第2話 子安明人



彼は、中性的な顔立ちをしていた。

顔は丸く、小さい。

髪の手入れはしていないのか、ところどころボサボサと跳ねていて、襟足が長い。

細いフレームのメガネをかけていて、右側のレンズがPCの光を反射していた。

彼は名乗ると、寝ぐせを押さえるように後ろに手を回して。


「……えーっと、真里谷センセイ。で、いい?」


問われて、私はハッとした。

そうだ。私は、家庭教師として彼のお家に伺ったのだ。


「あっ、うん。私も子安くんって呼ぶけど、それでいいかな」

「何でもいいよ。どうせすぐに終わるしさ」

「すぐ終わる……って?」

どういうこと? と問うと、彼はクスっと笑って。


「――僕、容量いいから。あんまり教わることって、ないと思う」


深々とチェアに腰を預けて彼は言う。

やけに自信満々のようだった。


「……子安くん」

「なに」

「きみの成績、見させてもらいました。確かに満遍なくできるようですが、私はきみの教師です。たとえ全教科で満点を取れるスペックを持っていたとしても、教師に対して。……それより、初対面の人間に対して、そういう砕けた言葉使いはよくありません。私の仕事は、きみが社会に出てから困らないよう教育することです。途中で放り出したりはしません」


 べつに、怒っているわけではない。まったく。

 でも、それは私だからいい話でもあると思うのだ。


……言い方は悪いかもしれないけど、他の頭の固い教師が今の彼を見たら、きっと私以上にキツい言葉を使って、彼を叱咤するだろう。そうすれば、彼はきっと多かれ少なかれ傷つく。こういう軽い言葉使いも含めて、子安くんの個性なのだからそれを否定したらいけない。

……でも、こういう時に見て見ぬフリをするのもよくない。

だから最低限、一教師として言うべきことは言わなければいけないと思うから。

だから子安くん。

ごめんね、これだけは許して。

だから嫌いにならないでくださいお願いします……! 

