二章 Shapes Of Love

4月10日の金曜日。時刻は22時ちょっと過ぎ。瀬那をつれて帰宅してから30分くらいあと。俺は風呂上りの気だるさに侵されながらベッドに倒れこんでいる。

型落ちのスマホが震えた。着信。


「もしもし、どちらさん?」


 応答する前に相手が誰かは分かっている。ただのユーモアだ。


『まだ起きてたかい?』


 瀬那の声色に眠気はない。きっと授業中に昼寝をしていたんだろう。あいつ、窓際の席だから。


「起きてるよ。どうした?」

『今から君の所に行ってもいい?』

「俺の部屋にか?」

『うん』


 別に構わない。今までも何度か夜中に上がり込んできたことがある。

俺が意識さえしなければ、問題ない。要は俺次第だ。


「別にいいけど。何かあるのか?」

『さぁね。ボクがお邪魔するのは嫌かい?』


 その言い方はズルいな。元から断るつもりはなかったが、断るという択が完全に消滅した。


「……鍵開けとくから来いよ」

『助かる』


 俺からの返答を待たずに電話は切られた。枕元にスマホを置き、窓の鍵を開ける。再びベッドに戻り、待っている間の隙間を埋めるために、天井の模様を数える。


「分かってんのかな、俺が瀬那のことを好きってことの意味」


 恋愛感情の根幹は性欲なのだ。それを分かっていない。いい加減にそれを理解してほしい。でも、俺以外にこういう事をしないのがせめての救いなのか。

 天井の模様を二百個ほど数えた時、ガラガラと窓が開く。涼しい春の風が吹き込んだ。決して広くないこの部屋を春夜の香りで満たすのにさほど時間は必要ない。


「やぁ、急に悪いね」


 白いシャツ一枚というラフすぎる格好で瀬那が上がり込む。


「別にいいよ」


 どれだけ迷惑を掛けられても、その相手が好きな人なら許せてしまうのが恋する男子の心情だ。単純にチョロいだけなんだけど。


「相変わらず君のベッドは気持ちが良さそうだね」


 部屋に入るなり、瀬那は俺が横になっているベッドに、腰を下ろした。距離が近い。いつも通りの距離感。


「寝たきゃ勝手に寝てろ。俺も勝手に寝る」


 心臓の音を隠すには、素っ気ない態度を取るしかできない。俺は不器用だからな、うん。

 瀬那に背を向けて、瞼を下ろす。


「そうさせてもらうよ」

「は?」


 視線を向けるよりも前に、瀬那は俺のベッドに寝ころんでいた。


「……お前なぁ」

「久しぶりだね。こうして君とベッドで寝ころぶの」


 ざわつく俺の心には興味が無いようで、瀬那は俺の眼を見て呟いた。


「俺に何か話したいことがあるんだろ? 聞いてやるよ」


 瀬那が過去の話を持ち出すときは、話したいことを抱えている時だ。経験則からして。


「………」


 口を閉ざす。その瞳はまっすぐ俺を見つめている。左手が俺の右手に触れる。


「瀬那?」

「……」


 呼び掛けても、口を開こうとはしない。白いシャツの首元から覗く白い肌が俺の理性にチクリと棘を刺して攻撃してくる。必死に耐え凌ぐのは楽じゃない。

 物憂げな少女の瞳がだんだんと光を失っていく。


「大丈夫か?」

「……ごめん、急に眠くなってきた………」

「へ?」


 次の瞬間には瀬那の瞼は完全に下りていた。電話越しではあんなに元気そうだったのに。

瀬那は俺の右腕を抱き枕のように抱きしめる。全世界の男子が喜ぶ感覚が二の腕辺りに流れる。


「……夜は下着つけないんだな」


 しかしまぁ、この感触は悪くない。実に良い。

いかん、これじゃあ俺が変態みたいだ。


「……やめとくか」


 起こそうと思った。けど、こんなにも心地よさそうに眠っているのを、遮ることが出来ない。何より、この愛おしい寝顔を俺はもう少し見ていたい。そう思ったんだ。

