいつがいなかった。

時計は九時を指していて、布団の中には温もりのなくなった下着が脱ぎ捨てられている。

「あ……。帰ったのか?」

いや……普通に考えてノーブラノーパンで帰るわけねえよな。バカか俺は。

「――大人をなんだと思っているんだッ!」

寝ぼけた頭をがしがしとむしっていると、リビングの方から穏やかじゃない声が聞こえた。親父だ。

何度も聞いた、我を失ってヤバくなったときの親父の声。

……まさか。

 「――おい、真里谷ッ!」

 ノースリーブの肌着だけ羽織ってリビングまで駆けつけると。

いつにも増してカンカンに怒った親父と、見たこともない剣呑な表情で親父を睨みつける、――真里谷の姿があった。

 「私と冬也くんは、東京に行きます」

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