内心ドキドキしながら彼がどういう反応するのかを伺っていると、彼は口を開いて。


 「放り出さない……ねえ」


 値踏みするような視線で、私を見た。

 「……まあいいや。分かった、よろしく」

 「よろしくお願いします、でしょ?」

 「……よろしくお願いします」

 「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 ――あー……すっごいドキドキした。

少なくとも嫌われてはいないっぽい。

 「よしっ、じゃあ今後はタメ口でいいから」

 「え、いいの?」

 「うん。通すべきスジは通したし、後はもういいや」

 見た感じ、素直な子に見える。

これならわざわざ釘を打たなくても、私以外との教師とも上手くやっていけるだろう。


「じゃあ、とりあえず――」


でも、それと学力的な教育とはまた別の話。

解いてもらうぜぇ。たっぷりと。


「これ全部、余裕で溶けるよね」

バックから大量のプリントを出して、彼に手渡した。

「とりあえず、どれだけできるのか確かめたいから。制限時間は……」

「これくらいなら二十分で余裕」

「……よろしい」

「合図」

「じゃあ、始め」

彼はためらいもなくデスクと向き合う姿勢になり、シャーペンを手に取った。

うん、やっぱり根は真面目らしい。


関心、関心――…(……あっ)。


そういえば、名門校の生徒だと事前のプロフィールに書いてあった。

家庭の事情で学校には行かずに、家庭教師をとっかえひっかえして学力を維持しているって経歴だったはずだけど……。

よくよく考えれば、どうして常に教師をとっかえひっかえする必要があるのだろう。

こんなに真面目な子なのに、やっぱり性格が合う合わないの問題があるのだろうか。でも、こうして何の文句も言わず問題を解いてくれるだけでも、私は十分ありがたいけど。

……やっぱり人間関係って難しいなあ。

私は彼に聞こえないように、ひっそりため息を吐いた。



「――えっ。咲田くん、どうしたのそのケガっ!」

「ん、ああ。これか? えーっと……あ、あれだ。ちょっと、猫にひっかかれてよ……」

「えー? 心配なんですけどー……」

「あはは、大丈夫だって―……」


彼の周りには、いつも女子が寄っている。

ちょっと目を離せばこれである。私はため息をついて、彼らのあいだに割りこんで行った。なるべくイラ立ちが顔に出さないよう、努めて明るい声色で、彼の腕を掴む。


「咲田くん。つぎの授業、行こう?」

「あ、ちょ。今は瀬村と話して――」

「いいから、行こ?」

「……はい」


半ば強引に、私は彼の背を押して歩かせた。

後ろから恨めし気な視線を感じたが、いつものことだと鼻で笑う。

イケメンの尻を追いかけることを恋だと勘違いしている頭のネジが緩い女に、私は臆したりしない。


「……お、おい。もう押すなって」

「あ、ごめん」


俯いていた視線を前に戻すと、彼が怪訝そうに私を見ていた。


「ちょっと転びそうになっただろうが」

「転んじゃえばよかったのに」

「お前な……」

彼は微苦笑しながら「なに怒ってんだよ」と言った。

「……あのさ」

こんな質問したら、面倒くさい女だと思われるだろうか。

「……なんで私が怒ってるか、分かる?」

「分かんねえ」

「即答ですか……」

「当たり前だろ、分かんないから訊いたんだし」

「……ラムネ一本」

「は?」

「ラムネ一本。おごれよ、少年。バス停前の駄菓子屋で」

 それで諸々のことを許してあげるのだ。

私はなんて優しい彼女なのだろう。

「おい待て、何でそうなるんだよ」

「きみが鈍感すぎるからだよー」

「意味分かんねえ……」

「うっさいなあ、もう。授業終わったら下駄箱集合。ばっくれたら二度とエッチしない」

私は彼を置いて、ズカズカと教室の方向へ歩いた。

「……それと」後ろで抗議する彼に、私は舌を出して言ってやる。

「女子の質問に即答するな。ばーか」


バス停の前には、ずいぶんと古い駄菓子屋がある。

「おばあちゃん、ラムネ二本」

「はいよ~」

店主のおばあちゃんはよたよたと腰を上げると、氷水の張ったタライからラムネを取った。濡れたままのボトルが冷たくて気持ちいい。

小銭を渡すとき、おもむろに後ろにいる咲田の方に視線を向けると。

「今日はぼーいふれんどと一緒かい?」

「まあ、そんなところかな」

「くふふっ。そうかい、そうかい。ごゆっくりねぇ~」

印象的な含み笑いを残して、彼女は店の奥に引っ込んでいった。

「もうそろそろ、店は締めるけんねぇ。帰るときは一声かけてくんね」

「はーい」

外はもう夕日が落ちて、周りの空気が橙色に染まっていた。外灯がチカチカと付きはじめ、鈴虫の鳴く声と、それを運んでくる冷たい風がさらけた肌に心地いい。

 夕暮れ時の世界を感じながら、私は店にあるベンチに腰を下ろした。

 「ずいぶん仲がいいんだな。駄菓子屋のばあちゃんと」

 「そうだねえ。ちっちゃい頃からの常連だから。あと、ここだけの話、親戚なんだよ」

 「まじでか」

 「うん。……って言っても、指で数えなきゃいけないくらいには遠いけど」

 店の奥で、おばあちゃんが笑っていた。

 「それよりほら、きみも座りたまえよ」

 「へいへい。どうせ拒否権はないんだろ?」

 「とーぜん。はい、ラムネ」

 「あざっす。……ってか、これ俺の金で買ったやつ……」

 彼はげんなりとしながら隣に座り、ピンク色のキャップでビー玉を落とした。

 カシュッ! と良い音が鳴って、炭酸が上の方に上っていく。


 「……開け方、上手いね。きみ」

 「お前のも開けてやろうか」

 「あ、お願いします」

 「おう」

 また手際よくビー玉が落ち、私は青いふじつぼみたいな飲み口に口を付けた。

 「……ぷはっ。やっぱ夏はこれだよねー」

 「ははっ。そこだけは同感だ」


 何かが終わった後の炭酸って、どうしてこんなにおいしいのだろうか。

ああ、そうだ。

もしかしたら、人間それ自体が、もともと気泡みたいに淡い毎日を過ごしているから、泡だらけのこの飲み物に、シンパシー的な何かを感じているのかもしれない。そのシンパシーが、人の中にある泡成分に共鳴してシュワシュワと喜んでいるのかもしれない。