 やっぱり俺は瀬那のことが好きなんだな。

さらさらで艶やかな髪を撫でる。ほんのりとシャンプーかリンスか分からないけど、花の香りがした。いい匂いだ。今すぐ、その細い体を力一杯に抱きしめてみたいと思う。

寝ている相手にそんなことは出来ないんだけど。


「……梢江」


 寝言か。俺の名前だったら嬉しかったんだけどな。

瀬那の寝顔を見ながら眠りにつこうとしたとき、スマホに再び着信。


「大和…?」


 彼女は超健康優良児だ。二十三時を回ろうとするこんな時間に電話をかけてくるとは珍しい。


「もしもし?」

『こんばんは、長門くん。もしかして寝てた?』

「いや、大丈夫。まだ起きてたよ」


 こういう気遣いが実に彼女らしい。きっと男子からモテるに違いない。


『そう? なら良かった』

「それよりどうしたんだ? こんな時間に電話してくるなんて珍しいな。何かあったのか?」


 大和は少し口が重たそうだ。何から話そうか悩んでいるよう。


『瀬那のね、ことなんだけど。今日少し変じゃなかった?』

「変? 瀬那が変なのはいつものことだろ?」


 悪く思うなよ、瀬那。お前はお墨付の変人だ。良くも悪くも。


『たぶん瀬那は悩んでることとか、辛いこととか、私には話してくれないの』

「そんなこと、ないと思うけど」


 そりゃ話すわけないよな。瀬那の悩みっていえば、大和関係なわけだし。


『ううん。そんなことあるよ。中学のときの事も、私は知らなかった。長門くんが解決してくれたんだもんね』


 中学の時の事件は瀬那を変えてしまったんだと思う。大事に至る前に鎮静化できたのは幸いだった。大したことじゃない。俺はただ、好きな子の為に動いただけだ。


「たまたまだ」

『長門くんがそう言うなら、そういうことにしておくよ。だから、瀬那が悩んでいたら助けてあげてね』

「……え、あぁ」

『どうかしたの?』


 変な形で返事をしてしまったのは、目線が重なったせいだ。袖口を引っ張られた。


「何でもない」

(瀬那、起きてたのか)


 マイクが拾わないくらいの小声で話しかける。距離は五センチよりも近い。


(ボクから梢江に乗り換えたのかい?)

(断じて違う)


 悪い笑顔をしている。何かを企んでやがる。


「にゃ……にゃぁ」

「っ⁉」


 こいつ………鳴きやがった。可愛い声してやがるぜ、畜生め。

しかし猫の鳴き声のクオリティはめちゃくちゃ低い。


『長門くん、今誰かと一緒なの?』

「あ、いや……別に」

『でも、猫の鳴き声みたいな女の人の声が聞こえたけど……』


 くそ、せめて瀬那の猫の真似のクオリティが高かったなら、言い逃れが出来たというのに。

というか、わざと下手に鳴いたな。


『もしかして恋人さん、とか?』

「はい? なんだそりゃ」

『もし、彼女さんとかと一緒にいたら悪いことしちゃったなと思って』


 ふむ、そういう気遣いは実に大和らしい。だが、的外れだ。残念ながら一緒に居る相手は、恋人なんて微笑ましいものではなくて、振られた相手だからな。

状況だけ見れば気まずいかもしれない。

 当の瀬那は声を抑えて笑っている。目尻に涙なんか浮かべやがって。


「ごめんごめん。私だよ、梢江」


 俺の手からスマホを奪い取り、スピーカーにして正体を明かす。目的はよく分からないが、たぶん面白そうだから、とかそんな感じだろう。


『瀬那……?』

「そうだよ。伊吹なんかに恋人が出来るわけないじゃないか。しかも、こんな時間に女子と二人でいるほどの甲斐性はないよ」


 相変わらず涙を浮かべながら笑っている。何がそんなに嬉しいんだよ。意味わからん。


『瀬那は、どうして長門くんと一緒にいるの?』


 確かに、それは当然の疑問だ。あれ? なんでだろう??