……ぜんぶ、かもしれない、だけど。

その「かもしれない」が、何気ない日々を、こうしてさりげなく彩ってくれる。

そういうのって、なんかいいなーって思う。

だから私は、夜風を感じながらチビチビと、泡を感じるようにそれを飲んだ。

彼は意外とペースが速く、すぐに飲み終えていたけれど。


「……風情がないなあ」

「ぷはぁーっ。ん、なんか言ったか?」

「何でもなーい。……それより、さ」

私は空き瓶を回収箱のなかに入れて、彼の方を向いた。

「――さっきの子、だれ?」

「さっきの子……? って、ああ。瀬村のことか」

彼は悪びれもなく、名前を口にした。

「クラス委員で一緒なんだよ。だから会話する機会とかもけっこう多いし……てかお前な、クラスメイトの名前くらいちゃんと覚えとけよ」

「あんまり話さない子の名前なんて、覚える価値あるの?」

「あるだろ、普通に……。……お前、もしかしてあれか? 瀬村のこと嫌いなのか」

「じゃあきみはあの子のこと好きなの?」

「いや。べつに」

「なら、そう言ってあげればいいのに」

変な気を持たせすぎないことも優しさだと思うけど。

「言うかよ。第一、訊かれてもねえのに」

「じゃあ、もし訊かれたら?」

「はっ、訊かれねえだろ。まず彼女いるんだし」

彼女――その響きが、ストンと胸の中に落ち着いた。

「……ならいいけど」

「ていうか、瀬村はべつに悪いやつじゃねえぞ?」

「本当にバカなのかな、きみは。……男に猫なで声を出す女が、いい人なわけないじゃん」

……ああ、思い出すだけでも不愉快になる。

あの耳障りな声と、これ見よがしなメイク。

あんな女狐が、人の彼氏に唾つけやがって――。


「……あ、そういえば」

爪を噛みそうになったところで、あの女がさっき気にしていたことを思い出した。

「そのケガ、どうしたの――…?」

「……こ、これか?」

彼は白いガーゼを貼った頬を、隠すように手で覆った。

「大したことねえよ。猫に引っかかれただけだって」

「うそ」

「嘘じゃねえ。だいたい、嘘なんかついて俺になんの得が……」

「うそだもん。だってきみは、自分の隠したいことは徹底的に隠す人だから」

今までだって、ずっとそうだった――きみは、優しい人だから。

「きみは、誰かに心配をかけそうになる時とか、だれかが自分のせいで責められそうになる時とか、率先して自分を犠牲にできる人だよ。だから、自分のためにも、相手のためにも、うそを吐くときは、絶対に隠し通す人なの」

それはだれも知らない、私だけの秘密だ。

「でも、それって彼女の私にも言えないこと?」

「……」

「……心配、なんだよ。きみのことが」

このあいだ見た、右腕の付け根の痣のことも。

きみと距離感が近い女の子のことも、ぜんぶ。


心配なんだよ。


だって、独り占め――したいから。

きみの隠していることですら、私ときみだけの秘めゴトにしたいから。

だから、他の人に悩みを吐き出すなんて、絶対に許さない。

「……あれだよ。親父が殴るんだよ。酒グセがひどくて……」

それを聞いたとき、さっきまで飲んでいた炭酸が体の奥で沸騰するような感覚がした。

「……なに、それ」

ありえない。

今時の大人が――それよりも親が、自分の子どもに手を上げるなんて。

「反抗したところで、力技じゃあ親父には勝てねえしな。だから高校のときにバイトして、金貯めて、さっさとこんな田舎は出てってやるんだ。それしかねえんだよ……」

彼は達観したように言って、頭の後ろをガリガリと掻いていた。

「……きみはそれでいいの」

「ああ。――東京に行って、俺のやりたいことをやる」

彼は、夕暮れの空を誇らしげに仰いで言った。

「……やりたいことって?」

「ミュージシャンになりたいんだ。でかいライブハウスが満員になるくらいの人を集めて、その人たち全員を元気づけられるような―……そんな仕事がしたい」

最初は、自分が表舞台に立たなくてもいい。とにかく自分と、仲間が紡ぐ音楽で、たくさんの人に夢を見せたい――そんなようなことを、言っていた。

立派だと思った。素直に。

私は、とうてい外に出ようなんて―……。

「……東京、ね」

あそこはまるで、別世界のような場所だと思う。

「私は怖いよ、あんなところ。……できれば行きたくない」

この田舎でくすぶっていれば、それなりの地位に居ることができるのに。わざわざそんな場所にまで行くこと、ないじゃない。

彼氏だっている。

成績だって悪くない。

バスで都内の方までいけば、背伸びしない程度の大学にだって手が届く。なのにどうして、自分から茨の道に踏み出さなくてはいけないのだ。

……かと言って、私もこのままじわじわと、田舎でくすぶっているのも嫌だった。

腐ったミカンは、他の果物すらも腐らせるという。

人を果物に例えるのであれば、この環境はいわば、じめじめと湿った狭い箱だ。腐っているのは私たち果実じゃなくて、環境なのである。

その理由に――心地よく、思えてしまうのだ。

箱のなかで育ってきた。箱の外の景色を、私は写真やインターネットでしか知らない。

だからこそ、この狭い箱の中が。背伸びしなくても最低限生きていくことができてしまう、この温室にも似た甘臭い匂いを放つこの世界が。

だんだんと、心地よく思えてしまうのだ。

進化することも、停滞することもなく、ハエが止まるようなスピードで加速していく人生。それが良いことでないと分かっていても、離れられないのだ。

「べつに、ついて来てくれとは言ってねえぞ。俺は一人でも……」

「……ねえ」

「ん?」

ふらふらと宙をさまよった指先が、彼の袖を掴んだ。

「行かないで」

「……は?」

私はスカートをくしゃりと握って、おもむろに上の方へと引っ張った。

「っ……」

ここでの暮らしに適応する方法は、一つある。

――腐るくらいなら、自分から腐りに行けばいい。

腐食と発酵は違う。

発酵は、悪いことじゃない。

彼とのエッチは私を成熟させてくれる。

男子に求められることほど気持ちよくて、自尊心が飽和することは他にない。

それを知らないクソ真面目な人間だけ、このカビだらけの箱から抜け出せばいい。

世界は不平等に見えて、思っていたより平等だ。

わざわざ都会の喧騒の中に身を置かなくたって、それなりに幸せでいることができるのに。なのに。

たかが暴力を振るう父親なんかのために、きみが東京に行ってしまったら。

もしきみがいなくなったら、私は。

誰と発酵すればいいの……?

「お願い。ここから、どこにも行かないで――……」



「……―せい。真里谷先生?」

ハッとして、顔を上げる。

そこには生徒が――子安くんがいた。

「どうしたの? ぼーっとして……」

「ご、ごめんね。テスト終わった?」

「ん。これでいい?」

受け取った答案用紙は、ほとんど全てが埋まっていた。

書いてある数式もぱっと見ちゃんとしているし、字も綺麗だ。

「じゃあ、採点しちゃうね。ちょっと待ってて」

「分かった。その間ゲームしててもいい?」

「え? べつにいいけど……」

「ありがと」

言うと、彼は脇目も振らずヘッドホンを装着し、目の前の画面に向き合った。大きなゲーミングPCが大きな駆動音を上げ、画面いっぱいに綺麗な風景のログイン画面が浮かび上がる。彼は自分のアバターを選んで、マップ上の荒野へと駆けだした。

私はやったことないけれど、テレビのCMとかでもやっている有名なやつだった。荒野に出現するモンスターを倒し、ドロップした素材で何かを作ったり、家を建築したりするRPG。いつぞや同僚が、「スマホ版でウン万円課金して爆死した」とか言っていた気がする。

――…あっと、いけない。さっきから集中力なさすぎだぞ、私。

すぐに彼の解いたテスト用紙の採点に取り掛かる。

私の受け持つ科目は理数全般。高校一年生だと理科が生物と物理に別れるので、数学基礎、物理基礎、生物基礎の三つが私の教えられる教科になる。

(……お、全問正解)

数学は満点。証明式の文章のクセにさえ目をつむれば理解力は文句なし。続く物理基礎も、やはり計算や公式の理解にムレはなく、淡々と解いている印象を受けた。しかし。

(……あれ?)

生物基礎になると、空欄が目立つようになった。さまざまな生物の体の構造を筆頭にして、課題ごとにどんどん空欄と暗記ミスが増えていく。

(……暗記系は、苦手なのかな)