「私は寝たいって言ったんだけどさ。伊吹がどうしても部屋に来てほしいっていうから、お昼ご飯を奢る代わりに来てあげたんだ」

「おいこらてめぇ。嘘八百言ってんじゃねぇ」

『そっか……相変わらず仲がいいね。羨ましい』


 大和の発言はよく分からない。どこをどう見れば仲が良さそうに見えるのか。

とりあえず誤解を訂正するために、スマホを奪い返し、スピーカーを切る。


「瀬那の言う事は信じないでくれよ。実際、突然訪ねてきたのは瀬那のほうだからな」

『……うん。分かってるよ。ごめん、私もう寝るね。おやすみ』

「あぁ、おやすみ」


 余韻もなく、電話は切られた。余程眠たいのだろうか。ぜひとも快眠を取ってほしいものだ。


「ねぇ、伊吹」


 俺のベッドの上で体育座りをした瀬那は、艶やかで眩しい。白いシャツの裾から覗く太もものせいで、視線をそちらに向けられない。


「あん? なんだよ」


 ちょっと機嫌が悪そうに返事してみる。たぶん瀬那には通じないけど。


「弁明は聞くよ?」

「なんのだよ」


 いや、本当に何の弁明だよ。


「君はボクのことを好きだと言ってくれたよね? そして、ボクが梢江のことが好きなのも知っている。だというのに、ボクを横目に梢江と電話をしていた。これはもう立派なNTRですよ伊吹さん」

「意味が分からん」


 意味が分からん、マジで。


「ボクと二人でいるときくらいは、ボクのことだけを見ててくれよ……お願いだから」


 両腕で抱えた膝に顔を隠して、瀬那は呟いた。どこか寂し気で、苦しそうに。

それは随分と我儘な主張だ。けどまぁ、瀬那だしな。

惚れた方の負けだ。


「具体的に俺は何をすりゃいいんだ?」

「今夜はこの布団、ボクにも使わせてよ」

「俺はどこで寝ろと?」


 瀬那がポンポン、と布団を叩いた。


「ボクにも使わせてって言ったけど」


 回りくどい。素直に言えんのか、お前は。


「あいよ」


 俺的には理性との闘いになるから、あんまり添い寝はしたくないんだけど。

布団に横になると、俺の背中に瀬那がしがみ付いてきた。俺は臨戦態勢に入る。


「ごめんね。わがままで」


 そんな中で呟かれた言葉は、ひどく弱々しかった。


「わがままなくらいが瀬那らしくて、俺は好きだよ」


 瀬那はトラウマを抱えている。誰かから抱かれる好意に。中学生の時に酷い裏切りを受けたのが原因だ。もちろん裏切った奴には俺からそれなりの制裁を加えている。合法の範囲で。

症状も少しは回復してきたが、それでもまだ俺に縋るときがある。それは、絶対に俺が裏切らないと信用しているからだと本人が言っていた。


「本当に君は良い男だよ。ボクは君がいなきゃ生きていけそうにない」


 その発言は辛い。だったらどうして、大和のことが好きなんだよ、と聞き返したくなるから。それが保険だって知っているから尚更辛いんだ。


「もう寝ろ」

「うん、そうするよ」


 思う所はなくはない。けれど、今はこのままにしておきたい。それは俺のわがままだ。

だって、頼られるのは嬉しいから。

いつか、心の底から誰かの好意に喜べるようにしてやりたい。それが俺からのものでなくても。


◆◇◆


 スマホがベッドから落ちた。拾う気にならない。やけに体が重いし、天井が低く感じる。

気分で見える景色ってこんなに変わるんだ。知らなかった。


「どうして長門くんと一緒に居るのよ、瀬那」


 あの二人は付き合ってないって言ってた。でも、流石にこんな時間まで一緒に居るのは仲が良すぎるんじゃないかなぁ……。

いいなぁ。私だって寝るまで長門くんと話してたいのに。

 秒針の音がやけにはっきりと聞こえる。それと同じくらいに心臓の音もはっきりしていた。

私はドキドキしている。ときめいている。自分が親友に嫉妬するほどに誰かを好きになれたことに。

これが恋をするってことなんだ。初めてだ。


「うふふ……」


 笑みが零れる。気分が晴れた。


「負けないよ、瀬那」


 たとえ親友でも好きな男の子は譲れないからね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ピタゴラス症候群 米 八矢 @Senna8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