得意不得意はしかたがないが、どうも抜けている部分が顕著な気がする―……。

わずかな疑問を抱えながらも採点はスムーズに終わり、私は赤ペンを置いた。

「採点、終わったよ。……子安くん?」

彼はヘッドホンをしているからか、私の声に気づいていないようだった。

「おーい。子安くーん」

「え? ……あ、ごめんなさい」

一言謝ると、彼はすぐにヘッドホンを取ってアバターの動きを停止させた。PC画面には、大きく『メニュー』とかかれた画面が広がっている。

「……そんなに、夢中になるほど楽しいの?」

「うん。まあ、勉強よりは楽しいかな」

どこか、他人事のように彼は言った。

「……そっか」

「怒ってる?」

「お、怒ってなんかないよ。いやだなあ。……こほん。これが、今回の採点結果です」

咳払いをしてから、私は教師モードの声音で点数を読み上げた。

「数学が百点、物理も百点……そして、生物が十八点でした」

「……うーん」

彼はさほど驚いていない顔色で、ほとんどがレ点で埋まった生物の答案を見ていた。

「これ……先生はどう思った?」

「どうって、生物のこと?」

「うん。僕、これ以外はけっこうできてるでしょ? でも、これだけできないからさ。他の教師の人たちは、僕のこの点数見ると、けっこう面倒くさそうな顔するんだけど……」

彼は、覗き込むように私を見つめた。

「……そんな。めんどくさいなんて、思うわけないじゃん。だって、教師なんだから。生徒の分からない問題に寄り添うのは、当然のことでしょ?」

「……そっか」

そこで子安くんは、安心したように息を吐いた。

「よかった――先生が、優しそうな人で」

それは、さっきまで私が見ていた彼の、どんな表情とも違った。

ゲームと向き合っているときの夢中な表情でも、自分の得意分野をひけらかすときの、余裕のある表情でもない。

それは、安堵だった。

(――……どうして)

彼は心配していたのだ。

自分の不出来を、誰かに指摘されるのが嫌だったのだ。

彼は、他の教師たちがこの点数を見ると「面倒くさそうな顔をする」と言った。

そんな理不尽が、生徒である彼を苦しめていたことが。

どうして――と、心中で問わずにはいられなかった。

「……心当たりはあるの?」

「え?」

「生物だけ苦手な心当たり。もしあるなら、話してくれないかな」

単純に暗記が苦手なだけだというなら、別にそれでいいのだ。でも、ここまで聡明な子だ。何か他に、特別な理由があるのではないだろうか。

「……小学生のとき」

ぽつり、と雨をこぼすように彼は語った。

「散歩している最中だった。踏んだって感触もなくて、でも、シューズの裏を見たら――…ぺしゃんこになった黒い模様みたいな死体が、べったり貼りついてて……」

彼は、恐怖に抗うように自分の肩をひしと抱いた。

「……アリや虫だって生き物だ。小さくったって、生きているんだよ。なのに僕は、それを踏んずけて殺した。……怖いんだ。あの日以来、外を歩くのが怖くなった……ただ散歩をしているだけで、僕は何百という小さい命を奪っているかもしれないって思うと……。足が、震えて動かないんだ……あれ以来、生き物がぜんぶ怖く見えて……それでッ……」

「子安くん……」

不安げに揺れる瞳が、私への理解を気にしていることを物語っていた。

彼の言葉にならない、生物に対する、恐怖を。

「……うん、分かった。ありがとう。話してくれて」

私は彼の頭を抱いて、優しく撫でつけた。

「不安だったね。よく頑張ったね―……」

「っ…!?」

――髪の毛が、サラサラしてる。男の子にしては長い髪だけど、触っていて気持ちがいい。しばらく無心でそうしていると、段々と抱いている彼の頭が熱くなっていった。

「……………あっ」

私は飛びずさるように後ろの方に下がった。

しまった、つい元カレにしてたみたいに……! セクハラかな!?

「ご、ごめんね!? つい、クセというか何というかでして……!」

「い、いや……べつにいいんだけどさ……」

彼はそわそわと前髪をいじりながら、「こほん」と咳払いを挟んで。

「とにかく。僕――学校に戻りたいんだ。今までオンラインとかで授業受けてたけど、やっぱり、ちゃんと外の世界で学びたいから。だから、そのためにも、今の苦手を克服したい。僕、けっこう面倒くさい人間だけど……手伝ってくれますか? 真里谷先生」

「……うん! 任せてよっ」

今までの教師がどうだったかは知らないが。

私は必ず、子安くんの家庭教師を務めて見せる。

「……あ、そういえば」

私はバックから、例の物を取り出した。

「……アネモネ?」

「造花だけどね。よければどこかに飾ってね」

改めて考えてみたら、イマドキの子どもに造花とは……と、内心ため息をついたが。

「……ありがとう」

彼は両手でそれを取って、薄く微笑しながら喜んでいた。

……まあ、結果オーライならそれでいいや。

「ん。……ごめん、ちょっとお手洗い借りてもいい?」

「この部屋を出たら、リビングのつき当りを右だよ。じゃあ、はい」

「……これは?」

「透明な即席の便座カバー。必ずつけてね」

「あ……はい」

や、やっぱり潔癖症なのだろうか―……。

お手洗いから戻ると、彼はちゃんとした姿勢でデスクの前に座っていた。

「じゃあ、授業再開しようか」

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